戦国時代の鉄砲はいくらで、どうやって手に入れたのか|中川大志が演じる才蔵が『真田十勇士』第2話で求める鉄砲 ─ 一挺の値段、玉と火薬、大坂方の堺占領

堺の鉄砲鍛冶の店先で、武士が商人から火縄銃を買い求めるようす(イラスト)
この記事のポイント
  • 戦国時代の鉄砲は、鉄砲鍛冶に注文してつくらせるか、堺などの商人から買うのがふつうでした。大名は鍛冶の村をまるごと抱えこみ、家臣には決められた数の鉄砲を自前でそろえさせました
  • 一挺の値段をはっきり書いた史料はほとんどありません。小田原北条氏の軍役の記録から、天正9年(1581)ごろの一挺はおよそ八貫五百文、職人の日当で百七十日分ほどだったとする推計があります
  • 鉄砲は買っただけでは撃てません。火薬の原料の硝石(焔硝)と、玉にする鉛の多くは海外からの輸入で、玉薬をそろえ続けることのほうが大きな負担でした
  • 慶長19年(1614)10月、大坂方は冬の陣を前に堺へ兵を出し、町を押さえて軍需品を差し出させました。大坂城に集まった浪人たちの武具も、豊臣家の金銀に支えられていました

10月30日に放送されるドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』第2話では、九度山を出る決意をした幸村(安藤政信さん)のために、霧隠才蔵(中川大志さん)が鉄砲を手に入れようと動き、猿飛佐助(岩本照さん)がそれに同行します。では、戦国時代の終わりに鉄砲を手に入れようと思ったら、どこへ行き、いくら払えばよかったのでしょうか。この記事では、鉄砲の値段と買い方、そして撃つために欠かせない玉と火薬の手に入れ方を、大坂の陣のころまでたどります。鉄砲の産地や、家康が大筒や大砲を集めた話は「家康は大坂の陣の前に鉄砲や大砲を買い集めたのか」で詳しく紹介しています。

目次

鉄砲は「注文してつくらせる」もの

天文12年(1543)、種子島に流れ着いた船のポルトガル人から、島主の種子島時尭が鉄砲を手に入れたのが、日本の鉄砲の始まりとされます。種子島家に伝わる『鉄炮記』では、時尭は値の高さをいとわずに二挺を買い求めたとされ、のちには「二千両」で買ったとも語られるようになりました。時尭はすぐに島の鍛冶に同じものをつくらせ、ここから鉄砲づくりが各地へ広がっていきます。

その後、鉄砲は国内でつくられるものになりました。和泉の堺、近江の国友、紀伊の根来や雑賀などに鉄砲鍛冶が集まり、大名たちは彼らに注文して鉄砲を打たせました(国友鉄砲の里/根来衆とは何者だったのか)。鉄砲は店先に並んだ品を一挺ずつ買うものではなく、口径や長さを決めて数十挺、数百挺とまとめて注文するものだったのです。力のある大名ほど、鍛冶の村に保護や特権を与えて、自分のためだけに鉄砲をつくらせようとしました。

国友鉄砲ミュージアムに展示された火縄銃と大筒
国友鉄砲ミュージアム(滋賀県長浜市)の火縄銃と大筒の展示

一挺はいくらだったのか

鉄砲一挺の値段を、はっきり書き残した史料はほとんどありません。手がかりの一つが、小田原北条氏が家臣に課した軍役の記録です。天正9年(1581)、ある家臣に負わせた二十貫文の負担の中に「鉄炮侍」二人分が含まれていて、そこから鉄砲は二挺で十七貫文、一挺あたりおよそ八貫五百文と見積もる研究があります。北条領の職人の日当はおよそ五十文とされるので、一挺は職人の百七十日分ほどの稼ぎにあたる計算です。現代の感覚にすると、一挺で五十万〜六十万円ほどとも試算されています。

もちろん、これは一つの推計で、鉄砲の出来や時期、注文の数によって値段は大きく違ったはずです。ただ、足軽一人が気軽に買えるような品ではなく、何百挺もそろえるには大名の財力が必要だったことは確かでしょう。織田信長が長篠の戦い(1575)で千挺とも三千挺ともいわれる鉄砲をそろえられたのも、堺や国友を押さえ、豊かな経済力をもっていたからでした。

