黒羽城跡(黒羽城址公園):家康が鉄砲を送った城と、芭蕉が十四日いた町

栃木県大田原市前田にある黒羽城跡は、那珂川を見下ろす細長い丘の上にあります。天守も石垣もなく、残っているのは土塁と空堀だけ。それでもこの城は、関ヶ原の年に徳川家康が名指しで補強を命じ、鉄砲まで送り届けた城でした。上杉景勝が会津で兵を挙げたとき、江戸から見て最前線に立っていたのがここです。大関氏が二百九十五年にわたって本拠とし、松尾芭蕉が「おくのほそ道」の全行程でもっとも長く足を止めた町でもあります。

この記事のポイント
  • 天正四年(一五七六)、大関高増が余瀬の白旗城から移って築いた
  • 慶長五年(一六〇〇)、家康が上杉景勝に備えて修築を命じ、鉄砲を与えた
  • 明治四年(一八七一)の廃藩置県まで、二百九十五年間ずっと大関氏の居城
  • 黒羽藩は一万八千石。藩主家の大関氏は那須七騎の一つ
  • 松尾芭蕉は元禄二年(一六八九)、ここに十四日間(十三泊)滞在した。おくのほそ道で最長
  • 那須神社(金丸八幡宮):与一が祈ったと伝わる社と、重要文化財の本殿・楼門

黒羽城跡に残る空堀

本丸まわりに残る空堀。石をいっさい使わず、土を掘り下げただけでこの深さをつくっている

目次

那珂川を見下ろす、細長い丘

黒羽城は、那珂川の東岸に南北へ細長く延びた丘の上にあります。川からの比高はおよそ四十メートル。山城と呼ぶには低く、平城と呼ぶには高い、いわゆる平山城です。

大田原市が立てた「黒羽城の由来」の案内板は、この地形の選び方を四神相応の考え方で説明しています。北に丘陵が連なり、東に前田川が流れ、南は那珂川を隔てて街道が通る。土地の四方が、都を造るときの理想の形にあてはまると見立てたわけです。

実用の面でも理にかなっています。那珂川は天然の外堀になり、川沿いの街道を押さえれば人と物の流れを掌握できる。大田原城が奥州街道を押さえたのに対し、黒羽城は那珂川の水運と東側の道を押さえました。那須七騎の城が、どこを見張るために建てられたかがよくわかります。

黒羽城の由来を記した案内板

「黒羽城の由来」の案内板。築城の経緯から幕末の藩主・大関増裕のことまで、一枚に凝縮されている

天正四年、余瀬から丘の上へ移った

それまで大関氏は、余瀬(よぜ)の白旗城を本拠にしていました。天正四年(一五七六)、大関高増が新たにこの丘を選び、黒羽城を築いて移ります。案内板は「進展する戦国の世に対処すべく新たな構想のもと」と書いています。

移ったのは城だけではありません。余瀬にあった大雄寺・帰一寺・新善光寺の三か寺も、城とともにこの地へ移されました。城を動かすとは、寺を動かし、町を動かすことでもあった。城下町ごとの引っ越しです。

天正四年という年に注目すると、この決断の切実さが見えてきます。織田信長が安土城の普請を始めた年であり、関東では北条氏の圧力が那須の諸家にのしかかっていた頃です。烏山城の那須氏を筆頭とする那須七騎は、北条につくか佐竹につくかで割れていました。大関氏が丘の上へ移ったのは、その渦中でのことでした。

慶長五年、家康が鉄砲を送った

この城の歴史でいちばん見逃せないのが、案内板に記された次の一節です。

▶ 現地の案内板より

其の後慶長五年、嗣子資増の代、会津の上杉景勝が徳川家康に叛いたので、家康はそれに備える為、臣下を黒羽城に遣し、資増に命じて更に修築させ、且つ鉄砲を給与した。

慶長五年(一六〇〇)は関ヶ原の年です。家康が会津の上杉景勝を討つため東へ向かい、下野の小山まで来たところで石田三成の挙兵を知って引き返した――いわゆる小山評定のあった年。

