- 「聚楽第」と「聚楽亭」は、どちらも当時の記録に出てくる呼び名です。どちらかが本物でどちらかが誤りというわけではありません
- 当時は「聚楽」とだけ呼ぶことも多く、ほかに「聚楽城」「聚楽屋敷」などとも書かれ、正式名称がひとつに決まっていたわけではありません
- 読み方は、いまは「じゅらくだい」が一般的ですが、「第」の漢音は「てい」で、当時は「じゅらくてい」と呼んだ可能性が高いとされています
- 聚楽第は、関白になった秀吉が天皇の御所に近い平安宮の跡地に、関白の政庁として造らせた城です。天正14年2月に諸大名を動員して着工し、翌年9月に秀吉が移りました
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」で、秀吉の京の城・聚楽第がついに完成します。ところでこの城、本やドラマによって「聚楽第」と書かれたり「聚楽亭」と書かれたりしますし、読み方も「じゅらくだい」と「じゅらくてい」の二通りがあって、いったいどちらが本当の名前なのかと気になった方も多いのではないでしょうか。なお「寿楽亭」「寿楽第」と書かれているのを見かけることもありますが、当時の記録の文字は「聚(あつまる)」で、「寿」は当て字です。
この記事では、当時の記録に出てくる呼び名を整理したうえで、「第」と「亭」のちがい、読み方、そして聚楽第がなぜ、だれの命令で、どのように造られたのかまで、くわしく見ていきます。

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結論 ─ 「聚楽第」も「聚楽亭」も当時の呼び名
先に答えを書くと、「聚楽第」と「聚楽亭」はどちらも当時の記録に出てくる表記で、どちらかが本物でどちらかが誤りというわけではありません。秀吉自身が「正式名称はこれ」と定めた文書も見つかっておらず、当時の人びとはこの城を「聚楽」とだけ呼ぶことも多かったのです。
秀吉の祐筆(書記役)だった大村由己が、天正16年(1588)の後陽成天皇の行幸を記録した『聚楽行幸記』には、「聚楽第」と「聚楽亭」の両方の表記が見られます。同じ一冊の中で書き分けられているのですから、当時の人にとってこの二つは同じものを指す言い方だったと考えてよいでしょう。
当時の記録に出てくる呼び名の一覧
聚楽第は、記録によってさまざまな名前で呼ばれています。主なものをまとめると次のようになります。
| 呼び名 | どこに出てくるか・意味 |
|---|---|
| 内野御構(うちののおかまえ) | 造営中の呼び名です。興福寺の僧の日記『多聞院日記』の天正14年2月の記事に「内野御構普請」と出てきます |
| 聚楽(じゅらく) | もっとも多い呼び方です。宣教師ルイス・フロイスも、秀吉がこの城を「聚楽」と名づけたと書いています |
| 聚楽第 | 天皇の行幸を記録した『聚楽行幸記』などに見える表記です。「第」は大きな屋敷を意味します |
| 聚楽亭 | 同じく『聚楽行幸記』などに見える表記です。「亭」も屋敷の意味で、「第」と同じ「てい」の音です |
| 聚楽城 | 堀と石垣、天守をそなえた城として呼んだ名です |
| 聚楽屋敷・聚楽邸・聚楽館 | 関白の屋敷として呼んだ名です |
いちばん古いのは「内野御構」です。内野とは、平安時代に天皇の住まいである内裏や役所が置かれていた平安宮(大内裏)の跡地のことで、荒れ野になっていたためにこう呼ばれていました。「御構」は屋敷や城の構えという意味ですから、造っている最中は「内野の御屋敷」くらいの呼び方だったわけです。完成が近づいてから「聚楽」という名前がつけられ、それに「第」「亭」「城」「屋敷」などをつけて呼ぶようになりました。
「第」と「亭」はどうちがうのか
「第」という字は、ふつうは「第一」「第二」のように順番をあらわしますが、もともとは身分の高い人の大きな屋敷という意味も持っていて、「邸第(ていだい)」「第宅(ていたく)」といった言葉があります。聚楽第の「第」はこの屋敷の意味で、城郭考古学者の千田嘉博さんも、「第」は立派な屋敷の意味で城という意味は持たないと指摘しています。
一方の「亭」も、「料亭」の亭と同じく屋敷や建物をあらわす字です。つまり「聚楽第」も「聚楽亭」も、意味としてはどちらも「聚楽という名の屋敷」で、ちがうのは字だけと言えます。しかも「第」の字の漢音(中国から伝わった読み方のひとつ)は「てい」で、「亭」と同じ音です。「じゅらくてい」と口で言ったときに、どちらの字を当てるかで表記が分かれた、と考えるとわかりやすいでしょう。
読み方は「じゅらくだい」?「じゅらくてい」?
