土佐藩の上士と下士:板垣退助・後藤象二郎・吉田東洋と、武市半平太・岡田以蔵・坂本龍馬の家はどこから来たのか

土佐藩には、二種類の武士がいました。上士と下士です。上士は山内一豊とともに土佐へ入ってきた家の子孫、下士はもとから土佐にいた一領具足の系譜。幕末の土佐で名を残した人々は、この線のどちら側に生まれたかで人生の入口が違っていました。板垣退助、後藤象二郎、吉田東洋は上へ。武市半平太、岡田以蔵、坂本龍馬は下へ。その線の始まりは、関ヶ原の年にあります。ただし一度に引かれたのではなく、何十年かかけて固まっていきました。

この記事のポイント
  • 上士は山内家とともに他国から入った家、下士は長宗我部の遺臣の系譜
  • 山内家は一領具足層を懐柔するため、彼らを郷士として取り立てた
  • 郷士のうち功績のある家を白札として上士待遇にする制度があった
  • 板垣退助の乾家は天正十八年に山内一豊に召し抱えられている
  • 長宗我部の改易は慶長五年。わずか十年の差で、上と下が分かれた
図|土佐藩の身分と、幕末の人物

上士山内家とともに土佐へ入った家の子孫吉田東洋(参政・役高三百石) 乾家=板垣退助(馬廻格三百石)後藤家=象二郎(馬廻格百五十石)白札功績により上士待遇とされた郷士武市半平太(武市家)郷士・足軽長宗我部の遺臣、一領具足の系譜坂本龍馬(郷士株を買った家)岡田以蔵(郷士の家に生まれ足軽格)乾家が山内に仕えたのは天正十八年。長宗我部の改易は慶長五年。その差わずか十年。

同じ土佐の武士でありながら、どちらの側から来たかで二百六十年扱いが分かれた。
目次

上士と下士、区別はどこから来たか

慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原ののちに長宗我部盛親は改易され、土佐は山内一豊に与えられました。一豊は掛川から家臣団を連れて入国します。

草に覆われた斜面の上に立つ「岡豊城跡」の石柱
岡豊城跡。下士とされた家の多くは、もともとこの城の主・長宗我部に仕えていました

ところが土佐には、長宗我部の遺臣が村々に残っていました。全員を追い出せば国が回らない。武器を持たせたままでは浦戸のような一揆がまた起きる。そこで山内家は彼らを郷士として召し抱えました。土地に住まわせたまま、下級の武士として家中に組み込んだのです。

結果として土佐では兵農分離が最後まで不完全に終わり、村に刀を差した者が残る状態が江戸時代を通じて続きました。そして「山内とともに来た家」と「もとからいた家」という出自の線が、そのまま身分の線になったのです。

土佐の身分が実際にどう層をなしていたかは、姉妹サイト「幕末歴史ガイド」の土佐藩の身分制度 ― 上士・郷士の違いと龍馬・武市・以蔵の身分一覧に早見表があります。城そのものを歩いた記録は【現地取材】岡豊城跡を歩くに。

山内家はなぜ、追い出さなかったのか ─ 一万七千人という数

長宗我部の遺臣を召し抱えたのは、山内家の温情ではありません。追い出すという選択肢が、物理的になかったのです。

慶長五年、改易を受けて浦戸城を接収しに来た徳川の上使に対し、長宗我部の家臣と一領具足が蜂起しました。浦戸一揆です。上使の宿所だった雪蹊寺を取り囲んだ人数は、一万七千と伝わります。家康は激怒して四国の諸大名に出兵を命じ、一揆は内部からの切り崩しで十二月一日に破れ、同五日に接収が終わりました。大坂へ送られた首級は百七十三。

落ち葉の積もった斜面に、崩れかけた石積みが段をなして残っている(岡豊城跡)
岡豊城跡の石積み。この城を支えた兵が、山内家の入国時にはまだ村々に残っていました

山内一豊が浦戸城に入ったのは、その翌年の正月八日です。一豊は、鎮圧されたばかりの国へ入っていったことになります。

掛川から連れてきた家臣団で、二十万二千六百石の国を一から治められるはずがありません。かといって武器を持った一万七千を野に放てば、浦戸がもう一度起きる。召し抱えるのが、いちばん安上がりだった。郷士という身分は、そういう算盤から生まれています。

