長宗我部兄弟!(NHK)の内容と史実:金子元宅との約束、起請文と地検帳に残った兄弟の外交

夜の城の座敷で盃を交わす長宗我部元親・香宗我部親泰・金子元宅のイメージイラスト

特集 ── もうひとつの兄弟大河NHK『長宗我部兄弟!』をもっと知る元親と親泰の外交、伊予の金子元宅との約束、天正の陣、ゆかりの城まで ▶

この記事のポイント
  • NHK『長宗我部兄弟!』は、長宗我部元親と弟の香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)を、最新研究・古文書とドラマで描いた番組です
  • 父・国親の「弱く小さき一族は、強き者に利用されていずれ滅びる」という言葉から、兄弟の四国一統の戦いが始まります
  • 兄弟は相手の家を潰さず、縁組や起請文で取り込みながら、およそ二十五年で四国のほぼ全域に勢力を広げました
  • 伊予の国人・金子元宅(かねこ もといえ)への書状では、元親は宛名を自分の名前と同じ高さに書いていました
  • 元宅は小早川隆景の二万の軍勢に二千で挑んで討ち死にし、兄弟は土佐一国に押し込められたあとも金子一族に土地を与えて守りました
番組情報
『長宗我部兄弟!』NHK総合(四国向け 2026年9月18日/全国放送 9月23日)
ドラマ:長宗我部元親=卓也(土佐兄弟・兄)、香宗我部親泰=ゆうき(土佐兄弟・弟)、金子元宅=橋本一郎
ナビゲーター:磯部寛之([Alexandros]/大河ドラマ『豊臣兄弟!』で長宗我部元親役)

大河ドラマ『豊臣兄弟!』が四国攻めに入る直前、NHKはもうひとつの”兄弟大河”を放送しました。土佐の小さな豪族から四国の大半を治めるまでになった、長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)と弟・香宗我部親泰の物語です。この記事では、番組で描かれた場面を順にたどりながら、史料で分かっていることを添えて解説します。攻め込む豊臣兄弟の側ではなく、守る長宗我部兄弟の側から見た四国攻めです。

目次

夢にうなされる元親と、父・国親の言葉

番組は、夢にうなされる元親の姿から始まります。耳に残っているのは父・長宗我部国親の「弱く小さき一族は、いずれ滅びる。強き者に利用されて」という言葉でした。

国親がこの言葉を口にするのには理由があります。国親の父・兼序(かねつぐ)は、永正5年(1508)ごろ、本山氏をはじめとする周りの豪族に本拠の岡豊城(おこうじょう)を攻められ、滅ぼされたと伝わります。幼い国親は土佐西部の一条氏に匿われて生き延び、のちに岡豊城へ戻って家を再興しました。家を潰される側の痛みを、国親は身をもって知っていたわけです。

当時の四国は、土佐に本山・一条・安芸、阿波と讃岐に三好、伊予に宇都宮・石川・河野と、大小の勢力がひしめく乱世でした。その中で元親は、弟の前向きな姿を見て、四国をひとつにまとめる「四国一統」を思い描いてしまいます。こうして兄弟の戦いが始まり、元親が家督を継いだ永禄3年(1560)から数えて、およそ二十五年で四国のほぼ全域に勢力を広げていきました。土佐統一までの歩みは長宗我部元親はどうやって土佐を統一したのかで詳しく書いています。

なぜ長宗我部は家を潰さずに大きくなれたのか

番組が強調したのは、長宗我部が「人を見捨てない」と周りに見せ続けたことでした。しかもこのやり方は、四国に出ていく前、土佐を統一する途中からすでに始まっていました。

  • 本山氏:国親の娘(元親の姉)が本山茂辰に嫁いでいます
  • 吉良氏:次弟の親貞が吉良氏を継ぎました
  • 香宗我部氏:三弟の親泰が養子に入りました
  • 津野氏:元親の三男・親忠が養子に入りました
  • 一条氏:元親の娘が一条内政に嫁いでいます

敵だった家、あるいは敵になりうる家と縁組や養子で親戚になり、家そのものは残したまま長宗我部の側に取り込んでいく。こうして長宗我部は、家を潰さずに領地を広げていきました。弟たちが長宗我部を名のらなかった理由は長宗我部兄弟とはと長宗我部と香宗我部は何が違うのかにまとめています。

▽ よく語られる話
元親は一領具足の武力で、四国の敵を次々に攻め滅ぼしていった。
▼ 史実ではこうです
戦で滅ぼした家もありますが、基本の方針は、相手の家を残したまま縁組・養子・誓約で身内に取り込むことでした。父の代に家を潰された経験を持つ一族だからこそ、「潰さない」ことが四国をまとめる戦略になりました。