いまの教科書や観光案内では「じゅらくだい」と読むのが一般的ですが、「だい」は「第」の呉音(もうひとつの古い読み方)です。辞書を引くと、小学館の『デジタル大辞泉』は「じゅらくだい」を見出しにして「じゅらくてい」とも読むとし、『日本国語大辞典』は逆に「じゅらくてい」を見出しにして「じゅらくだい」とも読むとしています。京都市も、聚楽第の解説で「じゅらくてい」とも読むと紹介しています。
当時の読み方については、「第」に「テイ」と振り仮名をつけた資料も見つかっているといわれ、当時は「じゅらくてい」と呼んでいた可能性が高いとする見方が有力です。こうした研究をふまえて、近年の大河ドラマや時代劇では「じゅらくてい」と呼ぶ作品もあり、2016年の『真田丸』でも「じゅらくてい」と呼ばれていました。2026年の『豊臣兄弟!』でも、「聚楽第」と書いて「じゅらくてい」と読んでいます。どちらで読んでもまちがいではありませんが、当時の響きに近いのは「じゅらくてい」と覚えておくとよいでしょう。
「聚楽」とはどういう意味か
「聚楽」の意味については、さきほどの『聚楽行幸記』に「長生不老の楽(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」と書かれていて、長生きして老いることのない楽しみを集めた場所、という意味だとされています。日本に来ていたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスも『日本史』の中で、秀吉はこの城を「聚楽」と名づけ、それは彼らの言葉で悦楽と歓喜の集まりを意味する、と書きとめています。
「聚楽」という言葉はそれ以前の文献にはほとんど見られず、秀吉がつくった言葉ではないかと考えられています。天下人となった秀吉が、自分の新しい城にめでたく華やかな名前を求めたことがよくわかる名前です。
聚楽第はなぜ造られたのか
聚楽第を造ろうと決めたのは、もちろん秀吉です。きっかけは、天正13年(1585)7月に秀吉が関白に任じられたことでした。秀吉の本拠は大坂城でしたが、関白は天皇を補佐して政治をおこなう朝廷の最高の地位ですから、天皇のいる京に、関白にふさわしい政庁と住まいが必要になったのです。それまで秀吉は京での拠点として妙顕寺城(いまの二条通の近く)を使っていましたが、天下人の拠点としてはいかにも手ぜまでした。
秀吉が選んだのが、内野と呼ばれた平安宮の跡地です。かつて天皇の内裏や朝廷の役所が並んでいた場所で、その跡地に関白の政庁を建てることには、自分こそが朝廷を支えて天下を治める者だと示す意味があったと考えられています。京都府埋蔵文化財調査研究センターの解説も、この場所を選んだのは偶然ではないだろうと述べています。
だれが、どのように普請したのか
工事は天正14年(1586)2月に始まりました。興福寺の僧が書いた『多聞院日記』には、2月21日から内野御構の普請が始まったと記されていて、吉田神社の神主・吉田兼見の日記『兼見卿記』には、堀の幅が20間(約36メートル)、深さ3間、まわりの長さは千間にもおよんだと書かれています。実際に発掘で見つかった本丸東堀は幅およそ40メートル、深さ8メートルあまりもあり、記録どおりの巨大な堀でした。
この大工事は、秀吉に従う諸国の大名たちに「普請役」として割り当てられ、材木や檜皮、石材、釘といった資材も各地から集められました。6月には四国や東国から大量の材木が運ばれたことも記録されています。現場をとりまとめた造営奉行としては、秀吉の古くからの家臣である前野長康の名があげられています。

ドラマでは秀長が聚楽第の普請を任されたとされていますが、史実で秀長が聚楽第普請の総責任者だったことを示す記録は、いまのところ確認されていません。ただ、秀長は秀吉の片腕として政権を支えていましたし、聚楽第の外郭には「大和大納言」秀長の屋敷も置かれていました。天正16年の行幸でも、秀長は大納言として徳川家康と並ぶ高い席に名を連ねています。兄の新しい城を弟が取り仕切るという描き方は、二人の関係を表すドラマならではの設定と言えるでしょう。
天正15年(1587)9月、主な建物ができあがると、秀吉は母の大政所や妻の寧々を連れ、盛大な行列を組んで大坂城から聚楽第に移りました。翌10月1日に開かれたのが、第42回の題名にもなっている北野大茶湯です。
聚楽第は何に使われたのか ─ 豊臣政権の「首都」