線は、一度に引かれたわけではない

関ヶ原の年にすべてが決まった、と書くと話はきれいです。ただ、実際の線はもう少しあとから固まっていきました。

▽ よく語られる話
関ヶ原で長宗我部が改易された瞬間、土佐の武士は「山内とともに来た上士」と「残された下士」にくっきり二分された。
▼ 史実ではこうです
そこまで単純ではありません。長宗我部の旧臣であっても、有能な人材は最初から上士として召し抱えられた例が多数あります。出身がそのまま身分を決めたわけではないのです。
郷士という制度そのものも、慶長十八年に香美郡山田村の開発で取り立てられた「慶長郷士」がその端緒とされ、関ヶ原の直後に完成したものではありません。線は一度に引かれたのではなく、何十年かかけて固まっていったというのが実際のところです。

幕末の時点で、郷士の総数は八百人ほど。うち大組が三百七十、小組が四百三十と伝わります。岡豊城跡に拠った長宗我部の家臣団の規模を思えば、郷士として残れたのはその一部でした。

白札 ― 中間に置かれた段

山内家の統治は力ずくではありませんでした。郷士のうち功績のある家を白札とし、上士待遇を与える制度を用意しています。

身分をきっちり二つに割ってしまえば、割られた側は結束します。中間に段を設けて上がれる道を見せておく。他藩には見られない弾力的な仕組みでした。

ただし、道があることと溝がないことは別です。むしろ「あと一段で上士」という位置にいる者ほど、その一段の重さを日々感じることになります。

乾家 ― 掛川から来た三百石

板垣退助の生家である乾家は、上士です。父の乾正成は馬廻格・三百石でした。

馬上で采配をとる武将の銅像。黄葉した木立を背にしている
山内一豊の騎馬像。上士とされた家は、この人物とともに掛川から土佐へ入ってきました

面白いのはその出自です。乾家の本姓は板垣。武田信玄の重臣・板垣信方を祖とする家で、初代の正信は信方の孫にあたります。武田が滅びたあと、正信は小田原征伐に陣借りして奮戦し、その功によって、山内一豊が遠江掛川に封ぜられた天正十八年(一五九〇)に召し抱えられました。

つまり乾家は、山内家が土佐へ入るより十年前からの家臣です。一豊が土佐一国を得たとき、当然のように一緒に海を渡り、そのまま上士になりました。

のちに退助は乾から板垣へ復しています。戊辰戦争で甲府へ向かうにあたり、板垣信方の子孫であることを示して甲斐の人心を得るためだったと言われます。

後藤象二郎 ― 馬廻格百五十石

後藤象二郎も上士です。父の後藤正晴は馬廻格・百五十石でした。

板垣退助とは竹馬の友で、互いを幼名で呼び合う仲だったと伝わります。遠縁の親戚でもありました。上士の世界は狭く、家同士が縁でつながっている。この近さが、のちに二人が藩政の中枢で組む素地になります。

後藤がのちに土佐藩の建白をまとめ、大政奉還へ結びつけていく経緯は大政奉還とは ― 慶喜はなぜ政権を返したのかで扱っています。

吉田東洋 ― 上士の頂点にいた参政

そして吉田東洋。生家は土佐藩上士で、安政四年には新知百五十石・役高三百石を給されています。

天保十三年に船奉行として出仕し、郡奉行を経て、嘉永六年には大目付に抜擢され、同年十二月には参政として藩政改革を主導しました。実質的に土佐藩を動かした人物です。

東洋は少林塾を開き、板垣退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎といった若手を教えました。後藤象二郎は東洋の義理の甥にあたり、父の死後は東洋が父親代わりとなって養育しています。

板垣、後藤、岩崎。のちの土佐を担う面々が、一人の上士の私塾から出ている。上士の世界には、人を育てて送り出す仕組みがありました。

暗殺そのものの経緯と、土佐勤王党がなぜ東洋を狙ったのかは吉田東洋暗殺とは ― 土佐勤王党はなぜ斬ったのかに詳しくあります。

武市半平太 ― 白札の郷士

一方の下士側。武市半平太の武市家は白札でした。郷士でありながら上士待遇を受ける、あの中間の段です。

木立に囲まれた平坦地。石畳の広場に案内板が立っている
岡豊城跡の曲輪。長宗我部の家臣団は、この城を失ったあと郷士として土佐に残りました

白札という位置は微妙です。上士の席に連なることはできる。しかし生まれは郷士であり、譜代の上士から見れば別の出自の人間である。もっとも身分の線を意識せざるを得ない場所にいたと言えます。

半平太が土佐勤王党を結成し、下士を束ねる側に立ったことは、この立ち位置と無縁ではないでしょう。

半平太の邸跡や道場跡、殉節之地は【現地取材】武市半平太ゆかりの地を歩くで実際に歩いています。

岡田以蔵 ― 郷士の家に生まれ、足軽として生きた

岡田以蔵の父・岡田義平は、郷士でありながら足軽の身分を買って兵役に従事していました。以蔵も父と同じく足軽の身分を継いでいます。

ここに土佐の身分制度のもう一つの顔が出ています。身分は売り買いできたのです。郷士の家であっても、実際の暮らしや役目は足軽だった。下士のなかにも、さらに細かい段差がありました。

