土佐藩には、二種類の武士がいました。上士と下士です。上士は山内一豊とともに土佐へ入ってきた家の子孫、下士はもとから土佐にいた一領具足の系譜。幕末の土佐で名を残した人々は、この線のどちら側に生まれたかで人生の入口が違っていました。板垣退助、後藤象二郎、吉田東洋は上へ。武市半平太、岡田以蔵、坂本龍馬は下へ。その線が引かれたのは、関ヶ原の年です。
- 上士は山内家とともに他国から入った家、下士は長宗我部の遺臣の系譜
- 山内家は一領具足層を懐柔するため、彼らを郷士として取り立てた
- 郷士のうち功績のある家を白札として上士待遇にする制度があった
- 板垣退助の乾家は天正十八年に山内一豊に召し抱えられている
- 長宗我部の改易は慶長五年。わずか十年の差で、上と下が分かれた
上士と下士、区別はどこから来たか
慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原ののちに長宗我部盛親は改易され、土佐は山内一豊に与えられました。一豊は掛川から家臣団を連れて入国します。
ところが土佐には、長宗我部の遺臣が村々に残っていました。全員を追い出せば国が回らない。武器を持たせたままでは浦戸のような一揆がまた起きる。そこで山内家は彼らを郷士として召し抱えました。土地に住まわせたまま、下級の武士として家中に組み込んだのです。
結果として土佐では兵農分離が最後まで不完全に終わり、村に刀を差した者が残る状態が江戸時代を通じて続きました。そして「山内とともに来た家」と「もとからいた家」という出自の線が、そのまま身分の線になったのです。
白札 ― 中間に置かれた段
山内家の統治は力ずくではありませんでした。郷士のうち功績のある家を白札とし、上士待遇を与える制度を用意しています。
身分をきっちり二つに割ってしまえば、割られた側は結束します。中間に段を設けて上がれる道を見せておく。他藩には見られない弾力的な仕組みでした。
ただし、道があることと溝がないことは別です。むしろ「あと一段で上士」という位置にいる者ほど、その一段の重さを日々感じることになります。
乾家 ― 掛川から来た三百石
板垣退助の生家である乾家は、上士です。父の乾正成は馬廻格・三百石でした。
面白いのはその出自です。乾家の本姓は板垣。武田信玄の重臣・板垣信方を祖とする家で、初代の正信は信方の孫にあたります。武田が滅びたあと、正信は小田原征伐に陣借りして奮戦し、その功によって、山内一豊が遠江掛川に封ぜられた天正十八年(一五九〇)に召し抱えられました。
つまり乾家は、山内家が土佐へ入るより十年前からの家臣です。一豊が土佐一国を得たとき、当然のように一緒に海を渡り、そのまま上士になりました。
のちに退助は乾から板垣へ復しています。戊辰戦争で甲府へ向かうにあたり、板垣信方の子孫であることを示して甲斐の人心を得るためだったと言われます。
後藤象二郎 ― 馬廻格百五十石
後藤象二郎も上士です。父の後藤正晴は馬廻格・百五十石でした。
板垣退助とは竹馬の友で、互いを幼名で呼び合う仲だったと伝わります。遠縁の親戚でもありました。上士の世界は狭く、家同士が縁でつながっている。この近さが、のちに二人が藩政の中枢で組む素地になります。
吉田東洋 ― 上士の頂点にいた参政
そして吉田東洋。生家は土佐藩上士で、安政四年には新知百五十石・役高三百石を給されています。
天保十三年に船奉行として出仕し、郡奉行を経て、嘉永六年には大目付に抜擢され、同年十二月には参政として藩政改革を主導しました。実質的に土佐藩を動かした人物です。
東洋は少林塾を開き、板垣退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎といった若手を教えました。後藤象二郎は東洋の義理の甥にあたり、父の死後は東洋が父親代わりとなって養育しています。
板垣、後藤、岩崎。のちの土佐を担う面々が、一人の上士の私塾から出ている。上士の世界には、人を育てて送り出す仕組みがありました。
武市半平太 ― 白札の郷士
一方の下士側。武市半平太の武市家は白札でした。郷士でありながら上士待遇を受ける、あの中間の段です。
白札という位置は微妙です。上士の席に連なることはできる。しかし生まれは郷士であり、譜代の上士から見れば別の出自の人間である。もっとも身分の線を意識せざるを得ない場所にいたと言えます。
半平太が土佐勤王党を結成し、下士を束ねる側に立ったことは、この立ち位置と無縁ではないでしょう。
岡田以蔵 ― 郷士の家に生まれ、足軽として生きた
岡田以蔵の父・岡田義平は、郷士でありながら足軽の身分を買って兵役に従事していました。以蔵も父と同じく足軽の身分を継いでいます。
ここに土佐の身分制度のもう一つの顔が出ています。身分は売り買いできたのです。郷士の家であっても、実際の暮らしや役目は足軽だった。下士のなかにも、さらに細かい段差がありました。
坂本龍馬 ― 郷士株を買った家
坂本家も、もとからの郷士ではありません。豪商だった坂本直益が土佐藩から郷士株を購入し、龍馬の曽祖父の代から郷士身分を得ています。
つまり坂本家は、商家の財で武士の身分を買った家でした。父系の先祖にあたる宮地家・山本家は白札に該当します。
金で身分が動くということは、身分が固定された絶対のものではなかったということでもあります。それでも上士と下士の線だけは越えられませんでした。郷士株は買えても、上士にはなれない。
十年の差で、上と下が分かれた
その差、わずか十年です。十年早く山内家に仕えていたかどうか。それだけで、子孫の二百六十年が決まりました。
しかも天正十八年という年は、芦野氏が所領を安堵され、那須氏が改易された年でもあります。この年、全国で無数の家の運命が分かれました。土佐でもまた、ここから線が引かれはじめていたのです。
文久二年四月八日、溝が血を見た
上士と下士の溝は、ついに血を見ます。
文久二年四月八日、参政・吉田東洋が暗殺されました。下手人は土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助。享年四十七。
上士の頂点にいて藩政を動かしていた男が、下士の党に殺された。板垣退助と岩崎弥太郎を教えた師が、武市半平太の党に討たれた。二百六十年分の溝が、一夜で形になった事件でした。
のちに土佐から坂本龍馬や中岡慎太郎のように脱藩する者が多く出たのも、この構造と無縁ではありません。藩の中に居場所がない者が、藩の外へ出ていったのです。
まとめ
土佐藩の上士と下士は、能力でも財でもなくいつ、どちら側から来たかで分かれていました。上士は山内家とともに入った家、下士は一領具足の系譜。
板垣退助の乾家は天正十八年に召し抱えられ、長宗我部の遺臣が郷士になったのは慶長五年。十年の差が、二百六十年続きました。
白札という中間の段があり、郷士株は金で買えた。それでも上士と下士の線だけは越えられない。戦国の終わり方が、幕末の土佐の顔ぶれを決めていたのです。
