家康は大坂の陣の前に鉄砲や大砲を買い集めたのか|ドラマ『真田十勇士』第2話の鉄砲の背景 ─ 堺と国友の鉄砲鍛冶、イギリスから買った大砲

夕暮れの山里に並ぶ忍びや豪傑たちの一団(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 大坂の陣の前、家康は国友や堺の鉄砲鍛冶を押さえ、大筒や大砲をつくらせました
  • イギリスやオランダからも、西洋式の大砲や鉛・火薬を買い入れて備えました
  • 集めた大砲は冬の陣で大坂城を砲撃し、豊臣方が和議に応じるきっかけの一つになりました

ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』第2話では、霧隠才蔵(中川大志)が鉄砲の手配に動き、猿飛佐助(岩本照)がそれに同行します。キャスト紹介によると、堺の鉄砲商人・筧十蔵は「家康による鉄砲の買い占め」から逃れているとされています。実際の大坂の陣の前、家康は鉄砲や大砲をどのように集めていたのでしょうか。ここでは、堺と国友の鉄砲鍛冶、そしてイギリスやオランダから買い入れた大砲をめぐる史実を紹介します。

目次

鉄砲の二大産地・堺と国友

天文12年(1543年)ごろに種子島に鉄砲が伝わると、その製法はたちまち各地に広まり、なかでも和泉国の堺と近江国の国友は、鉄砲づくりの一大産地となりました。堺は南蛮貿易の窓口でもあり、鉄砲の材料や火薬の原料となる硝石を海外から手に入れやすい町で、多くの鉄砲鍛冶と、それを売りさばく豪商が集まっていました。国友は琵琶湖の北東、いまの滋賀県長浜市にあった村で、豊臣秀吉や徳川家康から仕事を受ける鉄砲鍛冶たちが腕をふるいました。鉄砲の名手という筧十蔵が堺に住む設定は、こうした史実を踏まえたものといえます。筧十蔵はイギリス人だったのかでも触れています。

国友はなぜ鉄砲の村として栄えたのか

国友は、近江国坂田郡にあった村で、いまの滋賀県長浜市国友町にあたります。琵琶湖の北東、姉川のほとりの小さな村が、どうして日本を代表する鉄砲の産地になったのでしょうか。

国友に伝わる『国友鉄炮記』によれば、種子島に鉄砲が伝わった翌年の天文13年(1544年)、将軍の足利義晴が、献上された種子島の鉄砲を手本に同じものをつくるよう国友の鍛冶に命じ、鍛冶たちは半年ほどで2挺の鉄砲を仕上げたといいます。この話は後の時代にまとめられた記録によるもので、細かな点までそのまま事実とはいえませんが、国友の鉄砲づくりがかなり早い時期に始まっていたことをうかがわせます。

国友が鉄砲の村になれた理由としては、いくつかの条件が重なっていたことが挙げられます。まず、国友にはもともと刀や農具をつくる鍛冶の技術を持った職人たちがいて、鉄を鍛えて筒を巻く高い腕前を備えていました。また、北国街道や琵琶湖の水運を通じて、鉄や炭といった材料を集めやすく、つくった鉄砲を京や各地へ運び出すのにも便利な場所でした。さらに、京に近いことから、将軍家や有力な大名の注文を受けやすかったことも大きかったと考えられます。

壁一面に並ぶ火縄銃の展示
国友鉄砲ミュージアムに並ぶ火縄銃(滋賀県長浜市)

信長・秀吉・家康と国友

国友がとくに大きく発展したのは、織田信長と豊臣秀吉の時代です。国友のあたりは、もともと北近江の浅井氏の領地でしたが、天正元年(1573年)に浅井氏が滅ぶと、信長から北近江を任された秀吉が長浜城の主となり、国友もその支配のもとに入りました。鉄砲を大量に使った天正3年(1575年)の長篠の戦いのころには、国友は信長・秀吉の鉄砲を支える村として欠かせない存在になっていたと考えられています。

関ヶ原の戦いのあとは、家康が国友の鉄砲鍛冶を手厚く保護し、鍛冶たちのまとめ役となる年寄を置いて、幕府の御用をつとめさせました。大坂の陣が近づくと、国友には大筒と呼ばれる大型の鉄砲が数多く注文され、冬の陣で大坂城を攻める大砲として使われたと伝えられています。国友の鍛冶たちは、天下分け目の戦いの陰で、徳川の勝利を支えていたのです。

