牛岐城跡(富岡城):最後まで抗戦した新開道善と、寺に呼び出された謀殺

牛岐城/アクセス・場所・地図 長宗我部元親が新開実綱を謀殺して弟の親泰を配置し阿波制圧の拠点とした牛岐城

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この記事のポイント
  • 新開氏は、阿波の実権が細川から三好へ移っても城主のままでした。
  • 長宗我部の侵攻で周辺の城がすべて落ちるなか、新開道善だけは最後まで抗戦しています。
  • 元親は道善を戦場ではなく、徳島の丈六寺へ呼び出して謀殺しました。
  • そのあと弟の香宗我部親泰が入り、阿波南方の前線になります。
  • のちに牛岐という地名は「富岡」と改められ、城も富岡城と呼ばれました。

牛岐城の城主だった新開道善は、長宗我部元親に最後まで抵抗した人物です。周りの城が次々に落ちても、この城は降りませんでした。ところが降伏したあと、道善は戦場ではないところで殺されます。現地の案内板は、元親が道善を徳島の丈六寺へ呼び出して謀殺したと記しています。城を落とせなかった相手を、城の外で始末したことになります。

目次

案内板が書いていること

牛岐城跡の案内板

城跡に立つ案内板。この記事の芯は、ここに書かれていることです。

城跡の案内板には、こうあります。

牛岐城の創建された時期は明らかでないが、戦国時代には阿波守護・細川氏の家臣である新開氏の居城であった。後に阿波の実権は細川氏から家臣の三好氏に移ったが、牛岐城主は変わらなかった。

短い一文ですが、重い内容です。国の支配者が入れ替わっても、この城の主は動かなかった。新開氏はそれだけ地に根を張っていたということになります。

ただ一人、最後まで抗戦した

牛岐城址の石碑

城跡に立つ「牛岐城址」の石碑。いまは展望台のある公園として整えられています。

天正三年、土佐の長宗我部元親が阿波へ侵攻を始めます。

案内板はこう続けます。「周辺の諸城はすべて落城したが、牛岐城の新開道善だけは最後まで抗戦した」

すべて落ちた、という書き方です。そのなかで一つだけ残った。阿波の南で長宗我部を止めていたのは、この城でした。

元親が土佐からどう広がっていったのかは、こちらで扱っています。

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戦場ではなく、寺で殺された

天正八年、新開道善は降伏し、城を開きます。

そのあとのことを、案内板はこう書いています。「長宗我部元親は道善を徳島の丈六寺で呼びだして謀殺した」

戦って討ち取ったのではありません。降伏を受け入れておいて、寺へ招き、そこで殺した。

▽ よく語られる話

元親は四国の国人たちを実力で従え、人望で四国を統一した。

▼ 史実ではこうです

降した相手の当主を消す、という手を繰り返しています。新開道善だけではありません。阿波一宮城の一宮成祐も、同じように元親に謀殺されたと伝わります。力ずくで従えた相手をそのまま残せば、背中を突かれる恐れが消えない。だから消しました。

ただし、その代償は残ります。五年後に秀吉の十万が渡ってきたとき、阿波の旧国人たちが長宗我部のために命を懸ける理由は、どこにもありませんでした。

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香宗我部親泰が入り、阿波南方の前線になった

桜の咲く牛岐城跡と展望台

丘の上に建つ展望台。春には桜が咲きます。那賀川の河口に近く、阿波の南を押さえる位置です。

道善を消したあと、元親はこの城に弟を入れました。香宗我部親泰です。

親泰は元親の三弟で、香宗我部家に養子として入り、東方面の攻略を受け持っていました。その親泰が牛岐に置かれたということは、ここが阿波南方を押さえる要と見られていたということです。

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五年後、秀吉が渡ってきた

天正十三年、豊臣秀吉の四国攻めが始まります。

案内板は短く書いています。「長宗我部軍は全面的に敗退し土佐に撤退した」。牛岐城の香宗我部親泰も、土佐へ退きました。

最後まで抗戦した城主を謀殺してまで押さえた城を、五年で手放したことになります。

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牛岐から富岡へ ― 地名が変わった

牛岐城址公園の標柱

「牛岐城址公園」の標柱。城の遺構はあまり残っていませんが、位置の良さは歩くと分かります。

四国攻めのあと、阿波を与えられた蜂須賀家政は、家臣の賀島政慶をこの城の城代とし、兵三百で守らせました。牛岐城は阿波九城の一つで、阿波南方最大の軍事拠点だったと案内板は記しています。

そして政慶は入城後まもなく、牛岐という地名を縁起のよい「富岡」に改めました。そのため城も富岡城と呼ばれるようになります。

「牛岐」のどこが縁起に悪いのかは書かれていません。ただ、新しい支配者が土地の名から変えたという事実は残ります。城主が替わるとき、名前も替わったわけです。

賀島氏は、明治まで残った

案内板の締めくくりが、また良い。

「賀島氏は徳島藩の家老に任じられ明治維新まで藩の次席家老としての重職を務めた」

最後まで抗戦した新開氏は当主を殺されて消え、そのあと入った長宗我部は五年で退き、次に来た賀島氏が二百八十年続きました。

戦国の勝ち負けは、戦の強さだけでは決まりません。この小さな城の上で、三つの家が入れ替わっています。

寛永十五年、廃城

江戸幕府の一国一城令により、牛岐城(富岡城)は廃城となりました。

いまは城山に展望台が設けられ、牛岐城址公園として整備されています。遺構はあまり残っていませんが、那賀川の河口に近いこの高台から見渡すと、なぜここが阿波南方最大の拠点と呼ばれたのかが分かります。

牛岐城跡へのアクセス

徳島県阿南市富岡町トノ町。市街地のなかの小高い丘で、公園として登れます。

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