- 毘沙門天は四天王のうち北を守る多聞天のことで、ひとりで祀るときの呼び名です。甲冑をまとった武の神で、武士の信仰を集めました
- 謙信が毘沙門天を信じていたことは確かです。春日山城には毘沙門堂があり、跡も残っています
- いっぽう「毘」の一字旗や「懸かり乱れ龍」は、江戸時代に描かれた絵図によるところが大きく、当時の形そのままとは限りません
- 「自分は毘沙門天の生まれ変わりだ」と語ったという話も、後の世の書物に出てくるものです
上杉謙信といえば「毘」の旗です。自らを毘沙門天の化身と信じ、戦の前には毘沙門堂にこもった──そんな像が広く知られています。では、そのどこまでが同時代の話で、どこからが後の世に足されたものなのでしょうか。ここでは毘沙門天という神の素性からたどって、謙信の信仰を切り分けてみます。強さそのものについては上杉謙信はなぜ戦に強かったのかに書きました。
毘沙門天とはどんな神か
毘沙門天は、仏の世界を守る四天王のひとりです。四天王はそれぞれ方角を受け持っていて、東が持国天、南が増長天、西が広目天、そして北が多聞天。この多聞天を、四天王の一員としてではなく単独で祀るときの呼び名が毘沙門天です。もとはインドの神で、「毘沙門」は梵語の音を写したもの、「多聞」はその意味を訳したものにあたります。
姿は甲冑をまとい、片手に宝塔、片手に鉾や棒を持つ形で表されます。財宝の神とされる一面もありますが、日本では戦の神としての性格が強く出ました。北を守る武装した神ですから、国境を守り、敵を退ける神として武士に好まれたのです。奈良の寺々に伝わる古い像を見ても、その険しさは際立っています(東大寺 ─ 大仏はなぜ二度焼けたのか)。
謙信はどこで毘沙門天を拝んだのか
春日山城には毘沙門堂がありました。これは伝説ではなく、城跡の案内板にも記されている場所です。本丸から毘沙門堂を経てお花畑へ至る一帯が、城の中心でした。山ひとつが丸ごと城になっているその造りは春日山城跡でくわしく紹介しています。
城の中枢に堂を建てて神仏を祀ること自体は、珍しくありません。ただ謙信の場合、そこにこもって戦の前に祈ったと伝えられ、信仰が本人の行動と強く結びついて語られてきました。
謙信の宗教との関わりは、毘沙門天だけではありません。少年期は城下の林泉寺で学びました。のちには高野山とのつながりを持ち、真言の法を受けて阿闍梨の位を得たとも伝えられます。「謙信」という号も、仏門に入ってからのものです。武将でありながら、相当に深く仏の世界に足を踏み入れていた人でした。
「毘」の旗はどこまで本当か
ここからが、慎重に見たいところです。
「毘」の一字を染め抜いた旗。総攻めのときに掲げたという「懸かり乱れ龍」。どちらも謙信の象徴として知られていますが、これらの姿を伝えているのは、主に江戸時代に描かれた絵図や、そのころ書かれた軍記です。同時代の文書で旗の形まで確かめるのは、なかなか難しい。
とはいえ「後の世の作り話だから全部うそだ」と切り捨てるのも乱暴です。謙信が毘沙門天を信じていたことは確かですから、その一字を旗に使っていたとしても何の不思議もありません。分かっているのは「信仰は確か、旗の形は伝聞」という線引きまで、ということになります。
「自分は毘沙門天の化身だ」と言ったのか
いちばん有名な話ですが、これも出どころは後の世の書物です。謙信本人が書いた文書に、自らを毘沙門天の生まれ変わりだと記したものは見あたりません。
ただ、こうした話が生まれた土壌はあります。謙信は神仏に願文を捧げ、誓いを立てて戦に出る人でした。関東へ出るときも「関東管領として秩序を正す」という名分を掲げています。自分の戦いを私の欲ではなく、天の理にかなったものとして位置づける。その姿勢が、後の世の人に「毘沙門天の化身」という言葉を思いつかせたのでしょう。
言いかえると、化身説は謙信の人柄をうまく言い当てた比喩として広まったのであって、本人の自称ではなかった、ということになります。
信仰は、戦にどう効いたのか
信仰が兵を強くするか、という問いには、正直なところ答えようがありません。ただ、兵を動かす側から見ると、信仰には現実的な役目がありました。
ひとつは、戦う理由をはっきりさせることです。越後の武士が、縁もゆかりもない関東や北陸まで出ていく。その理由を「殿のため」だけで支えるのは難しい。神仏に誓った戦、正しさのある戦、という形があれば、従うほうも腑に落ちます。
もうひとつは、謙信自身を律したことです。毘沙門天に誓った以上、約束を破れば自分に返ってくる。助けを求めてきた者を見捨てない、攻め取った土地をむやみに切り取らない──謙信の戦に見えるそうした癖は、信仰と無縁ではないように思えます。もっとも、その謙信が急に世を去ると、越後は跡目をめぐって割れました(御館跡 ─ 直江兼続が世に出た御館の乱)。神仏への誓いは、本人の代かぎりのものでした。
よくある疑問
Q. 毘沙門天と多聞天はちがう神ですか?
A. 同じ神です。四天王のひとりとして並べるときは多聞天、単独で祀るときは毘沙門天と呼ばれます。
Q. 「毘」の旗は実在したのですか?
A. 形を伝えているのは主に江戸時代の絵図です。謙信が毘沙門天を信じていたことは確かなので、使っていた可能性は十分ありますが、当時の姿そのままとは言い切れません。
Q. 謙信は本当に自分を毘沙門天の化身だと思っていたのですか?
A. 本人の文書にその記述は見あたりません。後の世の書物に出てくる言い方です。
Q. 毘沙門堂は今も見られますか?
A. 春日山城跡に堂の跡があり、案内板が立っています。本丸からお花畑へ向かう道筋にあたります。
Q. 謙信はどの宗派だったのですか?
A. 少年期は城下の林泉寺で学び、のちには高野山とのつながりを持って真言の法を受けたと伝えられます。ひとつの宗派に収まる人ではありませんでした。
まとめ
毘沙門天は四天王のうち北を守る多聞天のことで、甲冑をまとった武の神です。謙信がこの神を信じていたこと、春日山城に毘沙門堂があったこと、神仏に願文を捧げていたことは確かです。いっぽうで「毘」の旗の形や「毘沙門天の化身」という言い方は、江戸時代に広まったものでした。信仰そのものは本物、その見せ方は後の世の装い。そう分けて見ると、謙信という人の輪郭がかえってはっきりしてくる気がします。

