聚楽第はいまどこにあるのか|跡地の場所と散策スポット、一条戻橋・梅雨の井・堀跡の窪地、大徳寺唐門など移されたと伝わる建物【豊臣兄弟!】

水堀と石垣に囲まれ、金箔瓦の御殿がかがやく聚楽第のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 聚楽第は、秀吉が天正15年(1587)に京都に完成させた城のような屋敷です。秀次に譲られたあと、文禄4年(1595)の秀次事件ののちに取り壊され、建物はいま一つも残っていません
  • 跡地は、京都市上京区の大宮通・中立売通・千本通のあたりに広がっていました。いまは住宅地ですが、石碑や井戸の跡、堀の跡の窪地などが残り、散策することができます
  • 発掘調査では、本丸の東の堀跡から金箔瓦がまとまって見つかり、重要文化財になっています
  • 大徳寺の唐門(国宝)や西本願寺の飛雲閣など、聚楽第から移されたと伝わる建物もあります。ただし、確かな証拠があるものは少なく、伝承として楽しむのがよいでしょう

天皇を迎え、北野大茶湯の拠点にもなった秀吉の聚楽第。わずか8年ほどで取り壊されたこの屋敷は、いまどこにあるのでしょうか。この記事では、聚楽第の跡地の場所と、いまも見られる名残、そして聚楽第から移されたと伝わる建物を、散策の目線で紹介します。聚楽第の歴史そのものは聚楽第とはでくわしく書いています。

目次

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聚楽第の跡はどこにあるのか

聚楽第の跡は、京都市上京区、二条城の北のあたりにあります。東は堀川通の少し西、西は千本通、北は一条通、南は丸太町通あたりまでが、外側の堀を含めた範囲だったと考えられています。本丸は、大宮通と中立売通が交わるあたりの西にありました。

水堀と石垣に囲まれ、金箔瓦の御殿がかがやく聚楽第の鳥瞰イメージ
聚楽第の鳥瞰イメージ。水堀と石垣に囲まれた、城のような屋敷でした

かつての都の中心、平安京の大内裏があった場所に、秀吉は聚楽第を建てました。北西には北野天満宮があり、北野大茶湯はこの聚楽第から歩いて15分ほどの場所で開かれています(北野大茶湯はなぜ開かれたのか)。

聚楽第と北野天満宮の位置関係の模式図
聚楽第と北野天満宮の位置(模式図)

いま見られる聚楽第の名残

スポット ようす
一条戻橋 堀川にかかる橋。天正16年の聚楽第行幸で、後陽成天皇の行列が渡ったとされる。利休の木像が磔にされたとも伝わる
中立売通 聚楽第と内裏(御所)を結んだ道。大名屋敷が並んでいた
本丸東濠跡 平成4年(1992)の発掘で、幅約26メートル、深さ約8.6メートルの堀跡が見つかり、金箔瓦約600点が出土した
梅雨の井 聚楽第の中にあったとされる井戸の跡。秀吉が茶の湯の水を汲ませたと伝わる
外郭西濠の窪地 土屋町通は千本通より低く、堀の跡と考えられている
豊臣秀勝邸跡伝承地 秀吉の甥・秀勝と江の屋敷があったと考えられる場所。平成23年(2011)に標石が建てられた
松林寺 境内が外郭南濠の跡の窪地になっていて、地形から堀の深さを感じられる

住宅地の中にある史跡なので、大きな石垣や建物を期待すると拍子抜けするかもしれません。しかし、道が急に低くなる窪地や、町名に残る「聚楽」の名前などから、ここに巨大な屋敷があったことを感じとることができます。上京区は散策マップも公開しているので、歩く前に確認しておくとよいでしょう。

一条戻橋 ─ 行幸と利休の木像

聚楽第の東の入口近く、堀川にかかる一条戻橋は、聚楽第ゆかりの場所としてぜひ立ち寄りたいところです。天正16年(1588)4月の聚楽第行幸では、後陽成天皇の行列がこの橋を渡って聚楽第へ向かったとされます(聚楽第行幸とは)。

一方で、天正19年(1591)には、千利休の木像がこの橋のたもとで磔にされたと伝わります(利休の木像事件とは)。華やかな行幸と、利休の悲劇。どちらも聚楽第の時代の一条戻橋で起きたことでした。

春の京の大路を、牛車を中心に公家たちが進む聚楽第行幸のイメージイラスト
聚楽第行幸のイメージ。天皇の行列は一条戻橋を渡ったとされます

聚楽第から移されたと伝わる建物

聚楽第が取り壊されたとき、建物の一部は各地の寺に移されたと伝わります。ただし、確かな証拠のあるものは多くありません。

建物 いまの場所 伝承と注意点
唐門(国宝) 大徳寺(京都市北区) 聚楽第の遺構と伝わる。平成15年(2003)の解体修理で「天正」の刻銘が見つかり、有力な根拠とされるが、異論もある
飛雲閣 西本願寺(京都市下京区) 聚楽第から移したと伝わるが、確証はなく、異説もある
表門 妙覚寺(京都市上京区) 聚楽第の裏門を移したと伝わる

大徳寺の唐門は、豪華な彫刻で知られ、一日見ていても飽きないことから「日暮門」とも呼ばれます。秀吉の時代の華やかさを伝える建物として、聚楽第の跡とあわせて訪ねてみたい場所です。

なぜ跡形もなく消えたのか

聚楽第は、天正19年(1591)に関白を譲られた豊臣秀次に引きつがれました。しかし文禄4年(1595)、秀次が謀反の疑いをかけられて切腹すると、秀吉は聚楽第を徹底的に取り壊させます。秀次の痕跡を消すためだったと考えられています(聚楽第とは ─ 秀吉が天皇を迎え、そして自分で消した城)。

天皇を迎えた豪華な屋敷が、わずか8年ほどで、建物一つ残さず消えた。そのはかなさこそが、聚楽第の跡を歩くときの一番の味わいなのかもしれません。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」(11月1日放送予定)は、天正15年9月の聚楽第の完成から始まると伝えられています。ドラマで描かれる聚楽第の姿にも注目です。

よくある質問

Q. 聚楽第の跡はどこにありますか?
A. 京都市上京区、二条城の北のあたりです。本丸は大宮通と中立売通が交わるあたりの西にありました。

Q. 聚楽第の建物は残っていますか?
A. 聚楽第そのものの建物は残っていません。大徳寺の唐門や西本願寺の飛雲閣などが、聚楽第から移されたと伝わります。

Q. 聚楽第の跡では何が見られますか?
A. 石碑や梅雨の井の跡、堀の跡の窪地などが残っています。発掘では金箔瓦が見つかっています。

Q. 聚楽第はなぜ取り壊されたのですか?
A. 文禄4年(1595)、聚楽第を引きついだ秀次が切腹したあと、秀吉が秀次の痕跡を消すために取り壊させたと考えられています。

まとめ

聚楽第の跡は、京都市上京区の二条城の北、大宮通・中立売通のあたりに広がっています。建物は残っていませんが、梅雨の井の跡や堀の跡の窪地、一条戻橋などをめぐれば、秀吉の屋敷の大きさを感じることができます。大徳寺の唐門など、聚楽第から移されたと伝わる建物もあわせて訪ねてみてください。

参考:京都市上京区「聚楽第跡散策マップ」/京都市埋蔵文化財研究所の調査報告

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