会津から江戸へ南下する道筋を地図で追うと、白河を越えた先に那須があり、その東寄りに黒羽があります。上杉が動いたとき、最初にぶつかる城のひとつが黒羽城でした。家康が家臣をわざわざ派遣して縄張りを補強させ、鉄砲まで供給したのは、ここを捨て石にする気がなかったということです。

結果として上杉軍は南下せず、黒羽城で戦闘は起きませんでした。しかし大関資増は東軍として遇され、大関氏は江戸時代を通じて黒羽に残ります。改易も転封もなく、同じ城に二百九十五年。これは外様の小藩としては珍しいことです。

『創垂可継』が伝える御本城の姿

本丸跡へ向かう途中に、古図を復刻した案内板が立っています。「黒羽藩大関氏 御本城御住居全図」。黒羽藩の藩史『創垂可継(そうすいかけい)』の「居館規矩(きょかんきく)」の巻に載る図で、文化十四年(一八一七)ごろの姿を描いたものです。

黒羽城の御本城御住居全図を復刻した案内板

『創垂可継』「居館規矩」による御本城御住居全図。曲輪ごとの建物配置が細かく描かれている

ここから読み取れるのは、黒羽城が天守を頂く城ではなく、複郭型の居館だったということです。丘の上に曲輪をいくつか連ね、そこに御殿と役所を置く。戦うための施設というより、藩の政庁と藩主の住まいを土塁で囲った造りです。

案内板は続けてこう書きます。残存する土塁・空壕は、戦国末期の山城の機構を今によく伝えている、と。江戸時代の役所でありながら、器は戦国のまま使い続けられた。石垣に積み替える必要もなかったし、そんな余裕もなかったのでしょう。

残っているのは、土と、それを渡る橋

黒羽城址公園として整備されていますが、遺構の見え方は率直です。石垣はひとつもありません。あるのは掘り下げた空堀と、盛り上げた土塁と、その間に架けられた木の橋だけです。

黒羽城跡の曲輪をつなぐ木橋

曲輪と曲輪をつなぐ木橋。橋の下は深い堀切で、渡らなければ向こうへ行けない構造がそのまま残っている

この橋の下に立つと、土の城の設計思想がよくわかります。曲輪の間をわざと断ち切り、細い橋一本でしかつながないようにする。橋を落とせば、そこで敵は止まります。石垣の城が高さで守るのに対し、土の城は断ち切ることで守る皆川城那須神田城跡と見比べると、関東の土の城の系譜がつながって見えてきます。

黒羽城跡の物見櫓と三の丸跡の標柱

三の丸跡に建つ物見櫓。往時の建物ではないが、ここから那珂川の谷がどう見えていたかは確かめられる

曲輪ごとに「本丸跡」「三の丸跡」「会所跡」「水堀跡」といった標柱が立っているので、古図と照らしながら歩けます。園内を一周して一時間ほど。春は城址公園全体が桜とツツジで埋まります。

芭蕉は黒羽に十四日いた

元禄二年(一六八九)、松尾芭蕉と曽良は「おくのほそ道」の旅の途中で黒羽に入り、四月三日から四月十六日まで、十四日間(十三泊)を過ごしました。

これはこの旅の全行程で最長の滞在です。次に長い尾花沢が十日、金沢が九日、山中温泉が八日ですから、黒羽だけが突出しています。宿を提供したのは黒羽藩の城代家老・浄法寺高勝(俳号・桃雪)と、その弟の鹿子畑翠桃。十三泊のうち八泊が浄法寺邸、五泊が鹿子畑邸でした。

