バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か|出ていった宣教師はわずか、罰せられた大名は高山右近ひとり ─ 長崎没収と二十六聖人まで

港町の南蛮寺の前で宣教師と語らうキリシタン大名たちのイメージイラスト
この記事のポイント
  • バテレン追放令は、宣教師に20日以内の国外退去を命じました。しかし実際に日本を離れた宣教師はわずかで、ほとんどは九州のキリシタン大名の領内にひそんで活動を続けました
  • 追放令のあと、はっきり処罰されたキリシタン大名は高山右近だけでした。右近は信仰を捨てることを拒み、明石6万石を取り上げられました
  • イエズス会の領地になっていた長崎は秀吉に取り上げられて直轄地となり、京・大坂・堺などの教会は壊されました
  • この追放令で命を奪われた宣教師や信者はいません。キリシタンが処刑されたのは、9年後の慶長元年(1596)、二十六聖人の殉教が最初でした

「バテレン追放令」と聞くと、宣教師たちが船に乗せられて次々と日本を去っていく光景を思いうかべるかもしれません。ところが、記録を読んでいくと、実際の姿はかなりちがいます。命令は出たものの、出ていった宣教師はほとんどいませんでした。一方で、ひとりの大名は、命令のその日に領地を失っています。この記事では、天正15年(1587)の追放令で、実際に誰がどうなったのかを、人と場所ごとに整理します(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)。

目次

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追放令は何を命じたのか

天正15年6月19日、九州攻めを終えた秀吉は、筑前の筥崎で五か条の定めを出しました。日本は神の国であり、キリスト教の教えを広めるのはよくないこと、宣教師は20日以内に日本を出ること、ただし南蛮船の商売は別であることなどが書かれています。

その前日、6月18日付の覚書では、大名や身分の高い武士がキリシタンになるには秀吉の許しがいる、としていました。つまり秀吉がとくに警戒したのは、宣教師と、大名の信仰だったのです(伴天連(バテレン)とは)。

誰がどうなったのか ─ 一覧

人・場所 追放令のあとどうなったか
宣教師(伴天連) 平戸に集まったが、出ていけたのはごく一部。多くは有馬・大村・天草などの領内にひそんで活動を続けた
コエリョ(日本の布教責任者) 国外に出ず、九州に残った。のちに天正18年(1590)、肥前の加津佐で亡くなる
高山右近(明石6万石) 棄教を拒んで改易。小西行長にかくまわれ、のちに前田利家のもとへ
小西行長 処罰されず。右近を小豆島などにかくまい、自身も信仰を続けた
大村喜前・有馬晴信 処罰されず。領内に宣教師をかくまった
大友義統 追放令ののち信仰を離れた
黒田官兵衛・蒲生氏郷 処罰されず。表立った信仰は控えたとされる
長崎・茂木・浦上 イエズス会の領地から没収され、豊臣の直轄地に
京・大坂・堺の教会 壊された。京の南蛮寺もこのとき失われた
南蛮貿易 続けられた。追放令自身が商売は別と定めていた

平戸に集まった宣教師たち

追放令を受けて、各地の宣教師たちは肥前の平戸に集まりました。ポルトガルの船で日本を離れるためです。ところが、ちょうど船が出る季節ではなく、全員を乗せて出ることはできませんでした。

結局、宣教師たちの多くは、大村や有馬、天草といったキリシタン大名の領内に散り、目立たないように活動を続けます。教会の看板を下ろし、昼は姿を隠し、夜に信者を訪ねる。追放令は、宣教師を国外へ出すことには成功しなかったのです。

港町の南蛮寺の前で宣教師と語らうキリシタン大名たちのイメージイラスト
港町の南蛮寺の前で宣教師と語らう人びとのイメージ(イラスト)
平戸の浜に集まり、沖の南蛮船を見つめる宣教師たちと見送る信者のイメージ(イラスト)
追放令を受けて平戸に集まった宣教師たちのイメージ(イラスト)

ただひとり処罰された大名 ─ 高山右近

追放令で、はっきり処罰された大名は高山右近ひとりでした。秀吉は右近に使いを送り、信仰を捨てるか、領地を捨てるかを迫ります。右近は信仰を選び、播磨明石の6万石を返しました。