阿波・日和佐氏に送った起請文「帰参之儀、珍重」

その戦略をよく示すのが、阿波南部の日和佐氏(ひわさし)とのやりとりです。日和佐氏は長宗我部に従ったものの一度は裏切り、そのあとで再び長宗我部と結びたいと言ってきました。番組では、このとき長宗我部から日和佐氏に送った手紙が残っていることが紹介されました。

手紙は起請文(きしょうもん)という誓約書で、中には「帰参之儀、珍重(きさんのぎ、ちんちょう)」とあります。「戻ってきてくれたことは、まことにめでたい」という意味で、長宗我部は一度裏切った日和佐氏を迎え入れることにしたうえ、その帰参を丁寧に喜んでみせています。裏切りには報復で応えるのが当たり前だったこの時代には、少し珍しい対応です。

起請文は、約束の中身を書く「前書(まえがき)」と、神仏に誓う「神文(しんもん)」の二つでできています。番組が紹介した現代語訳では、「あなたのことを何よりも大切に思っています。もしも私の言葉に偽りがあれば、日本中の神から罰を受ける覚悟です」という誓いでした。番組はこれを、長宗我部の四国統一の戦略だったとまとめています。日和佐氏の城については日和佐城で紹介しています。

三好に対抗するため、信長と結ぶ

土佐を統一し終えた兄弟の前に立ちはだかったのが、阿波・讃岐を押さえる三好氏でした。そこで兄弟が信頼を寄せたのが、織田信長です。元親は嫡男・弥三郎の烏帽子親(えぼしおや)に信長を頼み、「信」の字をもらって「信親」と名乗らせました。天正6年(1578)ごろのことで、取り次いだのは元親の正室の縁でつながる明智光秀でした(元親の妻については長宗我部元親の妻は誰だったのか)。

信長の側にも事情がありました。播磨では別所長治、摂津では荒木村重が背き、大坂では石山本願寺との戦いが続いていました。周りを敵に囲まれた信長は、四国の三好を背後から押さえてくれる相手を必要としていたのです。三好を倒したい長宗我部と、三好を押さえてほしい信長。両者の思惑が一致しました。

信長の手紙「三好は味方だ」──突然の政策転換

ところが信長は、突然、三好に任せると言い出します。天正9年(1581)6月、信長が親泰に宛てた朱印状が残っていて、三好式部少輔(三好康長の一族)は信長の味方である、阿波ではこの者と連携するように、という内容でした。宿敵の三好と手を組めという命令が、外交役の親泰に届いたのです。

この間に信長をとりまく状況は変わっていました。天正7年に有岡城、天正8年に三木城が落ち、本願寺も大坂を退去して、畿内と播磨の統一をほぼ終えていました。三好を牽制してもらう意味は薄れ、信長の目は次の相手・毛利に向いていました。毛利を攻めるには瀬戸内の海を押さえる必要があり、そのために淡路・阿波を拠点とする三好の水軍を味方につけたかった。これが信長の政策転換でした。三好康長については三好康長とは何者か、荒木村重の城は有岡城で書いています。

▽ よく語られる話
信長は長宗我部を裏切った。
▼ 史実ではこうです
長宗我部から見れば裏切りですが、信長の側では、畿内が片づき次の敵が毛利に変われば、組む相手を替えるのは当然の計算でした。状況で相手を乗り換える天下人の外交と、家を潰さず相手を見捨てない長宗我部の外交は、ここで正面からすれ違います。

四国攻めの直前に起きた本能寺の変

信長と元親の溝は深まり、ついに信長の四国攻めが始まります。天正10年(1582)5月、総大将は信長の三男・神戸信孝と決まり、軍勢は摂津に集まって6月3日に海を渡る予定でした。しかしその矢先の6月2日、本能寺の変で信長は京都で命を落とし、四国攻めはいったん消えました。

2014年に公開された「石谷家文書(いしがいけもんじょ)」には、変の直前に元親が明智光秀の重臣・斎藤利三に宛てた書状があり、元親が信長の命令をある程度受け入れようとしていたことが分かっています。四国攻めを止めたかった光秀・利三の事情が変の動機の一つだったとする「四国説」の根拠ですが、動機は諸説あります。本能寺の変については本能寺の変:なぜ明智光秀は天下を取れなかったのかで詳しく書いています。

命拾いした元親でしたが、「守るすべを見つけねば」と思うたびに、あの父の言葉がよみがえります。強き者に利用され、見捨てられ、攻められかけた。四国の中では大きくなった兄弟も、天下人の前ではまだ「弱く小さき一族」だったのです。

