十河存保とは何者か:阿波と讃岐を失い、秀吉を頼り、戸次川で長宗我部信親と同じ日に倒れた男

この記事のポイント
  • 十河存保は三好実休の子で、讃岐の十河家を継ぎ、兄の死後は阿波の勝瑞城に入った
  • 長宗我部元親に敗れて阿波と讃岐を失い、畿内へ逃れて秀吉を頼った
  • 四国攻めのあと讃岐に所領を得るが、九州の戸次川で長宗我部信親と同じ日に討ち死にした
  • 負け続けた人のように見えるが、彼が失ったのは兵ではなく後ろ盾だった

十河存保(そごう まさやす)は、四国で長宗我部元親と最後まで向き合った人である。阿波と讃岐という二か国を任され、二度とも守りきれずに国を出た。それでも彼の名が残るのは、四国の勢力図を外から動かした側だったからで、秀吉の四国攻めは、彼のような「追い出された側」が畿内へ持ちこんだ話の延長線上にあった。

▽ よく語られる話
十河存保は長宗我部元親に負け続けた弱い武将で、三好の名を汚して滅んだ。
▼ 史実ではこうです
存保が失ったのは兵の強さではなく、後ろ盾である。三好という家の力はもともと畿内にあり、その畿内を織田が押さえた時点で、阿波の三好は本国から切り離されていた。決定打になったのは本能寺で、四国へ渡るはずだった織田の軍勢が消えた二か月後に、存保は勝瑞城を失っている。
目次

三好の子として生まれ、十河の家を継いだ

存保は三好実休(義賢)の子である。実休は三好長慶の弟で、阿波を預かっていた人物にあたる。その弟が讃岐の十河一存で、存保はこの叔父の家を継いで十河姓を名のった。つまり彼は、畿内を握った三好長慶の一族が四国側に残した枝のひとつであり、生まれたときから「本家は都にいる」家に属していた。

この構図は、のちに効いてくる。三好の強みは阿波や讃岐の石高ではなく、畿内を押さえていることだった。三好康長のように早くから織田方へ身を寄せた一族もいたのは、本国が細くなっていくのを見ていたからである。

なぜ阿波に戻ったのか ── 兄の死

讃岐にいた存保が阿波へ移ったのは、兄の三好長治が家臣に背かれて敗死したからである。跡を継ぐ者がいなくなった阿波へ入り、勝瑞城に拠った。勝瑞は吉野川の下流に開けた平地の町で、石垣も高い土塁も持たない館のような構えだった。守る城ではなく、人と物が集まる場所を治めるための城である。

ただ、このとき阿波の三好はすでに内側から崩れていた。重臣の篠原長房を讒言で討ったあたりから、家を支える柱が抜け落ちていく。そのあたりの経緯は川島城の記事で詳しく触れている。存保が受け取ったのは、名ばかりが残った阿波だった。

国史跡・勝瑞城館跡に立つ案内板

勝瑞城館跡(徳島県藍住町)の案内板。発掘で確かめられた館の範囲と、隣り合う城跡の位置が示されている。存保が入ったのは、この平地の町だった

瀬戸内を望んで立つ十河存保を描いたイラスト

瀬戸内を望む十河存保(イメージ/イラスト)。背にしているのは石垣も高い土塁も持たない平地の城で、勝瑞の構えを想定して描いた

中富川の戦い ── 援軍が消えた二か月後

存保が阿波を失った年は、四国にとって特別な年である。この年の初夏、織田信長は三男の神戸信孝を総大将に、三好康長を先導役として四国へ渡す準備を進めていた。狙いは長宗我部元親の押さえこみで、渡海の日取りまで決まっていた。ところが出航を目前にして本能寺の変が起きる。軍勢は散り、四国へ渡る船は出なかった。

その二か月後、元親は大軍で吉野川を渡り、中富川で存保の軍とぶつかった。軍記物は長宗我部方二万三千、三好方五千と伝えるが、この種の数字は誇張を含むのが常で、そのまま受け取るべきではない。確かなのは、存保が野戦で支えきれず、勝瑞城に退いたのち城を開いて讃岐へ去ったことである。

つまり存保は、来るはずだった援軍が消えたところを突かれている。負けたのは彼の采配というより、彼が立っていた足場のほうだった。元親がこの十年ほどで土佐から外へ広がっていった経緯は土佐統一の記事に、その軍を支えた在地の兵については一領具足の記事にまとめている。