領地を失った右近をかくまったのは、同じキリシタンの小西行長でした。右近はしばらく小豆島などに身をひそめ、のちに加賀の前田利家に迎えられます。その後も信仰を守り続け、江戸幕府の禁教令でマニラに追放され、そこで生涯を終えました(高山右近とは、高山右近の最期)。

高槻城跡公園の石垣と池
右近が城主だった高槻城の跡(高槻城跡公園)
▽ よく語られる話
バテレン追放令で、キリシタン大名たちは次々と罰を受けた。
▼ 史実ではこうです
罰を受けた大名は高山右近だけでした。小西行長や大村喜前、有馬晴信らは処罰されず、領内に宣教師をかくまい続けています。秀吉が右近を見せしめにしたのは、右近が秀吉の側近くに仕え、多くの大名を入信させた中心人物だったからと考えられます。
岬の先に教会と町ができはじめた長崎の港を、高台から武将と宣教師が見おろすイメージ(イラスト)
大村純忠が開き、イエズス会に寄進した長崎の港のイメージ(イラスト)

長崎は秀吉のものに

追放令の大きな狙いのひとつが、長崎でした。長崎は大村純忠がイエズス会に寄進し、教会の領地になっていました。秀吉はこれを取り上げて直轄地とし、のちに代官を置いて治めさせます。長崎の港とその南蛮貿易は、豊臣政権が直接にぎることになりました(天正十五年に何が起きたのか)。

殉教者は出なかった ─ 二十六聖人は9年後

意外に思われるかもしれませんが、天正15年の追放令で処刑された宣教師や信者はいません。キリシタンの処刑が始まったのは、9年後の慶長元年(1596)のことです。土佐に流れ着いたスペイン船サン・フェリペ号の事件をきっかけに、秀吉は京や大坂の宣教師と信者を捕らえ、長崎で処刑しました。これが二十六聖人の殉教です。

冬の長崎の港を見おろす丘に十字架が並び、人びとが祈るイメージ(イラスト)
長崎の西坂の丘で祈る人びとのイメージ(イラスト)。くわしくは日本二十六聖人とは

天正19年(1591)には、巡察師ヴァリニャーノがインド副王の使節として聚楽第で秀吉に会い、一部の宣教師が長崎にとどまることが黙認されています。追放令は、厳しい文面のわりに、運用は思いのほかゆるやかでした。

✎ 筆者の考え
追放令は、宣教師を国外へ出すという点では「失敗」でした。それでも秀吉は、長崎を取り上げ、大名の信仰を許可制にすることで、自分のねらいは果たしています。宣教師より、宣教師と結びつく大名と港を押さえること。追放令の本当の効き目はそこにあったと、筆者は考えています。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第42回「北野大茶湯」は11月1日(日)放送予定です。公式のあらすじでは、茶会の会場で「キリシタン追放令に恨みを抱く者」による刃傷沙汰が起きるようです。追放令で何かを失った人物が描かれるのかもしれません。放送後にこの枠を更新します。
▶ 第42回の背景をもっと知る

よくある質問

Q. バテレン追放令で宣教師は全員日本を出たのですか?
A. 出たのはごく一部で、多くは九州のキリシタン大名の領内にひそみました。

Q. 追放令で処罰された大名は誰ですか?
A. 高山右近です。棄教を拒んで明石6万石を取り上げられました。

Q. 追放令で処刑された人はいますか?
A. いません。キリシタンの処刑は慶長元年(1596)の二十六聖人の殉教が最初です。

Q. 長崎はどうなりましたか?
A. イエズス会の領地から没収され、秀吉の直轄地になりました。

まとめ

バテレン追放令は、宣教師に国外退去を命じましたが、実際に日本を離れた宣教師はわずかでした。はっきり処罰された大名は高山右近ひとりで、追放令による処刑者もいません。その一方で、長崎は秀吉の直轄地となり、教会は壊されました。追放令は「人を追い出す」より「港と大名を押さえる」ための法令だったといえそうです。

参考:「天正十五年六月十九日 定」松浦史料博物館蔵/「天正十五年六月十八日 覚」神宮文庫蔵/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』中公文庫/安野眞幸『バテレン追放令』ちくま学芸文庫

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