「鍛冶師 國友与五郎屋敷」と刻まれた石柱
国友の町並みに残る「鍛冶師 國友与五郎屋敷」の石柱

泰平の世の国友と国友一貫斎

大坂の陣が終わって戦のない世の中になると、鉄砲の注文は大きく減り、国友の鍛冶たちは幕府や諸藩の御用をつとめながら、技術を受け継いでいきました。江戸時代の後期には、国友の鉄砲鍛冶の家に生まれた国友一貫斎が、鉄砲づくりで鍛えた金属加工の腕をいかして、日本で初めてとされる反射望遠鏡をつくり、月や太陽の黒点を観測したことでも知られています。いまの国友町には、鍛冶屋敷の跡を示す石柱や、昔ながらの家並みが残され、国友鉄砲ミュージアムでは、国友でつくられた火縄銃や大筒、鉄砲づくりの歴史を見ることができます。

国友鉄砲ミュージアムの火縄銃と大筒の展示
国友鉄砲ミュージアムの展示。手前には大型の大筒も並びます

家康が押さえた鉄砲鍛冶

関ヶ原の戦いのあと、家康は国友の鉄砲鍛冶を手厚く保護し、徳川家のための鉄砲づくりを担わせるようになりました。大坂の陣が近づくと、国友の鍛冶たちには大筒と呼ばれる大型の鉄砲が数多く注文され、堺でも、家康の求めに応じて大砲が鍛えられたと伝えられています。堺の鍛冶・芝辻理右衛門が鍛えたとされる鉄製の大砲は、いまも残っていることで知られます。こうして腕のよい鉄砲鍛冶を徳川方に引きつけておくことは、自分の軍勢を強くするだけでなく、大坂方に良い武器が渡りにくくすることにもつながりました。ドラマの「鉄砲の買い占め」は、こうした家康の動きを物語として描いたものと考えられます。

イギリスとオランダから買い入れた大砲

家康は国内の鍛冶だけでなく、ヨーロッパの国々からも大砲を手に入れていました。慶長18年(1613年)に平戸に商館を開いたイギリスや、それより先に商館を開いていたオランダから、射程の長い西洋式の大砲や、弾丸に使う鉛、火薬などを買い入れ、大坂の陣に備えたことが知られています。家康の外交顧問となったイギリス人の三浦按針(ウィリアム・アダムス)がいたことも、こうした取引を後押ししたと考えられます。

大砲が動かした冬の陣

大坂冬の陣の砲撃を示す略図。大川の北の備前島や南の陣から、徳川方の大筒が大坂城の本丸をねらった
大坂冬の陣で徳川方が大坂城を砲撃したようす(略図・砲台の位置や数には諸説あります)

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、真田信繁が築いた出城の真田丸の戦いなどで徳川方が苦戦し、力攻めでは大坂城を落とせないことがはっきりしました。そこで家康は、集めた大砲で城の中を昼夜砲撃させ、なかには天守の近くや淀殿の居所のあたりに弾が届いたものもあったと伝えられています。この砲撃に恐れをなした豊臣方は和議に応じ、その条件として大坂城の堀は埋められることになりました。家康が集めた大砲は、冬の陣の行方を大きく左右したのです。真田丸の戦いについては真田丸とはで、堀の埋め立てについては大坂城の堀はどこまで埋められたのかで紹介しています。

大坂の陣と堺の町

鉄砲の町だった堺は、大坂の陣で大きな被害を受けることになります。翌慶長20年(1615年)の夏の陣の直前、徳川方に協力していた堺を、大坂方の軍勢が焼き払ったと伝えられていて、中世以来の豪商の町はこの戦いで灰になりました。のちに町は新しく区画しなおされて再建されますが、堺と鉄砲の物語は、大坂の陣と切っても切れない関係にあるといえます。

よくある疑問

Q. 家康は鉄砲を買い占めたのですか?
A. 「買い占め」という言葉どおりの記録があるわけではありませんが、家康は国友や堺の鉄砲鍛冶を押さえて大筒や大砲をつくらせ、イギリスやオランダからも大砲や火薬を買い入れて、大坂の陣に備えました。

Q. 大坂の陣で大砲は使われましたか?
A. 使われました。冬の陣では、徳川方が大坂城を砲撃し、これが豊臣方が和議に応じるきっかけの一つになったとされています。

Q. 鉄砲の産地はどこでしたか?
A. 和泉国の堺と、近江国の国友が二大産地として知られています。紀伊国の根来や雑賀も鉄砲で名高い土地でした。

まとめ

大坂の陣の前、家康は国友や堺の鉄砲鍛冶を押さえて大筒や大砲をつくらせ、イギリスやオランダからも西洋式の大砲を買い入れました。その大砲は冬の陣で大坂城を揺さぶり、和議と堀の埋め立てへとつながっていきます。ドラマで才蔵が鉄砲を求めて動き、堺の十蔵が追われるのも、この時代の鉄砲をめぐる争いを映したものといえます。

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