十河存保が二つの国を失うまで出来事天正五年兄・三好長治が敗死し、存保が阿波へ入る天正十年 初夏織田の四国出兵が準備されるが、本能寺の変で中止天正十年 八月中富川で敗れ、勝瑞城を開いて讃岐へ退く天正十一年讃岐の十河城も落ち、播磨へ逃れて秀吉を頼る天正十三年四国攻めののち、讃岐に所領を与えられる天正十四年 暮れ九州・戸次川の戦いで討ち死にする

讃岐でも守りきれず、海を渡った

阿波を出た存保は讃岐の十河城に入るが、翌々年にはここも攻め落とされる。彼は瀬戸内を渡って播磨へ逃れ、羽柴秀吉のもとに身を寄せた。四国を追われた側が畿内の権力に助けを求める、という形である。

四国の側から見ると、このころ元親は伊予と讃岐にも手を伸ばし、四国全体をおおいかけていた。ただし各地の国衆が心から従っていたわけではなく、湯築城の河野氏や来島城の村上一族のように、外の力が来れば向きを変える家も多かった。存保のように畿内へ渡った者がいたことは、その振れ幅を秀吉の側に伝える回路にもなった。

秀吉のもとで、攻める側に回った

四国攻めが起きたとき、存保は秀吉方にいた。かつて自分が追われた土地へ、今度は攻める側として戻ったことになる。戦いそのものは二か月ほどで決着し、元親は土佐一国を安堵された。存保には讃岐のうちに所領が与えられ、家は残った。

このとき秀長の本隊が取りついたのが阿波の一宮城で、元親が前線の拠点としていたのが白地城である。秀長がなぜ総大将をつとめたのかは別の記事にまとめた。

一宮城跡に残る石段と石垣

一宮城跡(徳島市)に残る石段と石垣。四国攻めで秀長の本隊が取りついた城である。かつて阿波を追われた存保は、このときは攻める側にいた

戸次川 ── 長宗我部信親と同じ日に

四国が片づくと、秀吉の目は九州へ向かう。先発した部隊に、存保も元親も加わっていた。豊後で島津軍と向き合ったとき、軍監の仙石秀久が川を渡っての攻撃を押し通し、渡りきったところを叩かれる。ここで元親の嫡男・信親が討たれ、存保も討ち死にした。長く敵どうしだった二つの家が、同じ川の同じ日に跡取りと当主を失っている。

この敗戦が長宗我部家をどう変えたかはその後の記事に書いた。存保の家はといえば、幼い子が残されて所領は召し上げられ、大名としての十河氏はここで終わった。

十河存保は「弱い武将」だったのか

二つの国を失ったのは事実である。ただ、彼が負けた相手は元親だけではない。阿波の三好は、重臣を自ら討ったところから人が離れ、畿内の本家は織田に押されて力を失い、頼みの援軍は本能寺で消えた。支えが順番に抜けていった家を、最後に受け取ったのが存保だった。

そして彼が畿内へ渡ったことは、四国の外に「四国を切り取る理由」を置くことになった。秀吉が四国へ軍を出したのは存保のためではないが、追われた者たちが畿内で語った四国の話が、平定という形で戻ってきたのは確かである。勝ち負けだけで測ると見えない役どころに、この人はいた。

よくある疑問

Q. 十河存保は三好の人ですか、十河の人ですか。
生まれは三好で、家としては十河を継いでいます。阿波を預かったときには三好の名を用いた時期もあり、史料によって呼び方が揺れます。

Q. 勝瑞城はどこにありますか。
徳島県藍住町で、吉野川の下流の平地です。土塁も石垣もほとんど持たない館の跡で、発掘では庭園や茶道具が出ています。くわしくは勝瑞城跡の記事をご覧ください。

Q. 長宗我部元親とはどこが違ったのですか。
元親は土佐という自分の国を足場に外へ出ていった人で、存保は本家が都にある家の四国側を任された人です。長宗我部の兄弟が役割を分けて国を広げたのに対し、存保は支えを失っていく家をひとりで受け止める側でした。

まとめ

十河存保は、阿波と讃岐という二つの国を任され、どちらも守りきれなかった。ただしその負けは、彼の弱さというより、三好という家が畿内で細っていった結果として四国側に現れたものである。追われた彼が畿内へ渡ったことは、のちに四国攻めという形で四国へ戻ってきた。そして九州の川辺で、長年の敵だった長宗我部家の跡取りと同じ日に倒れている。四国でぶつかった二つの家がどんな形をしていたかは豊臣兄弟と長宗我部兄弟の記事で並べて見ることができる。

特集長宗我部 ── 土佐から四国へ元親の初陣から、浦戸で国を失うまで ── 解説14本と城9か所

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