以蔵の生涯は岡田以蔵とは何をした人物かに、同じ時代の人斬りと並べた比較は幕末四大人斬りとはにまとめています。

坂本龍馬 ― 郷士株を買った家

坂本家も、もとからの郷士ではありません。豪商だった坂本直益が土佐藩から郷士株を購入し、龍馬の曽祖父の代から郷士身分を得ています。

つまり坂本家は、商家の財で武士の身分を買った家でした。父系の先祖にあたる宮地家・山本家は白札に該当します。

金で身分が動くということは、身分が固定された絶対のものではなかったということでもあります。それでも上士と下士の線だけは越えられませんでした。郷士株は買えても、上士にはなれない。

龍馬の最期については坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか ― 犯人・黒幕・近江屋事件をどうぞ。

十年の差で、上と下が分かれた

▽ 上士になった家
乾家の初代・正信が山内一豊に召し抱えられたのは天正十八年(一五九〇)。小田原征伐での功による。
▼ 下士になった家
長宗我部が改易され、一領具足が郷士として召し抱えられたのは慶長五年(一六〇〇)以降。

その差、わずか十年です。十年早く山内家に仕えていたかどうか。それだけで、子孫の二百六十年が決まりました。

大きな石垣の脇に立つ高知城の天守。手前に松が植えられている
高知城。山内家が築いたこの城が、上と下を分ける線を土佐に持ち込みました

しかも天正十八年という年は、芦野氏が所領を安堵され、那須氏が改易された年でもあります。この年、全国で無数の家の運命が分かれました。土佐でもまた、ここから線が引かれはじめていたのです。

なぜ二百六十年も消えなかったのか ─ 住む場所が違った

身分の差は、どの藩にもありました。土佐で特徴的なのは、それが二百六十年ものあいだ、薄まらずに残ったことです。

理由のひとつは、住む場所が分かれていたことにあります。上士は高知城のまわりの郭中に集まって住みました。いっぽう郷士は、召し抱えられたときに土地に住まわせたまま家中へ組み込まれたので、多くが農村や山間部に住み続けました。城下の上町・下町に住む郷士もいましたが、郭中には入りません。

木立と瓦屋根ごしに見上げた高知城の天守。青空が広がっている
高知城。この城のまわりの郭中に住めるかどうかが、上と下を分ける線でもありました

同じ藩士でありながら、朝に顔を合わせる相手が違う。子どもが遊ぶ相手が違う。縁組の相手も自然と分かれる。制度が線を守ったというより、生活の場が離れていたから線が薄まらなかったのです。兵農分離が最後まで不完全に終わったことが、結果として身分の差を二百六十年保存する装置になりました。

幕末に土佐から脱藩者が相次いだ背景にも、この構造があります。藩の中で上へ行く道がない者にとって、動けるのは藩の外しかありませんでした。

文久二年四月八日、溝が血を見た

上士と下士の溝は、ついに血を見ます。

高台から見下ろした高知の市街地。家並みの向こうに山が連なる
高知の城下。吉田東洋が斬られたのは、この城下の帰り道でした

文久二年四月八日、参政・吉田東洋が暗殺されました。下手人は土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助。享年四十七。

上士の頂点にいて藩政を動かしていた男が、下士の党に殺された。板垣退助と岩崎弥太郎を教えた師が、武市半平太の党に討たれた。二百六十年分の溝が、一夜で形になった事件でした。

のちに土佐から坂本龍馬や中岡慎太郎のように脱藩する者が多く出たのも、この構造と無縁ではありません。藩の中に居場所がない者が、藩の外へ出ていったのです。

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東洋を斬った三人――那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵――は、いずれも郷士の出でした。斬った側も斬られた側も、この記事で見てきた線の上に立っています。

まとめ

土佐藩の上士と下士は、能力でも財でもなくいつ、どちら側から来たかで分かれていました。上士は山内家とともに入った家、下士は一領具足の系譜。

板垣退助の乾家は天正十八年に召し抱えられ、長宗我部の遺臣が郷士になったのは慶長五年。十年の差が、二百六十年続きました。

白札という中間の段があり、郷士株は金で買えた。それでも上士と下士の線だけは越えられない。戦国の終わり方が、幕末の土佐の顔ぶれを決めていたのです。

山内家二十万二千六百石そのものの歩みは土佐藩(高知藩)/山内家にまとめてあります。

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