- 畠山義継が降伏を決めたとき、家中が頼みにしていたのは「伊達に奉公すれば本領は安堵される」という話でした
- ところが実際に示された条件は、五ヶ村を残してあとは召し上げ。大名としては終わりに近い内容です
- 取りなしてくれたのは、隠居していた伊達輝宗でした。義継にとっては最後に頼った相手です
- 天正十三年十月八日の朝、義継はその輝宗を連れ去り、同じ日に阿武隈川のほとりで追いつかれました
伊達政宗の父・輝宗が世を去った一件は、「畠山義継が輝宗を拉致し、政宗が父もろとも討たせた」という形で語られます。ただ、なぜ義継がそんなことをしたのかまで説明されることは、あまりありません。追い詰められた男の自暴自棄、で片づけるには引っかかるところがあります。この記事では、降伏交渉の中身から順にたどってみます。
ことの起こり ─ 大内定綱をかくまった
天正十三年、家督を継いだばかりの政宗は、従う従わぬを繰り返していた大内定綱を攻めます。小手森城を落とした際の仕打ちは、周囲の諸家を震え上がらせました。
逃れた定綱が頼ったのが、二本松城の畠山義継です。義継は定綱の娘を妻に迎えていました。縁者をかくまうのは当然のようでいて、相手が政宗となると話がちがいます。九月、政宗は小浜城に入り、義継に対して二本松を攻めると告げ、嫡子の国王丸を人質に差し出すよう命じました。政宗がこの時期に何をしていたかは伊達政宗:出生から家督相続 摺上原の戦いまで(前編)にまとめています。
降伏の条件 ─ 五ヶ村を残して召し上げ
十月に入り、義継は降伏を申し入れます。取りなしに立ったのが、隠居していた輝宗と、政宗の叔父にあたる伊達実元でした。ところが示された条件は厳しいものでした。五ヶ村を残して、あとは召し上げ。城も領地もほとんど失います。
義継は戦う道を唱えたと伝わります。しかし家中には「伊達に奉公すれば本領は安堵される」という話が伝わっており、そちらを信じた者が多く、結局、戦は見送られました。頼みの綱だった実元は病床にあり、話は輝宗のもとへ渡ります。
三日のあいだに起きたこと
十月六日、義継は宮森城に輝宗を訪ね、降伏を告げます。翌七日には小浜で伊達成実と会っています。そして八日の早朝、ふたたび宮森城へ出向いて礼を述べ、見送りに玄関へ出た輝宗を、その場で捕えました。
成実と留守政景がただちに兵を出し、阿武隈川のほとりの高田原で追いつきます。二本松勢は五十余名、取り囲まれて討たれました。輝宗も、生きて戻りませんでした。
なぜ連れ去ったのか ─ 三つの見方
義継の意図を本人が書き残したわけではありません。語られてきたのは、おおよそ次の三つです。
| 見方 | 中身 | 弱いところ |
|---|---|---|
| 条件を覆すため | 輝宗を押さえれば、改易の話を引き戻せると考えた | 政宗が父の命と引き換えに条件を変える保証はない |
| 二本松まで連れ帰るため | 城に入って籠城し、交渉の材料にするつもりだった | 宮森から二本松までは追いつかれる距離にある |
| とっさの行動 | 追い詰められた末の、その場の判断だった | 前日に成実と会うなど、動きに準備の跡が見える |
どれも決め手を欠きます。ただ、どの見方を取るにしても共通しているのは、義継が輝宗という人を「話の通じる相手」と見ていたことです。取りなしてくれたのも輝宗、降伏を告げに行った相手も輝宗。その輝宗を連れ去ったのは、頼れる最後の一人を手にかけたということでもあります。降伏の条件が家中に伝わっていた話とちがっていた、という食いちがいを思えば、義継の側には「話がちがう」という思いが積もっていたはずです。
輝宗の最期をめぐる、二つの書物
この場面がどう決着したのかについても、伝わり方が分かれています。
| 書物 | 伝えていること |
|---|---|
| 『奥羽永慶軍記』 | 駆けつけた政宗が、父もろとも討たせたとする。よく知られている筋はこちら |
| 『会津旧事雑考』 | 政宗の覚悟を察した義継が、先に輝宗に手をかけたとする |
どちらも江戸時代にまとめられた書物です。同時代の記録で最期の瞬間を確かめることはできません。ただ、伊達家の側に残る『成実記』や『伊達治家記録』も含めて、輝宗が連れ去られ、追撃の場で命を落としたという大筋は共通しています。
政宗が父を討たせたという話が広く知られているのは、その後の政宗という人物の像とよく釣り合うからでしょう。ただ、出どころが後の世の軍記であることは、頭の隅に置いておきたいところです。
そのあと ─ 二本松城と人取橋

十月十五日、政宗は父の弔い合戦として二本松城を攻めます。しかし城は堅く、簡単には落ちませんでした。
十一月、二本松を救うために南奥の諸家が連合し、政宗は包囲を残して南下します。十七日、人取橋あたりで両軍が激突しました。数のうえでは政宗が圧倒的に不利で、この戦いは伊達にとって苦しいものになります。二本松城が落ちるのは、翌年の夏のことでした。城のその後と、江戸期に丹羽氏が整えた姿については二本松城(霞ヶ城)にまとめています。
畠山氏はここで大名としての歴史を終えます。政宗はこのあと摺上原で蘆名を破り、南奥の覇権を固めていきました(伊達政宗:摺上原の戦いから関ヶ原の戦いまで(中編))。
よくある疑問
Q. 畠山義継はなぜ降伏したのですか?
A. 大内定綱をかくまったことで政宗に攻められる立場になり、戦っても勝ち目が薄かったためです。家中には「伊達に奉公すれば本領は安堵される」という見通しがありました。
Q. 降伏の条件はどんなものでしたか?
A. 五ヶ村を残して、あとは召し上げというものでした。大名としては立ち行かない内容です。
Q. なぜ輝宗だったのですか? 政宗ではなく?
A. 降伏の取りなしに立っていたのが輝宗だったからです。義継にとっては、話を聞いてくれる唯一の相手でした。
Q. 政宗が父を討たせたというのは本当ですか?
A. そう伝えているのは『奥羽永慶軍記』で、江戸時代の書物です。『会津旧事雑考』は義継が先に手をかけたとしており、最期の瞬間は確かめられません。
Q. 粟ノ巣の変という名前はどこから来たのですか?
A. 事件が起きた場所の地名によります。粟之巣の変事とも呼ばれます。
Q. 二本松城はいつ落ちたのですか?
A. 変の翌年、天正十四年の夏です。政宗はすぐには落とせませんでした。
まとめ
畠山義継が伊達輝宗を連れ去った理由は、本人の言葉としては残っていません。ただ降伏交渉をたどると、家中が信じていた「本領安堵」と、実際に示された「五ヶ村を残して召し上げ」のあいだに、大きな開きがあったことが分かります。そしてその交渉を取りなしていたのが輝宗でした。頼った相手に連れ去りという形で応えたところに、追い詰められた国人領主の行き場のなさが見えます。輝宗の最期の瞬間については二つの伝えがあり、どちらも江戸時代の書物です。よく知られた「政宗が父もろとも」という話も、そこから来ています。

