- 四国を失ったあとも、長宗我部氏は土佐一国を安堵されて残りました。
- 崩れはじめたのは、嫡男・信親が戸次川で戦死してからです。
- 関ヶ原では一戦もできないまま西軍とされ、土佐を取り上げられました。
- 家臣たちは浦戸で蜂起し、鎮圧されています。
- 四男・盛親は京で寺子屋の師匠となり、大坂の陣で最後の戦いに出ました。
阿波・讃岐・伊予を秀吉に取り上げられたあとも、長宗我部氏は消えていません。土佐一国は安堵され、大名として残りました。家が本当に傾きはじめるのは、その翌年、九州の戸次川で嫡男の信親を失ってからです。そこから関ヶ原、浦戸一揆、大坂の陣へと、三十年かけて長宗我部は消えていきます。土佐の一領具足たちが最後まで抵抗した記録も残っています。
阿波・讃岐・伊予は失ったが、土佐一国は残った
天正十三年の四国攻めで、元親は秀吉に降りました。阿波・讃岐・伊予を手放し、残ったのは土佐一国です。
ただ、これは決して悪い条件ではありませんでした。国を一つ丸ごと認められ、豊臣大名として組み込まれたわけです。元親はこのあと、九州攻めに動員されます。
豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか:兄が渡らなかった夏と、十万の指揮

イメージ(イラスト)|戸次川。元親は渡河に反対しましたが、軍監が押し切りました。
天正十四年、戸次川 ― 嫡男・信親の戦死
九州で島津氏が勢いを増し、豊後の大友氏が助けを求めます。秀吉は先発隊を送りました。仙石秀久を軍監とし、長宗我部元親・信親の父子、讃岐の十河存保らが加わっています。
天正十四年の暮れ、戸次川で島津軍と向き合ったとき、元親は渡河しての決戦に反対したと伝わります。しかし仙石が押し切りました。
結果は大敗でした。信親は二十二歳で討たれ、十河存保も戦死します。仙石は戦場を離れて讃岐へ引き、のちに改易されました。
元親にとって信親は、器量も人望も申し分のない跡取りでした。その子を、他人の判断による負け戦で失ったことになります。

岡豊城跡。阿波・讃岐・伊予を取り上げられ、土佐だけが残されました。
戸次川の敗戦は、なぜ避けられなかったのか
元親が渡河に反対したのに、なぜ戦うことになったのか。理由は指揮系統にあります。
このときの先発隊は、長宗我部・十河・大友といった寄せ集めで、まとめ役として秀吉から送られていたのが仙石秀久でした。各家の当主が並んでいても、決めるのは軍監であるという形です。
元親は四国を切り取った男ですが、この場では一つの部隊の長にすぎませんでした。自分の判断で兵を動かせない立場で、跡取りを失ったことになります。
豊臣の大名になるとは、そういうことでした。
元親は、このあと変わってしまった
信親の死後、元親は四男の盛親を跡継ぎに決めます。順で言えば飛び越しでした。
これに異を唱えた家臣は退けられます。吉良親実、比江山親興といった一門・重臣が切腹させられました。三男の津野親忠も退けられ、幽閉されています。
四国を切り取っていったころの元親と、同じ人とは思えない決め方です。跡取りを失った当主が、家の中を自分の手で削っていった——そう見るほかありません。
元親が世を去ったのは慶長四年のことでした。
信親の死が、家中にもたらしたもの
信親には男子がありませんでした。娘が一人いて、のちに盛親に嫁いでいます。
跡継ぎ問題がこじれたのは、長男の血をどう残すかという話と、順番をどうするかという話が、同時に持ち上がったからです。次男の香川親和、三男の津野親忠は、それぞれ他家へ養子に出ていました。
結局、元親は四男を選び、異を唱えた者を消しました。家の中で相談ができなくなったことが、関ヶ原での身動きのとれなさにつながっていきます。
元親の弟たちが健在だったころの長宗我部とは、まるで違う家になっていました。
長宗我部兄弟とは何者か:元親を支えた吉良親貞と香宗我部親泰、四国を分けて攻めた三人
図でみる|長宗我部が消えていく三十年
図|戸次川から六条河原まで。四国のほぼ全域を制したところが頂点で、あとは下がる一方でした。
関ヶ原 ― 一戦もできないまま、西軍になった
慶長五年、盛親は西軍に加わりました。ところが布陣した場所が悪かった。前に毛利勢がいて動かず、長宗我部勢は最後まで戦場に出られませんでした。
戦いが終わると、盛親は徳川方に詫びを入れようとします。しかしその途中、幽閉していた兄・津野親忠を殺させたことが問題にされました。
結果、土佐一国は取り上げられます。一度も刃を交えないまま、国を失ったことになります。

浦戸城跡。元親が晩年に本拠を移した城で、一領具足たちはここを渡すまいとしました。
浦戸一揆 ― 一領具足たちは、城を渡さなかった
土佐には、山内一豊が新しい国主として入ることになりました。
ところが、浦戸城の引き渡しを求めてきた徳川方の使者に対し、長宗我部の家臣たちが拒みます。「盛親の家名が立つのでなければ渡さない」という言い分でした。中心になったのは、田を耕しながら戦ってきた一領具足たちです。
蜂起は鎮圧されました。斬られた者の首は二百七十余に及び、大坂へ送られたと伝わります。
主家がすでに改易されたあとで、なお城を渡すまいとした——長宗我部という家が、どういう兵に支えられていたかが分かる出来事です。
盛親は、京で子どもに読み書きを教えていた
国を失った盛親は、京へ移ります。そこで十四年を過ごしました。
伝わるところでは、大岩祐夢と名を変え、寺子屋の師匠をしていたといいます。かつて四国を切り取った家の当主が、京の町で子どもに読み書きを教えていたことになります。
この十四年のあいだ、旧臣たちは各地に散って暮らしていました。
大坂の陣 ― 最後の戦いと、家の終わり
慶長十九年、大坂城が兵を集めはじめると、盛親は京を出て入城します。旧臣たちも集まり、千を超える兵になったと伝わります。
翌年の夏の陣、八尾で藤堂高虎の軍とぶつかり、長宗我部勢は激しく戦いました。この戦いぶりは、敵方の記録にも残っています。
しかし大坂方の敗北は覆りませんでした。盛親は落ち延びたところを捕らえられ、京の六条河原で斬られます。子どもたちも処刑されました。
大名家としての長宗我部は、ここで絶えます。元親が土佐一国をまとめてから、ちょうど四十年でした。

岡豊城跡。城も家も失われたあと、名だけが土佐に残りました。
それでも、土佐には残った
家は絶えましたが、土佐から長宗我部が消えたわけではありません。
旧臣たちは山内氏の下で郷士・下士とされ、田を耕しながら二百六十年を過ごしました。その家々から、幕末に武市半平太や坂本龍馬が出てきます。上と下を分ける線は、関ヶ原のあとに引かれたものでした。
土佐藩の上士と下士:板垣退助・後藤象二郎・吉田東洋と、武市半平太・岡田以蔵・坂本龍馬の家はどこから来たのか
土佐という国を語るとき、長宗我部の名は最後まで消えません。城も家も失ったあとに残ったのは、その名を負った人たちでした。

