- 史実の真田幸村(信繁)は、慶長20年(1615年)5月7日の大坂夏の陣で討たれたと考えられています
- しかし京では「鬼のやうなる真田が秀頼を連れて鹿児島へ」という歌がはやり、薩摩落ち伝説が生まれました
- 鹿児島県南九州市頴娃町には幸村の墓、鹿児島市谷山には秀頼の墓と伝わる場所が残ります
大坂夏の陣で討死したとされる真田幸村(信繁)には、じつは生き延びて、豊臣秀頼とともに薩摩(いまの鹿児島県)へ落ちのびたという伝説があります。ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』でも、安藤政信さんが演じる幸村がいよいよ九度山を出て大坂城へ向かいますが、その行く末にはこうした不思議な伝説も残されています。ここでは、史実の幸村の最期と、薩摩落ち伝説の中身を紹介します。
史実の幸村の最期
慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣の最後の決戦で、幸村は天王寺口から徳川家康の本陣めがけて突撃をくり返し、家康を一時は追い詰めたと伝えられています。しかし兵は次々に討たれ、疲れ果てた幸村は、いまの大阪市天王寺区にある安居神社のあたりで休んでいたところを、越前松平家の家臣・西尾宗次に討たれたとされています。翌8日には大坂城が落ち、秀頼と淀殿は自害し、幸村の嫡男の大助も秀頼に殉じました。大助については真田大助(幸昌)とはで紹介しています。
「鬼のやうなる真田」の歌
ところが、大坂の陣のあと、京の町では次のような歌がはやったと伝えられています。
「花のやうなる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きも退いたり加護島(かごしま)へ」
花のように美しい秀頼さまを、鬼のように強い真田が連れて、鹿児島まで落ちのびていった、という意味です。大坂城の炎の中で秀頼の亡骸がはっきり確かめられなかったことや、家康をあれほど追い詰めた幸村の戦いぶりへの驚きが、「本当はどこかで生きているのではないか」という人びとの思いを生み、こうした歌になったと考えられています。
鹿児島に残る幸村と秀頼の伝承

薩摩落ちの伝説は、鹿児島の各地に具体的な形で残されています。いまの南九州市頴娃町には、幸村の墓と伝えられる石塔があり、幸村はこの地でひっそりと暮らしたという話が語り継がれています。また鹿児島市の谷山には、秀頼の墓と伝えられる場所があり、秀頼は島津家にかくまわれて余生を送ったという伝承が残っています。関ヶ原の戦いで西軍についた島津家は、その後も徳川家に屈せずに領地を守りぬいた大名で、豊臣方の落ち武者をかくまうとしたら薩摩しかない、と人びとが考えたのも無理はないかもしれません。
伝説はなぜ生まれたのか
もちろん、幸村や秀頼が薩摩で生きていたことを示す確かな史料はなく、史実としては、幸村は5月7日に討たれ、秀頼は翌日に大坂城で自害したと考えられています。それでも、源義経が大陸へ渡ったという伝説や、西郷隆盛が生きているという噂が語られたのと同じように、人気のある悲劇の英雄には「生きていてほしい」という思いから生存伝説が生まれやすいものです。こうした伝説は、江戸時代を通じて幸村の人気が高まり、のちに真田十勇士の物語が生まれる土台にもなっていきました。十勇士の物語の成り立ちは真田十勇士とはで、「幸村」という名については真田信繁はなぜ「幸村」と呼ばれるのかで紹介しています。
十勇士と薩摩落ち
講談や立川文庫の真田十勇士の物語の中にも、大坂落城のあと、幸村が秀頼を守って薩摩へ落ちのび、猿飛佐助や霧隠才蔵らがそれに従ったという筋立てで語られるものがあります。ドラマ『真田十勇士』の物語が最後にどこへ向かうのかはまだわかりませんが、この薩摩落ち伝説をどう扱うのかも、気になるところです。二人の得意技については猿飛佐助と霧隠才蔵の得意技は?で紹介しています。
よくある疑問
Q. 真田幸村は大坂夏の陣のあとも生きていたのですか?
A. 史実としては、慶長20年(1615年)5月7日に天王寺口の戦いで討たれたと考えられています。生きて薩摩へ逃れたという話は伝説です。
Q. 幸村の墓と伝わる場所は鹿児島にありますか?
A. 鹿児島県南九州市頴娃町に、幸村の墓と伝えられる石塔があります。
Q. 幸村はどこで討たれたのですか?
A. いまの大阪市天王寺区の安居神社のあたりで、越前松平家の家臣・西尾宗次に討たれたとされています。
まとめ
史実の幸村は大坂夏の陣で討死しましたが、京では「鬼のやうなる真田が秀頼を連れて鹿児島へ落ちのびた」という歌がはやり、鹿児島には幸村や秀頼の墓と伝わる場所がいまも残っています。生きていてほしいという人びとの思いが生んだこの伝説は、のちの真田十勇士の物語にもつながっていきました。
- 豊臣秀長とはどんな人物か
兄・秀吉を支えた大和大納言の生涯 - 豊臣秀長の出自
本当に秀吉と同じ父母の弟だったのか - 豊臣秀長はなぜ「長秀」から「秀長」に改めたのか
丹羽長秀と同じ名を持っていた - 豊臣秀長は賤ヶ岳で何をしていたのか
秀吉が戦場を離れられた理由 - 豊臣秀長と大坂城築城
石と材木をどう集めたのか - 豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか
十万の軍を率いた夏 - 豊臣秀長の四国平定・九州平定
総大将として天下統一を進めた戦 - 豊臣秀長の百万石
大和・紀伊・和泉の内訳と、大和郡山を任された理由 - 豊臣秀長の大和支配
寺社の国をどう治めたのか - 豊臣秀長の居城・大和郡山城
逆さ地蔵の石垣と、秀長のあとの城主たち - 豊臣秀長が築いた和歌山城
虎伏山に築いた紀州の城 - 豊臣秀長の家臣団
藤堂高虎・桑山重晴・吉川平介ら百万石を支えた人びと - 豊臣秀長に仕えた藤堂高虎
築城の名手になった二十年 - 豊臣秀長の家臣・吉川平介
主君・秀長の面目を潰した処刑 - 豊臣秀長が亡くなった年
天正十九年、豊臣家が一年で失った三つ - 豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか
養子・秀保の十七歳の死と、大和豊臣家の断絶 - 豊臣秀長の妻・慶(慈雲院)
吉岡里帆が演じる正室は実在? 豊臣家の滅亡まで見届けた生涯 - もし豊臣秀長があと十年生きていたら
朝鮮出兵・秀次事件・関ヶ原はどう変わったのか - 豊臣秀長ゆかりの城めぐり
大河『豊臣兄弟!』の舞台を歩く - 豊臣秀長の出世と石高の推移
田を耕していた小一郎が百万石になるまでと、父の違う四人のきょうだい - 豊臣秀長が副将をつとめた紀州攻めと高野山
根来寺は焼け、高野山はなぜ残ったのか。そのあと紀伊は秀長の領国に - 豊臣兄弟!第37回「秀長の国」の史実
秀長はなぜ大和を任され、寺社の国をどう治めたのか

