高知城:天守と本丸御殿がともに残る唯一の城と、山内一豊が大高坂山に築いた土佐二十四万石の本拠

高知城の追手門越しに見える天守

高知城は、高知市の中心にある大高坂山(おおたかさやま)に建つ城です。関ヶ原の戦いのあと土佐一国を与えられた山内一豊が築き、以後、明治まで土佐藩山内家の居城でした。天守をはじめ十五棟の建物が国の重要文化財に指定され、日本100名城にも選ばれています。

この記事のポイント
  • 高知城は、関ヶ原の戦いのあと土佐を与えられた山内一豊が、慶長6年(1601)に大高坂山で築きはじめた城です。
  • この山には、かつて長宗我部元親も城を構えましたが、水はけの悪さなどから数年で浦戸へ移ったとされます。
  • 享保12年(1727)の大火でほとんどを失い、天守は寛延2年(1749)ごろに元の姿で建て直されました。
  • 天守と本丸御殿がそろって残り、本丸の建物がすべて現存する、全国でただ一つの城です。
目次

大高坂山 ── 元親が一度は本拠にした山

大高坂山には、南北朝時代に大高坂氏の城があったと伝わります。戦国時代の終わりには、土佐を統一した長宗我部元親が、本拠を岡豊城からこの山に移しました。移転の時期は天正15年(1587)とされ、天正13年とする説もあります。

しかし元親は、天正19年(1591)ごろには海に近い浦戸城へ再び本拠を移しています。大高坂山のまわりは川に囲まれた低湿地で、水はけが悪く城下の整備に苦しんだことが理由とされます。ただ、朝鮮出兵に備えて港に近い浦戸に移ったとする見方や、大高坂山の整備は続いていたとする説もあり、はっきりとは分かっていません。

関ヶ原のあと、山内一豊が土佐へ

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、元親の子・長宗我部盛親は西軍についたため、戦後に領地を取り上げられました(長宗我部氏はどうなったのか)。代わって土佐を与えられたのが、遠江掛川城の城主だった山内一豊です。小山評定でいち早く城を家康に差し出すと申し出たことが評価されたと言われます(関ヶ原の戦いの戦闘に参加しなくても出世した男 山内一豊)。

一豊の入国に先立ち、浦戸城の明け渡しをめぐっては、これを拒む長宗我部の旧臣たち(一領具足)が抵抗する浦戸一揆も起きています。慶長6年(1601)に浦戸城へ入った一豊は、城下町を広く取れる大高坂山に新しい城を築くことを決め、同じ年の秋に工事を始めます。

高知城の追手門越しに見える天守

追手門越しに見える高知城天守(写真AC)

百々越前と「河中山」から「高知」へ

築城の総奉行を任されたのは、家臣の百々綱家(どど つないえ、越前守)です。城づくりに通じた人物として知られ、慶長8年(1603)には本丸と二の丸ができあがり、一豊が入城しました。このとき城は「河中山(こうちやま)城」と名づけられています。二つの川に挟まれた土地の姿をそのまま表した名でした。

ところがその後も水害に悩まされたため、2代藩主・山内忠義のとき、慶長15年(1610)に「河中」の字を嫌って「高智山(こうちやま)城」と改めたと伝わります。のちに「高知」と書くようになり、これがいまの県名・市名のもとになりました。三の丸まで含めて城全体が完成したのは、慶長16年(1611)のことです。

享保の大火と、元の姿での再建

享保12年(1727)、城下から出た火が城に燃え移り、追手門などわずかな建物を残して天守も御殿も焼けてしまいました。藩は再建に取りかかり、天守は寛延2年(1749)ごろに、焼ける前の姿を忠実に写して建て直されたと考えられています。すべての再建が終わったのは宝暦3年(1753)で、四半世紀にわたる工事でした。

このため、いまの天守は江戸時代中期の建物ですが、つくりは慶長の創建時のままの古い様式を残しています。天守は四重六階(一重目の屋根を腰庇とみなして三重六階とも数えます)の望楼型で、最上階には高欄(手すりの付いた廻縁)がめぐっています。この高欄は、一豊が以前に治めた掛川城の天守を模したものと言われています。

高知城の現存天守

高知城の天守(写真AC)

本丸がまるごと残る、ただ一つの城

高知城のいちばんの特徴は、本丸の建物が完全に残っていることです。天守だけが残る城は他にもありますが、高知城では天守と本丸御殿(懐徳館)、納戸蔵、東西の多聞櫓、廊下門、黒鉄門、それらをつなぐ塀までがそろって現存しています。天守と本丸御殿がともに残るのは、全国でも高知城だけです。

本丸御殿は書院造りで、西向きに式台のある玄関を設け、奥に藩主が座る上段の間を置いています。城の御殿が天守のすぐ脇にそのまま残る例はほかになく、江戸時代の城の暮らしを実際の建物で見ることができます。

また、本丸の手前にある詰門(つめもん)は、二の丸と本丸を結ぶ廊下を兼ねた珍しい門です。石垣には雨水を外へ流す石樋(いしどい)がいくつも突き出していて、雨の多い土佐ならではの工夫として知られています。

追手門越しに見上げる天守

城の正面にあたる追手門は、享保の大火でも焼け残ったとされる門で、門をくぐる前から石垣の上に天守が見えます。門と天守を一枚の写真に収められる城は珍しく、高知城を代表する眺めになっています。

追手門の近くには一豊の騎馬像が立ち、城内には妻・千代の像もあります。内助の功で知られる千代は、名馬の逸話とともに今も高知の人々に親しまれています(山内一豊:苦労の末に土佐一国の城主となった戦国武将)。

高知城に立つ山内一豊の騎馬像

追手門近くに立つ山内一豊の騎馬像(写真AC)

明治以降の高知城

明治6年(1873)の廃城令で城は公園となり、三の丸などの多くの建物は取り壊されましたが、本丸の建物は残されました。昭和9年(1934)に天守など15棟が国宝(のちの法改正で重要文化財)に指定され、戦後には昭和の大修理が行われています。昭和20年(1945)の高知大空襲でも天守と本丸御殿は焼失を免れ、江戸時代の姿を今に伝えています。

土佐藩では、一豊とともに入国した家臣(上士)と、長宗我部の旧臣の流れをくむ郷士(下士)との間に身分の差が残り、それが幕末の土佐の動きにもつながりました(土佐藩の上士と下士)。高知城は、その藩の中心だった場所でもあります。

高知城から見た高知市街

高知城から見た高知市街(写真AC)

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高知城の場所とアクセス

JR土讃線「高知」駅から徒歩約25分。とさでん交通の路面電車「高知城前」電停から徒歩約5分。天守と本丸御殿は有料で見学できます(開館時間・料金は現地の案内でご確認ください)。

【場所】高知県高知市丸ノ内1丁目2-1(高知公園)

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