蜂須賀小六(正勝)とは:野盗の親分という嘘と、阿波一国を断った理由

川べりに立ち書状を手にする武将(イメージ・イラスト)

蜂須賀小六(ころく)、のちの蜂須賀正勝は、秀吉を支え続けた腹心である。講談では野盗の親分として描かれ、矢作橋の上で若き日の秀吉と出会ったことになっている。どちらも作り話である。橋は当時まだ架かっていなかったし、野盗の親分という設定は、江戸時代の読み物が秀吉の生い立ちを面白くするために作ったものだった。そして四国攻めのあと、この人は阿波一国を与えるという申し出を断っている。六十歳。大名になるより、秀吉のそばにいることを選んだ。

※記事上部の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • 大永六年、尾張国海東郡蜂須賀郷の生まれ。天正十四年没、享年六十一
  • 通称は小六、のち彦右衛門。初名は利政
  • 「野盗の親分」は創作。小瀬甫庵『太閤記』が秀吉の生い立ちを彩るために作った話
  • 矢作橋での出会いも虚伝。橋が架かったのは江戸中期の元禄年間で、当時は渡し船だった
  • 備中高松では黒田官兵衛とともに清水宗治への使者を務めた
  • 本能寺の変では、情報を漏らさぬよう伝令の使者を監禁する役を任された
  • 娘を黒田長政に嫁がせ、秀吉の左右の重臣が縁で結ばれた
  • 四国攻めのあと阿波一国を辞退し、子の家政に与えられた。その翌年に没した
目次

野盗の親分というのは、作り話である

蜂須賀小六と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、川を根城にした野武士の頭目という姿だろう。

この像を作ったのは、寛永三年以後に刊行された小瀬甫庵の『太閤記』である。墨俣に一夜で城を建てるために集められた、夜討強盗の野武士集団。その番頭の一人が小六だったという筋立てになっている。読み物としては面白い。秀吉の出世物語は、こうした脇役の色づけで何度も語り直されてきた。秀吉が身分の低いところから上がった話に、こういう仲間がいたほうが映える。

だが史料に当たると、この設定は出てこない。そして蜂須賀家の子孫は、その後長くこの負のイメージに苦しむことになった。

▽ よく語られる話
蜂須賀小六は野盗の親分で、矢作橋の上で寝ていたところを若き日の秀吉に見出された。
▼ 史実ではこうです
矢作橋に橋が架かったのは江戸時代中期の元禄年間である。小六と秀吉が生きた天正のころ、そこはまだ渡し船で渡る川だった。橋の上での出会いは、橋が無い時代の話として語られている。野盗の親分という設定も含めて、江戸の読み物が作ったものと考えてよい。

実際の蜂須賀家は、尾張蜂須賀郷の土豪である。木曽川の水運に関わる集団との関係を伝える史料もあるが、その信憑性には疑問も出ている。確かなのは、この人が地域に根を張った有力者の家に生まれ、斎藤道三や織田の諸家を経て信長に仕えたということである。

秀吉の「調略の人」だった

小六の仕事を追っていくと、槍働きより交渉と調略の場面が目立つ。

中国攻めでは息子の家政とともに従軍し、三木城攻めでは小早川勢を撃退して兵糧輸送を断っている。そして備中高松城の水攻めでは、黒田官兵衛とともに城将・清水宗治のもとへ使者として入り、降伏を促した。結果は拒絶されたが、誰を使者に出すかという選択に、秀吉の信頼が出ている。

そして本能寺の変である。信長の死が毛利方に漏れれば、秀吉は背後から討たれる。このとき秀吉が小六に命じたのは、伝令の使者を監禁して情報を止めることだった。

中国大返しという言葉で語られるあの十日間は、走ったから成功したのではない。走っているあいだ、相手に知らせないでいられたから成功した。その一点を任されたのが、この人である。

娘を黒田長政に嫁がせた

天正八年、秀吉は小六の娘と黒田官兵衛の長男・松千代丸(のちの長政)の婚約をまとめている。

官兵衛と小六は、秀吉の左と右にあたる重臣だった。その二つの家を縁で結んでおく。秀吉がまだ天下を取る前の段階で、すでにこういう手を打っている。

家臣団というものは、放っておけば割れる。割れないように先に縫い合わせておく。これも一種の調略で、味方に対して使うものである。

阿波一国を、断った

四国攻めのとき、小六は一宮城を攻める側にいた。そして白地城にいた長宗我部元親との講和では、仲介にあたっている。最後まで交渉の人だった。

戦が終わり、四国国分の沙汰が下る前のことである。秀吉は前田玄以を遣わして、戦勝の暁には阿波一国を与えるという内意を伝えた。

小六は、これを辞退した。

理由は、すでに六十歳で隠居の身であること、そして大坂にあって秀吉の側近として仕えることを望むことだった。そのうえで、所領は子の家政に与えてほしいと願い出ている。

▽ よく語られる話
蜂須賀小六は謙虚な人柄で、欲がなかったから阿波を辞退した。
▼ 史実ではこうです
謙虚さの問題ではなく、選択である。阿波をもらえば、四国へ行かなければならない。大坂を離れれば、秀吉のそばにいられなくなる。この人が一生かけて積み上げてきたのは、領地ではなく秀吉との距離だった。その距離を、十七万石と引き換えにする気がなかったということである。国をもらった藤堂高虎が城を作る人になったのと、方向が正反対だった。

阿波一国は子の家政が受け、徳島城を築いて蜂須賀家の本拠とした。この家は幕末まで阿波を治める。断ったはずの国が、結局は家の国になった。

その翌年に、亡くなった

小六が没したのは天正十四年、大坂の邸宅で、六十一歳だった。阿波を辞退した、その翌年である。

この順番を見ると、辞退の理由がもう少し分かる気がする。秀長が大和と紀伊を任されて城と町を作り続けたのとは、残された時間がまるで違った。六十歳の隠居が、いまから海を渡って新しい国を治める。無理だと分かっていたのだろう。残りの時間を、どこで誰のそばで使うか。この人はそれを選んだ。

まとめ

野盗の親分という像は、三百年以上ものあいだ、この人に貼りついてきた。子孫が長く苦しんだと記録に残るほどである。

実際の蜂須賀小六は、使者に立ち、敵を降し、情報を止め、家臣同士を縁で結ぶ人だった。戦場で名を上げた武将とは、仕事の種類がまるで違う。だから派手な逸話が残らず、かわりに作り話が入り込む余地ができた。

そして最後に、十七万石を断っている。大名になる道と、そばにいる道。この人は迷わず後者を取った。

四国国分で配られた土地の一覧を見ると、名前が並ぶのはもらった人ばかりである。断った人の名は、そこには出てこない。

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