岡豊城跡:長宗我部元親の本拠と、発掘で現れた礎石建物跡

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高知県南国市にある岡豊城跡は、長宗我部氏の本拠です。高知平野に突き出した標高九十七メートルの丘を、削って段にしただけの土の城。石垣も天守もありません。ところが発掘を進めると、詰・詰下段・三ノ段から礎石建物の跡と、土塁の内側に立っていた土塀が見つかりました。草地と土の段しか見えない城跡に、確かに建物が並んでいたのです。平成二十年に国の史跡となりました。

この記事のポイント

岡豊城跡の礎石建物跡が残る曲輪

曲輪の地面に点々と並ぶ石。これが建物の礎石である。雨に濡れると土と石の色が分かれ、並びがはっきり見える

目次

岡豊城とはどんな城か

長宗我部氏は、鎌倉期に地頭として土佐へ入ったと伝えられる一族です。その本拠がこの岡豊城でした。

ここから長宗我部元親は土佐を統一し、弟の吉良親貞・香宗我部親泰とともに四国へ出ていきます。四国のほぼ全域に手を伸ばした時期の司令部が、この丘の上にありました。

築城の時期を直接語る史料はありません。現地の案内板も明確な資料は不明としています。十六世紀の終わりごろまで機能した城郭と考えられています。

標高九十七メートル ― なぜこの丘だったのか

岡豊山は、高知平野に突き出た丘陵です。頂上部の標高は九十七メートル。低いようですが、平野の真ん中に立つ独立丘なので、見晴らしは抜群です。

案内板は、眼下に高知平野をのぞみ、遠くまで見渡すことができると書いています。そして南には、浦戸湾にそそぐ国分川が流れる。川は南北の交通路でした。

つまりこの丘は、平野の動きを見張り、川の道を押さえる位置にあります。守りの堅さより、見えることと押さえられることで選ばれた城です。本山城の本山氏、安芸城の安芸氏、中村城の一条氏と土佐を争ううえで、中央に位置する利は大きかったはずです。

詰、詰下段、二ノ段、三ノ段、四ノ段

土佐の城では、本丸にあたる最高所を詰(つめ)と呼びます。岡豊城もそうです。

岡豊城跡の全体案内板

登城路に立つ全体案内板。詰を中心に、詰下段・三ノ段・四ノ段・伝厩屋敷跡が東西に連なり、その間を堀切と竪堀が断ち切る

案内板の図を見ると、詰を中心に詰下段、二ノ段、三ノ段、四ノ段が段々に下り、東には伝厩屋敷跡が張り出しています。曲輪と曲輪のあいだは堀切で断ち切られ、斜面には竪堀が刻まれている。虎口は西側に開かれていました。

石を積まず、土を削るだけでこれだけの構造を作る。関東の黒羽城や皆川城と同じ、中世の土の城の発想です。

岡豊城跡の石段

曲輪をつなぐ石段。この道を、土佐じゅうの村から兵が上がってきた

発掘が変えた岡豊城の姿

この城跡がおもしろいのは、掘ったら建物が出てきたことです。

案内板はこう記します。岡豊城跡の詰、詰下段・三ノ段では礎石建物跡や土塁と、その内側に土塀が発見されています、と。

岡豊城跡の曲輪に残る礎石と石積み

別の曲輪の礎石。奥には石積みが二段に重なる。土の城と言っても、すべてが土だったわけではない

礎石建物とは、柱を地面に直接埋めるのではなく、石の上に立てる建物のことです。掘立柱より格段に長持ちし、重い屋根も載せられます。つまり岡豊城の主要な曲輪には、仮設ではないきちんとした建物が建っていたということになります。

さらに土塁の内側に土塀。ただ土を盛っただけの縁ではなく、その上に塀を立てて視線と矢を遮っていた。草地と土の段しか見えない城跡が、実際にはもっと「建っていた」城だったことが、発掘によって見えてきました。

石を積まない城イコール粗末な城、ではありません。岡豊城を歩くときは、いま見えている平場の上に建物の列を思い描いてみてください。

出土品が語る、土佐の外とのつながり

案内板によれば、この城跡からは土坑墓とともに、白磁・青磁と呼ばれる輸入陶磁器、瀬戸の焼き物、石鍋や擂鉢といった品々が出土しています。

白磁と青磁は大陸から渡ってきたものです。瀬戸は尾張。土佐の山城に、海を越えた器と本州の器が届いていた。長宗我部は辺境に閉じこもっていた一族ではなかったという、物からの裏づけになります。

のちに香宗我部親泰が織田信長や豊臣秀吉との交渉を担えたのも、こうした外との回路があったからでしょう。

一領具足は、ここへ集まった

長宗我部の兵の多くは、城下に住む専業の武士ではありませんでした。ふだんは自分の田を耕し、槍と具足を畦のそばに置いておく。呼ばれればそのまま駆けつける。一領具足です。

だから岡豊城の下には、大きな城下町がありません。かわりに土佐じゅうの村に兵がいました。動員がかかると、その兵たちがこの丘へ上がってくる。石段を登りながら、その人の流れを想像すると、この城の性格がつかめます。

元親はなぜ岡豊を出たのか

四国を切り取った時期の司令部は、ずっと岡豊城でした。しかし元親は晩年、海に面した浦戸城へ本拠を移します。

豊臣秀長を総大将とする四国攻めに降伏し、土佐一国だけを安堵されたあとのことです。四国全体を睨む必要がなくなり、かわりに豊臣政権の一員として海の道を使う必要が出てきた。一宮城まで攻め込まれた経験も、内陸の丘に籠もることの限界を教えたはずです。

そして慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原ののちに長宗我部は改易されます。浦戸城の引き渡しを拒んだ一領具足たちが起こしたのが浦戸一揆でした。岡豊で始まった長宗我部の物語は、浦戸で終わります。

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【現地取材】岡豊城跡を歩く—長宗我部の敗北が生んだ「郷士」と、幕末土佐の身分の壁

同じ岡豊城を、幕末の側から見た記事です。長宗我部の敗北が郷士という身分を生みました。

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信親の戦死、関ヶ原での改易、一領具足が蜂起した浦戸一揆、そして盛親の最期までを追っています。

元親がのちに本拠を移した大高坂山には、江戸時代に山内一豊が高知城を築きました。詳しくは高知城:天守と本丸御殿がともに残る唯一の城と、山内一豊が大高坂山に築いた土佐二十四万石の本拠をご覧ください。

雨の日の岡豊山 ― 見どころとアクセス

城跡は岡豊山歴史公園として整備され、麓に高知県立歴史民俗資料館があります。資料館から歩いて曲輪を回れる構成です。

歩くなら、詰まで登ってから東の伝厩屋敷跡の方へ尾根づたいに進むのがおすすめです。堀切を渡るたびに曲輪が変わり、竪堀が斜面を刻んでいるのが見えます。所要は一時間ほど。

雨の日は足もとが滑りますが、悪いことばかりでもありません。地面が濡れると、土と石の色がはっきり分かれます。乾いていると景色に紛れてしまう礎石の並びが、雨の日は一つずつ浮かび上がる。礎石建物跡を見に行くなら、雨上がりはむしろ好条件です。

所在地は高知県南国市岡豊町八幡。駐車場があります。

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