北野大茶湯はなぜ開かれたのか|目的は4つの説、なぜ会場は北野天満宮だったのか ─ 聚楽第から歩いて15分の松原【豊臣兄弟!】

北野の松原に町人や百姓の茶席が並び、朱塗りの大傘を立てた茶席が目を引く北野大茶湯のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 北野大茶湯を開いた理由を、秀吉自身は書き残していません。有力なのは、九州平定と聚楽第完成の祝い、天下人の力を見せる場、信長以来の「茶の湯の政治」の仕上げ、京の人々の心を試す場、の四つの説です
  • 会場の北野天満宮は、天正15年9月に秀吉が移り住んだ聚楽第から北西へ歩いて15分ほどの近さでした
  • 北野は菅原道真をまつる天満宮の門前で、昔から人が集まる場所でした。境内のまわりには広い松原があり、何百もの茶席を並べることができました
  • いまの北野天満宮には、大茶湯で使われたと伝わる「太閤井戸」が残り、毎年12月1日には大茶湯にちなむ献茶祭が開かれています

天正15年(1587)10月1日、豊臣秀吉は京都の北野天満宮で、身分を問わず誰でも参加できる大茶会「北野大茶湯」を開きました。では、秀吉はそもそもなぜこの茶会を開いたのでしょうか。そして、なぜ会場は北野天満宮だったのでしょうか。この記事では、開催の目的についての四つの説と、北野が選ばれた理由を紹介します。茶会の当日のようすは北野大茶湯とは、庶民の参加のしかたは北野大茶湯に庶民はどう参加したのかでくわしく書いています。

目次

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開くまでの流れ ─ 九州平定から聚楽第へ

時期 できごと
天正15年5月8日 島津義久が薩摩・川内の泰平寺で降伏
6月 秀吉が筥崎で九州の国分け。19日にバテレン追放令
7月 肥後で国人一揆が起きる
7月末 京・奈良・堺などに北野大茶湯の触書(高札)が出される
9月 聚楽第が完成し、秀吉が大坂城から移る
10月1日 北野大茶湯。10日間の予定が1日で打ち切られる

九州から凱旋した秀吉は、京に戻るとすぐに大茶会の準備を始めました。触書には、10月1日から10日間、北野の森で大茶会を開き、秀吉の名物を見せること、茶の湯に心がけのある者は身分を問わず来てよいこと、日本だけでなく唐国の者でもよいこと、などが書かれていました。

なぜ開いたのか ─ 四つの説

① 九州平定と聚楽第完成の祝い

もっともわかりやすいのが、祝いの催しだったという説です。天正15年は、5月に九州の島津家が降伏し、9月には京の新しい屋敷・聚楽第が完成した年でした(聚楽第とは)。西日本をほぼ手中におさめ、京に本拠を構えた秀吉にとって、天下にそれを示す晴れの舞台が北野大茶湯だったと考えられます。

② 天下人の力を見せつける場

北野天満宮の拝殿には、秀吉が集めた名物の茶道具がずらりと並べられ、黄金の茶室も運びこまれました(秀吉の黄金の茶室とは)。公家も町人も百姓も、同じ場所でそれを目にします。天下三肩衝のような宝物をすべて持っているのは秀吉だけでした(天下三肩衝とは)。茶会は、誰が天下の主なのかを、目に見える形で示す場でもありました。

③ 信長から受けついだ「茶の湯の政治」の仕上げ

織田信長は、名物の茶道具を集め、家臣に与えたり、茶会を開くことを許したりして、茶の湯を家臣を治める手段に使いました。秀吉はこれを「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」と呼んでいます(茶器はなぜ一国に値したのか)。

北野大茶湯の触書には、「この茶会に来ない者は、今後茶の湯をしてはならない」という一文がありました。誰でも来てよいという呼びかけは、裏を返せば、茶の湯をする者はみな天下人の茶会に顔を出せ、という命令でもあったのです。信長が一部の家臣だけに許した茶の湯を、秀吉は天下の人々すべてを自分のもとに集める形で使いました。

④ 京の人々の心を試した

歴史家の中村修也氏は、北野大茶湯は京の人々が秀吉をどう見ているかを確かめる試しだったのではないか、と推測しています。京は朝廷と古い町衆の町で、尾張の百姓から出た秀吉を心から受け入れていたとはかぎりません。茶頭に選ばれたのは堺の茶人たちで、京の茶人はあまり加わらなかったともいわれます。

思ったほど人が集まらず、それが10日の予定を1日で打ち切った理由の一つだった、という見方もあります(北野大茶湯で刃傷沙汰は本当にあったのか)。

▽ よく語られる話
北野大茶湯は、秀吉が庶民と茶の湯を楽しむために開いた、気前のよいお祭りだった。
▼ 史実ではこうです
祝いの催しだったことは確かですが、名物の披露や「来ない者は茶の湯禁止」という触書を見ると、天下人の力を示し、茶の湯の世界を秀吉のもとにまとめる政治の場でもありました。どれか一つの理由ではなく、いくつもの狙いが重なっていたと考えるのが自然です。