毛利と秀吉の和睦、二方向からの圧迫

本能寺の変のとき、秀吉は備中高松城で毛利と対陣していましたが、すぐに毛利と和睦して京へ引き返しました。これが元親にとっての悪夢でした。伊予の側からは毛利が、淡路・讃岐の側からは秀吉が迫り、四国は二つの方向から圧迫を受けることになったのです(備中高松城)。

このとき伊予で長宗我部の唯一の同盟者として毛利に備えていたのが、伊予国新居郡(にいぐん)、いまの新居浜周辺を治めていた国人・金子元宅でした。番組のドラマでは、元親・親泰・元宅の三人が酒を酌み交わし、「皆、守るものを抱えているのだ」と語り合う場面が描かれます。

小牧・長久手の戦い──家康を取るか、金子を取るか

天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いが起こります。信長の次男・織田信雄と徳川家康が手を組み、秀吉に反旗をひるがえしたのです。信雄は親泰に手紙を送り、「淡州(淡路)」に軍勢を出してほしいと頼みました。信雄と家康は、兄弟を秀吉包囲網に組み込もうとしたわけです。

元親は悩みました。淡路へ兵を出せば四国の守りが薄くなり、毛利に備える金子が危なくなります。家康を取るか、金子を取るか。兄弟が選んだのは、二人で二つの方面に対応することでした。親泰は家康に返書を送って淡路方面に上陸すると約束し、家康からは「大変満足している。あなたの誓いを喜ばしく思う」という手紙が届きます。一方で元親は元宅に、毛利が攻めてきたら親泰をすぐに向かわせるから安心せよと伝えていました。

実際には、長宗我部が淡路に兵を送ることはありませんでした。それでも家康は、兄弟との関係を重んじていました。「淡路へ渡るぞ、渡るぞ」と構えて見せる意欲だけでも、秀吉に大坂の守りを割かせる意味があったからです。さらに元親は、家康と結んだことを元宅にも正直に手紙で伝えていました。隠すより話したほうが、かえって離反されないと考えたのです。番組はこれを、巧みな外交戦略だったと評しています。小牧・長久手の戦いそのものは小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?で解説しています。

宛名を同じ高さに──元親が金子元宅に送った書状

小牧・長久手の戦いを経て、時代は秀吉のもとへまとまっていきます。家康も秀吉の体制に組み込まれ(於義丸(結城秀康)とは)、兄弟と金子はいよいよ最大の危機を迎えようとしていました。

そんなおり、元宅から手紙が届きます。「あなたに対して無二の覚悟を持っています。もし私の身に何かあれば、子どもたちや家をお引き立てください」。長宗我部に忠義を誓い、もしものときは子を頼むという内容です。元親は考えることもなく、すぐに返書を書き始めました。「わしらは、おぬしの味方だ」。そこには、元宅の望みを受け入れると書かれていました。これまで信じた者に裏切られてきた元宅は、手紙を読んで涙を流します。

文机に向かい書状をしたためる長宗我部元親のイメージイラスト

金子元宅への返書をしたためる元親(イメージ・イラスト)

番組によると、この金子への書状は埼玉県に残されていました。金子家に伝わった文書(金子家文書)は、埼玉県の指定文化財として、いまは埼玉県立歴史と民俗の博物館に寄託されています。金子氏のルーツが武蔵国入間郡(いまの埼玉県入間市)の武士団だったことを思うと、不思議な縁です。注目されたのは宛名の位置です。当時の手紙では、名前を書く高さで相手との上下関係を示すのが作法で、大名である元親は本来、宛名を自分の名前より低く書いてよい立場でした。ところが元親は、「金子」の名を自分の名前と同じ高さに書いていたのです。これは非常に特殊な書き方で、元親が元宅を対等に扱い、非常に大事にしていた証拠だと番組は伝えています。

二万の小早川軍に二千で挑んだ金子元宅の最期

元親は秀吉に、阿波・讃岐は返すので土佐と伊予の一部は残してほしいと申し入れ、息子を人質に送ることも示しました。しかし秀吉は四国攻めを決断します。天正13年(1585)6月、秀吉の弟・秀長を総大将とする大軍が四国へ渡り、伊予へは毛利の小早川隆景が攻め込みました。その最前線にいたのが金子元宅です。

伊予国新居郡の金子勢は二千、対する小早川勢は二万。家臣たちは降伏を勧めましたが、元宅は「長宗我部兄弟と約束した。自分を対等に扱ってくれたのは元親だけだ」と言って、戦うことを決めます。元宅は最後に「長宗我部が降伏せぬかぎり、金子も降伏せぬ。長宗我部と金子は同じだ」と言い残し、城に火を放って打って出て、討ち死にしました。