手に入れ方 どんなものか
鉄砲鍛冶に注文する 大名が国友や堺の鍛冶に、口径や数を決めてまとめてつくらせる。鍛冶の村を保護して抱えこむことも多かった
商人から買う 堺の豪商などが、鉄砲や玉薬を仕入れて大名に売る。信長に仕えた今井宗久のように、鉄砲と火薬の商いで力をもった商人もいた
家臣にそろえさせる 大名は所領の大きさに応じて、家臣に連れてくる兵と鉄砲の数を決めた(軍役)。家臣は自分の負担で鉄砲と撃ち手を用意した
戦で奪う 勝った側が、負けた側の城や陣から鉄砲や玉薬を手に入れることもあった

買っただけでは撃てない ─ 玉と火薬はどこから来たのか

鉄砲を撃つには、火薬と玉が要ります。当時は二つを合わせて「玉薬」と呼びました。火薬は硝石(焔硝)に硫黄と木炭を混ぜてつくりますが、硫黄と木炭は国内で手に入る一方、肝心の硝石は日本ではほとんどとれず、中国や東南アジアから船で運ばれてくるものに頼っていました。玉にする鉛も国内の鉱山だけでは足りず、最近の研究では、長篠の戦いで使われた玉の中に、タイの鉱山の鉛でつくられたものがあることがわかっています。

つまり、鉄砲を戦で使い続けるには、南蛮船や唐船が着く港と、輸入品を扱う商人とのつながりが欠かせませんでした。西国の大名の中にキリスト教を受け入れる者が多かったのも、南蛮貿易を通じて硝石や鉛を手に入れたかったからだという見方があります。鉄砲そのものは一度買えば長く使えますが、玉薬は撃てば撃つだけなくなります。大名にとっては、鉄砲を買うことより、玉薬を切らさずにそろえ続けることのほうがずっと重い負担でした。のちには越中の五箇山などで、土や草を使って硝石をつくる方法も行われるようになります。

▽ よく語られる話
戦国大名は、鉄砲をたくさん買いそろえた者が強かった。
▼ 史実ではこうです
鉄砲の数だけでなく、玉薬をどれだけ確保できたかが勝敗を分けました。長篠の戦いを調べた研究では、織田方が海外産の鉛の玉や火薬を使っていたのに対し、武田方の玉は国産の鉛が多く、火薬の入手にも苦しんでいたのではないかと考えられています。港と商人を押さえた大名ほど、鉄砲を存分に撃つことができたのです。

大坂の陣の前、豊臣方はどうやって武器を集めたのか

慶長19年(1614)、方広寺の鐘銘をめぐって徳川家との仲が決裂すると、豊臣家は戦の支度を急ぎます。けれども国友の鍛冶はすでに家康に押さえられていて、豊臣方は思うように鉄砲を注文できる立場にはありませんでした(家康は大坂の陣の前に鉄砲や大砲を買い集めたのか)。そこで目を向けたのが、大坂のすぐ南にある鉄砲と商いの町・堺でした。

10月12日、大野治房らの兵が堺へ向かい、翌13日には町を押さえて軍需品を差し出させました。堺を治めていた堺政所の芝山正親は、兵が少なく岸和田城へ逃れ、町に残った弟の正綱は討ち取られたと伝わります。徳川方とつながっていた今井宗薫と父の宗呑は大坂城へ連れ去られ、今井家の財産は取り上げられました。豊臣方はこのころ、大坂にあった諸大名の蔵屋敷の米も押さえて、籠城の兵糧にしたといわれます。

しかし、豊臣方の兵の乱暴で、堺の人びとの心は徳川方へ傾きました。徳川の大軍が近づくと豊臣方は堺から引き上げ、町は徳川方の補給の拠点になります。翌慶長20年4月、夏の陣を前に、大坂方の大野治胤が堺に火を放ち、町は焼け落ちました。鉄砲と玉薬の町を味方につけられなかったことも、豊臣方の苦しさの一つだったといえるでしょう。

夏の陣を前に大坂方に火を放たれ、燃え上がる堺の町と逃げる町人たち(イラスト)
慶長20年(1615)4月、大坂方に焼き払われた堺(イメージ)

浪人たちは自分の鉄砲を持ってきたのか

大坂城には、関ヶ原のあとに主家を失った浪人たちが、十万人ともいわれるほど集まりました(大坂城に浪人はなぜ十万人も集まったのか)。もとは大名や家臣だった者も多く、手元に残した武具を持って城に入った者もいたでしょう。けれども、長い浪人暮らしで武具を手放していた者も少なくなかったはずです。