なぜ北野天満宮だったのか

聚楽第と北野天満宮の位置関係の模式図
聚楽第と北野天満宮の位置(模式図)。北野は聚楽第のすぐ北西にありました

聚楽第のすぐ近くだった

第一の理由は、場所の近さです。北野天満宮は、秀吉が9月に移り住んだばかりの聚楽第から北西へ1キロあまり、歩いて15分ほどのところにありました。秀吉は北野天満宮にたびたび参詣しており、なじみのある場所でもあったようです。新しい屋敷の目と鼻の先で大茶会を開くことは、「聚楽第の主」を京の人々に印象づけることにもなりました。

広い松原があった

第二の理由は、広さです。北野天満宮のまわりには、平安時代から狩場として使われた広い野が広がり、戦国時代には松原になっていました。触書では、一人あたり畳二枚分の茶席を松原に設けるよう求めています。800とも1500ともいわれる茶席を並べるには、町なかの寺や屋敷では足りません。北野の松原は、大勢の人を集める催しにうってつけの場所でした。

北野の松原に町人や百姓の茶席が並ぶイメージイラスト
北野の松原に並んだ茶席のイメージ

昔から人が集まる場所だった

第三の理由は、北野天満宮が昔から多くの人が集まる場所だったことです。北野天満宮は、天暦元年(947)に菅原道真をまつって建てられた神社で、学問や和歌・連歌の神として、身分を問わず広く信仰を集めていました。室町時代には将軍の足利義満も北野を手厚く保護し、大きな催しを開いています。

天下人が都の人々を招いて催しを開く場所として、北野は前例のある土地でした。公家にも町衆にも親しまれた神社の境内で茶会を開くことで、秀吉は自分の催しを都の伝統の中に置いたともいえます。

いまの北野天満宮に残る大茶湯の名残

名残 内容
太閤井戸 北野大茶湯のとき、秀吉がこの井戸の水で茶を点てたと伝わる
献茶祭(12月1日) 北野大茶湯にちなんで毎年開かれる。家元が茶を献じ、境内に茶席が設けられる
御土居 天正19年(1591)に秀吉が京を囲んで築いた土塁。北野天満宮の境内に一部が残る
本殿(国宝) 慶長12年(1607)、秀吉の子・秀頼が造営した

北野天満宮の本殿を建てたのは、秀吉の死後、秀頼でした。父が大茶湯を開いた神社を、子が建て直したことになります。北野大茶湯の会場を訪ねるなら、太閤井戸と御土居の跡もあわせて見ておきたいところです。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」は11月1日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、聚楽第の完成を祝う大茶会を秀次(山田涼介)が提案し、秀長(仲野太賀)は「時期尚早」と諫めますが、秀吉(池松壮亮)の勢いは止められません。秀次が提案したという筋は記録には見えず、ドラマの創作と考えられます。秀吉がなぜ大茶会にこだわったのかを、ドラマがどう描くのかに注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 北野大茶湯はなぜ開かれたのですか?
A. 秀吉自身は理由を書き残していません。九州平定と聚楽第完成の祝い、天下人の力を見せる場、信長以来の茶の湯の政治の仕上げ、京の人々の心を試す場、といった説があり、いくつもの狙いが重なっていたと考えられます。

Q. なぜ会場が北野天満宮だったのですか?
A. 聚楽第から歩いて15分ほどの近さで、広い松原があり、昔から身分を問わず人が集まる神社だったためと考えられます。

Q. 北野大茶湯を言い出したのは誰ですか?
A. 秀吉自身の催しです。実務は利休ら茶頭や前田玄以らが担いました。ドラマの「秀次が提案した」という筋は記録には見えません。

Q. 北野天満宮にいまも大茶湯の名残はありますか?
A. 秀吉が茶の水を汲んだと伝わる太閤井戸が残り、毎年12月1日には大茶湯にちなむ献茶祭が開かれています。

まとめ

北野大茶湯を開いた理由は、九州平定と聚楽第完成の祝い、天下人の力を見せる場、信長以来の茶の湯の政治の仕上げ、京の人々の心を試す場と、いくつもの狙いが重なっていたと考えられます。会場の北野天満宮は、聚楽第から歩いて15分ほどの近さで、広い松原があり、昔から人が集まる神社でした。いまも境内には太閤井戸が残り、12月1日の献茶祭が大茶湯の記憶を伝えています。

参考:「北野大茶湯之記」/『兼見卿記』/『多聞院日記』/中村修也『秀吉の智略「北野大茶湯」大検証』淡交社/北野天満宮 公式サイト

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