楽田城跡:秀吉が小牧・長久手の戦いで本陣にした城 ― 楽田小学校に残る城山の碑と、堀の形をなぞる道

楽田城(がくでんじょう)は、愛知県犬山市楽田にあった平城です。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、小牧山に陣を構えた徳川家康・織田信雄軍に対して、羽柴秀吉が楽田城を改修して本陣にしました。城の中心部はいま楽田小学校の敷地になっていて、校舎の脇に「楽田城址」の石柱と「城山」の碑、犬山市教育委員会の案内板が残っています。

文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)

この記事のポイント
  • 楽田城は、少なくとも永正14年(1517)には存在していた
  • 小牧・長久手の戦いで、秀吉が改修して本陣とした
  • 江戸時代の記録では、中心部は南北約98m・東西約73mで、土塁と二重の堀に囲まれていた
  • 小学校の周りの曲がりくねった道が、かつての堀の形をいまに伝えている

楽田城址の石柱

楽田小学校の脇に立つ「楽田城址」の石柱。

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案内板に書かれていること

現地の案内板に書かれていること

楽田城が建てられた正確な時期はわかっていませんが、少なくとも永正14年(1517)には存在していたようです。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、小牧山城を本陣(総大将の陣地)とした徳川家康・織田信雄軍に対抗して、羽柴秀吉軍は楽田城を改修し、本陣として使いました。江戸時代の記録によれば、楽田城の中心部は南北が54間(約98メートル)、東西が40間(約73メートル)で、周りは土塁と二重の堀で囲まれていました。土塁の高さは最高で4間(約7.2メートル)、堀の幅は最大22間(約40メートル)ありました。城の中心部は現在、楽田小学校の敷地となっています。周囲は住宅地になっていますが、1960年代までは堀の形に沿って水田が広がっていました。小学校の周りを囲んでいる曲がりくねった道は、かつての堀の形をあらわすもので、楽田城の大きさが感じられます。(令和7年3月 犬山市教育委員会の案内板より)

楽田城跡の案内板

犬山市教育委員会の案内板。左には城の推定範囲を重ねた地図と、昔と今の航空写真が載っています。

小牧山と楽田 ― にらみ合った二つの本陣

天正12年3月、家康はいち早く小牧山に入って陣を固めました。秀吉は大坂から遅れて尾張に入り、犬山城の南にある楽田城を本陣にして、小牧山と向き合います。楽田と小牧山のあいだは5kmほどで、両軍はそのあいだに砦や土塁を築き、どちらも先に手を出せない状態になりました。案内板の地図には、城から離れた場所に「北門」などの門の旧跡碑の位置も示されていて、城のまわりがかなり広く固められていたことがうかがえます。

このにらみ合いを破ろうと、秀吉方は池田恒興の進言で岡崎へ別働隊を送り、それが長久手の戦いにつながりました。長久手で敗れたあとも、秀吉は楽田を拠点にしばらく尾張に留まっています。戦いのくわしい流れは小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?に、別働隊の失敗については池田恒興の「中入り」はなぜ失敗したのかに書いています。

いまの楽田城跡

城跡の碑は、楽田小学校の校舎とフェンスにはさまれた小さな一角にまとまっています。「楽田城址」の大きな石柱のほか、石段の上には「史蹟 城山」と刻まれた石柱、さらに「城山」の由来を記したらしい碑が並んでいました。小学校の敷地なので城の中心部に入ることはできませんが、案内板にあるとおり、学校の周りを歩くと道がくねくねと曲がっていて、そこに幅40mもの堀があったと思うと、秀吉が本陣にした城の大きさが実感できます。

楽田城跡の場所

【場所】愛知県犬山市楽田(楽田小学校の敷地とその周辺)。羽黒城址とも近く、小牧・長久手の戦いの秀吉方の拠点をあわせて回れます。

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【実録】朝5時出発、小牧・長久手の戦いの史跡を車で日帰り ― 長久手古戦場から秀吉の本陣・楽田城まで11か所
回った順番や駐車場・トイレ、御城印・御朱印の情報はこちらの「10. 楽田城跡」にまとめています。

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