このとき大坂城に入った、名の知られた元大名や武将には、次のような人びとがいます。

人物 大坂入城までの身の上
真田信繁(幸村) 信濃上田の真田昌幸の次男。関ヶ原で西軍につき、紀伊の九度山に流されていた
長宗我部盛親 土佐一国の元大名。関ヶ原のあと領地を取り上げられ、京で寺子屋の師匠をしていたと伝わる
毛利勝永 豊前小倉の毛利吉成(勝信)の子。関ヶ原のあと父とともに土佐の山内家に預けられていた
明石全登 備前の宇喜多秀家の重臣で、キリシタンの武将。主家が取り潰されたあと各地に身を隠していた
後藤基次(又兵衛) 黒田家の重臣だったが、主君の長政と不和になって出奔。他家への仕官を黒田家に阻まれていた
南条元忠 伯耆の羽衣石城の元城主。関ヶ原で西軍につき、領地を失っていた
仙石秀範 信濃小諸の仙石秀久の子。関ヶ原で西軍につき、父から勘当されて浪人になっていた
大谷吉治 関ヶ原で討死した大谷吉継の子。父の死後、浪人の身となっていた
塙直之(団右衛門) 加藤嘉明に鉄砲大将として仕えたが、主君と衝突して出奔していた

真田信繁・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登・後藤基次の五人は、のちに「大坂五人衆」と呼ばれるようになります(大坂の陣の武将については、姉妹サイト「日本の戦国武将図鑑」の大坂の陣の武将一覧もあわせてどうぞ)。もとは一国や一城の主だった人びとでも、長い浪人暮らしのあとでは、昔のように家来や鉄砲を自前でそろえる力は残っていない者がほとんどでした。

豊臣家は、秀吉が遺した金銀を使って浪人たちを雇い入れました。真田信繁には黄金二百枚と銀三十貫目が支度金として与えられたと『駿府記』は伝えています(大坂城の浪人はどう雇われたのか)。支度金という名のとおり、こうしたお金は、家来を集め、鎧や鉄砲、玉薬をそろえるための元手でもありました。九度山で暮らしに困っていた信繁が大坂城で一軍の将になれたのも、豊臣家の金銀があったからこそでした。

ドラマ『真田十勇士』第2話と鉄砲

公式のあらすじによると、第2話では、幸村に九度山からの脱出の手助けを頼まれた佐助が、敵討ちと褒美を目当てに引き受け、鉄砲を手に入れようとする才蔵に同行します。九度山の真田家は、紀伊の浅野家に見張られ、暮らしにも事欠く身の上でした。そんな中で鉄砲を手に入れるのは、史実に照らしても簡単なことではなかったはずです(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。

十勇士には、鉄砲の名手として知られる筧十蔵(ジョエル・ディカーソンさん)もいます。才蔵がどこで、どんな手を使って鉄砲を手に入れるのか、玉薬まで手当てできるのかにも注目したいところです(筧十蔵はイギリス人だったのか/『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。

よくある疑問

Q. 戦国時代の鉄砲は一挺いくらでしたか?
A. はっきり書いた史料はほとんどありませんが、小田原北条氏の軍役の記録から、天正9年(1581)ごろの一挺はおよそ八貫五百文、職人の日当の百七十日分ほどとする推計があります。

Q. 鉄砲はどこで買えたのですか?
A. 堺や国友、根来、雑賀などの鉄砲鍛冶に注文してつくらせるか、堺などの商人から買うのがふつうでした。大名は家臣にも、軍役として決められた数の鉄砲をそろえさせました。

Q. 火薬や玉はどうやって手に入れたのですか?
A. 火薬の原料の硝石はほとんどが中国や東南アジアからの輸入で、玉にする鉛も海外産のものが多く使われました。港と商人とのつながりが欠かせませんでした。

Q. 大坂の陣で豊臣方はどうやって武器を集めたのですか?
A. 慶長19年10月、豊臣方は堺へ兵を出して町を押さえ、軍需品を差し出させました。浪人たちの支度金など、秀吉が遺した金銀も武具をそろえる元手になりました。

まとめ

戦国時代の鉄砲は、鉄砲鍛冶に注文してつくらせるか、商人から買うもので、一挺が職人の半年分ほどの稼ぎにあたる高価な品だったと考えられます。しかも、撃つための硝石や鉛は海外からの輸入に頼っていて、鉄砲を使い続けるには港と商人を押さえる力が必要でした。大坂の陣の前、国友を家康に押さえられた豊臣方は堺に兵を出して軍需品を集めましたが、堺の心をつかむことはできませんでした。ドラマの才蔵が鉄砲を求めて動く背景には、こうした鉄砲と玉薬をめぐる争いがあったのです。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

▶ 豊臣秀長 関連記事 ─ 大河『豊臣兄弟!』とあわせて読みたい
大河ドラマの回ごとの史実解説は 大河『豊臣兄弟!』特集ページ にまとめています。
  • URLをコピーしました!
目次