- 勝瑞は阿波守護・細川氏の守護所が置かれ、のちに三好氏の本拠となった土地です。
- 発掘された城館跡には土塁がありません。守るための城ではなく、住んでもてなすための館でした。
- 幅十五メートルを超える大規模な区画溝が見つかっています。
- 庭園跡が出て、茶道具や書道具が出土しました。
- 長宗我部に攻められたとき、慌てて別に「勝瑞城」を築いています。
勝瑞は、阿波の政治と文化の中心だった土地です。細川氏が守護所を置き、そのあと三好氏が本拠としました。発掘調査でわかったのは、ここが戦うための城ではなかったということです。城館跡には土塁がなく、かわりに庭園跡が出て、茶道具や書道具が出土しています。戦国の城としては異例です。そして長宗我部に攻め込まれたとき、三好方は別の場所に慌てて城を築くことになります。
守護所は、最初ここになかった

国史跡「勝瑞城館跡」の案内板。発掘の成果が写真つきで示されています。
現地の案内板によれば、阿波守護の細川氏は当初、秋月(現在の阿波市)に守護所を置いていました。それが後に勝瑞へ移されます。
移転の時期には諸説がありますが、遅くとも十五世紀の後半には、勝瑞に守護所が置かれていたと案内板は記しています。
その後、阿波の実権を握った三好氏もまたここを本拠としました。中央の政権で活躍した細川氏と三好氏、その両方の本拠地だったわけです。阿波の政治・経済・文化の中心地と案内板は書いています。
土塁がない ― 発掘でわかった、この城の正体
ここがこの城のいちばん面白いところです。
区画溝の幅十五メートルというのは、堀としてなら相当なものです。ただ、土を掻き上げて土塁にしていない。水を巡らせて区画を示すための溝であって、敵を止めるための堀ではなかったと考えられます。
茶道具が出るということは、ここで茶が行われていたということです。三好の本家は畿内で天下に近づいた家であり、阿波の本拠もそれにふさわしい場所として整えられていました。
天正十年、長宗我部が攻め込んでくる

勝瑞城跡。館とは別に、急いで築かれた城のほうです。
案内板はこう書いています。「基本的に平穏な日々が続いた守護の勝瑞でしたが、天正期に入ると一気に激動の時代となり」—そして勝瑞城跡が築かれます。
天正十年八月、土佐の長宗我部が勝瑞へ攻め込みました。中富川の戦いです。三好勢は一か月ほど勝瑞城に籠城しましたが、城主の十河存保は持ちこたえられませんでした。
住むための館しか持っていなかった土地が、急に戦場になったわけです。
城を追われた十河存保は、どこへ行ったのか
勝瑞を失った十河存保は、このあと秀吉に従います。そして四国攻めのあと讃岐を与えられました。
その存保が戦死するのが、九州の戸次川です。長宗我部信親とともに討たれました。阿波を長宗我部に追われた男が、最後は長宗我部の嫡男と並んで死んでいます。
三好の名は、どこへ流れたか
阿波三好氏の血は、このあと妙なところへ流れます。三好の長老・三好康長が秀吉の甥を養子に迎え、その子が「三好信吉」と名のりました。のちの豊臣秀次です。
三好康長とは何者か:信長に二度許された三好の長老と、秀吉の甥を迎えた養子縁組
畿内を制した家の名は、こういう形で終わります。
発掘は、いまも続いている

勝瑞城館跡。調査が進むたびに、館の姿が広がっています。
案内板によれば、本格的な発掘調査が始まったのは平成六年度からです。溝、庭園、礎石建物跡といった良好な保存状態の遺構が次々に見つかり、「全国的に見ても一級品」と評価されました。
国史跡に指定されたあとも発見が相次ぎ、二度にわたって指定範囲が追加されています。調査するたびに館が広がっていったということです。
石垣も天守もない城跡ですが、地面の下から出てきたものの質では、四国でも屈指の場所です。
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勝瑞城跡・勝瑞城館跡へのアクセス
徳島県板野郡藍住町勝瑞。城跡と城館跡は別の場所にあり、歩いて移動できる距離です。
城館跡のほうは広い史跡公園として整備が進んでいます。