黒羽芭蕉の館

城址公園に隣接する黒羽芭蕉の館。芭蕉の資料と黒羽藩の資料をあわせて展示している

なぜ十四日も留まったのか。長雨に降りこめられたという事情はありますが、それだけではないでしょう。俳諧をたしなむ城代家老が兄弟で歓待してくれた土地は、旅の途中では得がたいものだったはずです。城址公園のすぐ隣に黒羽芭蕉の館が建っているのは、この十四日間が町にとってどれほど大きな記憶かを示しています。

幕末の藩主・大関増裕

黒羽城の案内板は、末尾にひとりの藩主のことを書いています。大関増裕(ますひろ)

講武所奉行、陸軍奉行、海軍奉行を歴任し、若年寄にまで進みました。案内板は「勝海舟と並びて偉名を天下にとどろかせた」と記しています。一万八千石の小藩の当主が幕府の軍政の中枢にいたのですから、異例の抜擢です。

その最期については、慎重な書き方が必要です。案内板は「不幸慶応三年卒去した 行年三十一」とだけ記します。公式の記録では狩猟中の猟銃の暴発による事故死とされていますが、自殺説や他殺説も伝えられており、確定していません。開国と勤皇のあいだで身を処そうとしていた人物が、鳥羽伏見の直前に急死した。そのことだけが事実として残っています。大正七年、生前の功により正四位を追贈されました。

黒羽神社境内に立つ大関増勤の胸像

黒羽神社境内に立つ、最後の藩主・大関増勤の胸像。増裕の跡を継ぎ、戊辰戦争を東軍ではなく新政府軍の側で戦った

黒羽神社と、戊辰の四十七名

城跡から少し離れた丘に黒羽神社があります。通称は黒羽招魂社。明治二年十二月、藩主・大関増勤らによって、慶応戊辰の役で戦死した黒羽藩士ら四十七名を祀るために創建されました。

黒羽藩は新政府側につき、三斗小屋の攻略や会津戦争に加わっています。四十七名という数は、一万八千石の藩が出した犠牲としては軽くありません。

明治八年、太政官達によって関東では館林・宇都宮・黒羽の三社が官祭招魂社となりました。関東でわずか三社という中に黒羽が入っていることが、この藩の戊辰での立ち位置を物語ります。その後、日清・日露から先の大戦までの戦没者が合祀され、現在は千九百八十三柱。毎年十月十三日に例大祭と戦没者慰霊祭が行われています。

大関和 ― この町から出た看護の先駆者

黒羽が生んだ人物として、もうひとり。大関和(おおぜき ちか)、安政五年(一八五八)の生まれです。父は黒羽藩の家老職にあった大関増虎。

大関和の故郷の記念碑

「日本近代看護の先駆者 大関和の故郷」の碑。生家があったと考えられる場所に建てられた、まだ新しい碑である

明治十四年に上京し、桜井女学校附属看護婦養成所の第一期生となります。ここはナイチンゲール方式で看護師を養成した、日本で最も早い学校のひとつでした。明治二十一年には帝国大学医科大学附属第一医院の初代外科看病婦取締に就任。のちに大関看護婦会を設立し、講習所を開いて後進を育てました。著書に『派出看護婦心得』『実地看護法』があります。

士族の娘が武家の生活を失ったあと、職業として看護を選び、それを制度にまで育てた。城の物語の続きが、こういう形で書かれているのは黒羽ならではです。碑にはまだ砂利の白さが残っていて、この町がいまも自分たちの歴史を足していることがわかります。

城下に残るもの、アクセス

城跡から町へ下りると、黒羽小学校の敷地の入口に侍門が移築されています。黒羽藩主大関家の重臣・大沼家の侍門であったと伝えられ、明治時代に黒羽城の記念として移されたものです。学校の敷地内なので、門は外から眺めることになります。

黒羽小学校に移築された侍門

黒羽小学校の入口に移された侍門。大関家の重臣・大沼家の門と伝えられる

黒羽城址公園は栃木県大田原市前田。駐車場があり、黒羽芭蕉の館も隣接しています。城跡・芭蕉の館・黒羽神社・侍門をあわせて歩くなら、半日は見ておきたいところです。

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