聚楽第は、ただの豪華な屋敷ではありませんでした。本丸を中心に西の丸、南二の丸、のちには秀次が増やした北の丸をもち、深い堀と石垣で囲まれ、天守もそびえていましたから、実態は堂々たる城です。櫓や塀にまで金箔瓦がふかれ、そのきらびやかさで天下人の力を見せつけました。そのうえで、聚楽第には大きく分けて次のような役割がありました。
ひとつめは関白の政庁としての役割で、秀吉はここで政務をとり、全国の大名に命令を出しました。ふたつめは大名を集める役割で、秀吉は聚楽第のまわりに諸大名の屋敷を建てさせ、妻子とともに住むよう命じています。前田利家、黒田官兵衛、細川忠興、蒲生氏郷、徳川家康らの屋敷が建ち並び、いまも「如水町」「飛騨殿町」といった町名にその名残があります。妻子を京に置かせることは、事実上の人質でもありました。
みっつめは天皇を迎える舞台としての役割です。天正16年(1588)4月、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に招き、5日間にわたってもてなしました。このとき家康や利家ら諸大名に、天皇の前で関白秀吉の命令にそむかないと誓う起請文を出させています。天皇の権威を後ろ盾にして全国の大名を従わせる、豊臣政権のしくみがここで形になりました。行幸の五日間については聚楽第行幸とは、この年の出来事全体は天正十六年に何が起きたのかでくわしく解説しています。
よっつめは外交の場としての役割で、朝鮮からの使節やポルトガルのインド副王の使節、ローマから帰国した天正遣欧少年使節も、聚楽第で秀吉と対面しました。ほかにも茶会や能がたびたび開かれ、まさに豊臣政権の「首都」と呼べる場所だったのです。
聚楽第はだれのための城だったのか ─ 関白とともに秀次へ
聚楽第は、最初からだれかに与えるために造られたものではなく、秀吉が自分の「関白の館」として造らせたものです。ただ、関白の政庁であったからこそ、聚楽第は関白の地位とひとつになった城で、関白が替われば主も替わる、という性格を持っていました。
その性格がはっきり表れたのが、天正19年(1591)のことです。この年の8月、秀吉と茶々のあいだに生まれた跡継ぎの鶴松がわずか3歳で亡くなると、秀吉は甥の秀次を後継者に決め、その年の暮れに関白の地位を譲りました。このとき聚楽第も秀次に渡され、秀吉は「太閤」と呼ばれる立場になって、のちに新しく築いた伏見城へ移っていきます。翌天正20年(1592)1月には、秀次が主となった聚楽第に後陽成天皇がふたたび行幸し、秀次が豊臣家の後継者であることが天下に示されました。秀次は聚楽第に北の丸を増やすなど、城にも手を加えています。
つまり聚楽第は、その時々の関白、言いかえれば豊臣政権の後継者のための城でした。ところが文禄2年(1593)に茶々が秀頼を産むと、秀吉と秀次の関係は少しずつきしみはじめ、文禄4年(1595)7月、秀次は謀反の疑いをかけられて高野山で切腹させられます。秀吉はその直後から聚楽第を徹底的に壊させ、建物の多くは伏見城などに移されました。後継者の象徴だった城を跡形もなく消し去ることで、秀次の時代そのものを地上から消そうとしたとも考えられています。完成からわずか8年、秀吉が住んだのは4年ほどでした。跡地のいまの様子は聚楽第はいまどこにあるのかで紹介しています。
ほかの時代にも ─ 天皇を迎えた権力者の「第」
権力者が京に豪華な屋敷を構え、そこに天皇を招いて自分の力を天下に示すというやり方は、秀吉が初めて考えたものではありません。しかも、そうした屋敷の多くは聚楽第と同じく「第」と呼ばれていました。代表的なものを見てみましょう。
藤原道長の土御門殿(土御門第)は、平安時代の摂関政治の頂点にいた道長の屋敷です。寛弘5年(1008)には一条天皇が行幸し、そのにぎわいは道長の娘・彰子に仕えた紫式部の『紫式部日記』にも描かれています。天皇の外祖父として朝廷を動かした道長にとって、この屋敷こそが権力の中心でした。
足利義満の室町殿(室町第)と北山殿(北山第)は、室町幕府の三代将軍・義満の御所です。「花の御所」と呼ばれた室町殿には後円融天皇が行幸し、晩年の北山殿には応永15年(1408)に後小松天皇が行幸して、20日ほどにわたって盛大な宴がくり広げられました。いまの金閣(鹿苑寺)は、この北山殿の一部が残ったものです。関白として朝廷の頂点に立ち、自分の屋敷に天皇を迎えた秀吉の姿は、この義満とよく重なります。