炎上する城から槍を手に打って出る金子元宅のイメージイラスト

城に火を放ち、二万の小早川勢へ打って出る金子元宅(イメージ・イラスト)

知らせを受けた元親は「なぜ降伏せぬのだ」と嘆き、そして「金子は信義を守ったのだ」と受け止めます。秀長が四国攻めの総大将に選ばれた理由は豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのかで書いています。

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豊臣兄弟に敗れて土佐一国へ

ここで豊臣兄弟と長宗我部兄弟の道が交差します。金子の討ち死にからおよそ一か月後、長宗我部は降伏しました。二十五年かけて広げた阿波・讃岐・伊予はすべて取り上げられ、兄弟に残された領地は土佐一国だけでした。四国がどう分けられたかは四国国分とは、二組の兄弟の違いは豊臣兄弟と長宗我部兄弟にまとめています。

長宗我部地検帳に残された金子一族の名前

豊臣に呑み込まれた長宗我部兄弟ですが、それでも金子との約束は忘れていませんでした。元親が晩年に力を入れて取り組んだのが「長宗我部地検帳(じけんちょう)」です。天正15年(1587)ごろから土佐一国で検地を進め、誰がどの土地を持っているのかを記録した台帳で、三百六十冊を超える冊子が残り、国の重要文化財になっています。

その地検帳の中に、ある名前がありました。番組で紹介されたのは「かねこ びしゃじゅまる」「かねこ しゅうおう」「かねこ きゅうざえもん」。兄弟は土佐に移った金子一族に領地を与え、保護していたのです。元宅が最後の手紙で頼んだ「子どもたちや家をお引き立てください」に、兄弟は土地という形で応えていました。金子家は、その後幕末まで土佐で生き残ったといいます。

長宗我部家そのものは、関ヶ原の戦いのあと元親の子・盛親が改易され、大坂の陣ののちに大名としての家は絶えました(長宗我部氏はどうなったのか)。「弱く小さき一族は滅びる」と教えられた兄弟の家は滅びましたが、兄弟が見捨てなかった小さき一族は生き残ったのです。

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信長の朱印状も、家康の手紙も、宛先は親泰でした。兄の外交を一人で背負った弟は、どんな最期を迎えたのか。

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よくある質問

『長宗我部兄弟!』のドラマで元親を演じたのは誰ですか

お笑いコンビ・土佐兄弟の兄の卓也さんが元親、弟のゆうきさんが親泰を演じました。金子元宅は橋本一郎さんです。大河ドラマ『豊臣兄弟!』で元親を演じる磯部寛之さんは、スタジオのナビゲーターとして出演しています。

金子元宅とはどんな人物ですか

伊予国新居郡(いまの愛媛県新居浜市周辺)を治めた国人で、読みは「かねこ もといえ」です。長宗我部と同盟を結んで毛利に備え、天正13年(1585)の四国攻めで小早川隆景の軍と戦って討ち死にしました。

起請文とは何ですか

約束に偽りがないことを神仏に誓う誓約書です。約束の中身を書く前書と、「偽りがあれば神仏の罰を受ける」と誓う神文の二つの部分でできています。

長宗我部地検帳とは何ですか

元親が晩年に土佐一国で行った検地の台帳で、土地ごとに持ち主や広さを記録しています。戦国大名の検地帳がこれほどまとまって残る例は珍しく、国の重要文化財に指定されています。

ゆかりの地をめぐる

長宗我部氏の本拠・岡豊城(高知県南国市)の城跡には、高知県立歴史民俗資料館があり、長宗我部氏の歩みを展示で知ることができます。長宗我部の家紋「七つ片喰(ななつかたばみ)」は、道ばたの雑草・カタバミがモチーフです。抜いても根が残って広がっていくカタバミは、子孫繁栄の願いが込められた紋で、家を潰さずに広げていった兄弟のやり方とも重なります。城跡については岡豊城跡、本山氏の城は本山城、長宗我部関連の記事は長宗我部氏特集にまとめています。

まとめ

「弱く小さき一族は、強き者に利用されていずれ滅びる」。父の言葉を胸に四国一統を目指した長宗我部兄弟は、相手の家を潰さず、縁組や起請文で取り込みながら勢力を広げ、信長・家康・秀吉という天下人に翻弄されながらも、同盟者の金子元宅を最後まで対等に扱いました。元宅はその信義に命で応え、兄弟は土佐一国に押し込められたあとも金子一族を守り続けました。長宗我部兄弟は豊臣兄弟に敗れましたが、もがきにもがいた中にも、四国には揺るぎない約束が生まれていたのです。四国には、まだ知られざる物語が眠っているのかもしれません。

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