徳川家の二条城は、聚楽第の役割を受けついだ建物と言えます。家康が京での拠点として築き、寛永3年(1626)には三代将軍家光と大御所秀忠が後水尾天皇を二条城に迎えました。この「寛永行幸」は、聚楽第行幸の先例にならって準備されたものです。
ちなみに、名前の似ている平等院の鳳凰堂は、道長の子・藤原頼通が天喜元年(1053)に宇治に建てた阿弥陀堂で、この世に極楽浄土をあらわそうとした信仰の建物です。豪華さで権力者の力を伝える点は共通していますが、政治の場として造られた聚楽第とは目的がちがいます。
こうして並べてみると、聚楽第は、道長や義満から続く「天皇を迎える権力者の第」の系譜に立ち、のちの二条城へと受けつがれていった建物だということがわかります。
▶ 第42回のあらすじと史実全体は豊臣兄弟!第42回「北野大茶湯」あらすじ予想と史実、会場の場所は北野大茶湯の記事でまとめています。
- 第42回の予想7つ、答え合わせ
- 足利義昭は本能寺の変の黒幕だったのか
- 鍋丸とは誰か
- 追放令のころ、キリシタンは何人いたのか
- 足利義昭はなぜ秀吉の御伽衆になったのか
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- バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か
- 黒田官兵衛はキリシタンだったのか
- 秀次はなぜヒゲを生やしたのか
- 秀次は秀長を嫌っていたのか
- 第42回「北野大茶湯」あらすじ予想と史実
- 第42回、見どころ7つ
- 秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか
- キリシタン大名とは
- 肥後国人一揆とは
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- 足利義昭のその後
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- 黒田官兵衛はなぜ天正17年に隠居したのか
- 天正17年の豊臣秀次は何をしていたのか
- 天正15年の豊臣秀次は何をしていたのか
- 豊前国人一揆とは
- 蒲生氏郷とは
- 慶長の禁教令とは
▶ 聚楽第の主・秀吉の話し相手になった元将軍については足利義昭はなぜ秀吉の御伽衆になったのかでくわしく解説しています。
よくある質問
Q. 聚楽第と聚楽亭、正しいのはどちらですか?
A. どちらも当時の記録に出てくる表記で、どちらも正しい呼び名です。当時は「聚楽」とだけ呼ぶことも多く、正式名称がひとつに決まっていたわけではありません。
Q. 聚楽第の読み方は「じゅらくだい」と「じゅらくてい」のどちらですか?
A. どちらの読み方も辞書に載っています。いまは「じゅらくだい」が一般的ですが、当時は「じゅらくてい」と呼んだ可能性が高いとされています。
Q. 大河ドラマ『豊臣兄弟!』では何と読んでいましたか?
A. 第42回では「聚楽第」と表記し、「じゅらくてい」と読んでいました。
Q. 「寿楽亭」と書くのはまちがいですか?
A. 当時の記録の文字は「聚」で、「寿」は当て字です。正しくは「聚楽第」または「聚楽亭」と書きます。
Q. 聚楽第はだれが造らせたのですか?
A. 関白となった豊臣秀吉です。天正14年(1586)2月に諸大名に普請を命じて着工し、天正15年(1587)9月に秀吉が大坂城から移りました。
Q. 聚楽第は何のために造られたのですか?
A. 関白の政庁と住まいとして造られました。諸大名の屋敷を周りに集め、天皇の行幸や外国使節との対面の場としても使われた、豊臣政権の中心でした。
まとめ
「聚楽第」と「聚楽亭」は、どちらも当時の記録に見える呼び名で、「第」も「亭」も屋敷を意味し、「第」の漢音は「てい」ですから、当時は「じゅらくてい」と呼ばれていた可能性が高いと考えられます。聚楽第は、関白になった秀吉が平安宮の跡地に造らせた政庁兼城郭で、諸大名を動員した大普請のすえ天正15年に完成し、大名屋敷の集まる豊臣政権の首都として、天皇の行幸や外交の舞台になりましたが、わずか8年で姿を消しました。道長の土御門殿や義満の北山殿に連なり、二条城へ受けつがれた「天皇を迎える権力者の第」として見ると、秀吉がこの城にこめた思いがよりはっきり見えてきます。

