秀吉はなぜ北条家を相模一国だけでも残さなかったのか|長宗我部は土佐、島津は薩摩を残されたのに ─ 降伏した大名の処分を比べてわかる4つの理由【豊臣兄弟!】

小田原城:北条早雲に始まり北条家5代にわたり関東を支配した名城 小田原城
この記事のポイント
  • 四国の長宗我部元親は土佐一国、九州の島津義久は薩摩・大隅などを残されました。ところが北条家は、氏直が降伏したあと、関東の領地をすべて取り上げられています
  • 大きな違いは、北条家が一度は秀吉に従うと約束しながら、それを破ったことです。氏政の上洛の約束は果たされず、名胡桃城事件が起きて、秀吉は北条家を「天道にそむく者」として討つと宣言しました
  • もう一つの違いは、関東の土地そのものが秀吉に必要だったことです。秀吉は北条の旧領を徳川家康に与え、家康の旧領の東海には自分の家臣たちを置きました
  • それでも北条家は根絶やしにはされませんでした。当主の氏直は家康の娘婿として助命され、のちに1万石を与えられます。弟の氏規の家は河内狭山藩として幕末まで続きました

天正18年(1590)7月、小田原城が開城し、北条家は関東の領地をすべて失いました。しかし秀吉は、それまでに降伏した大名を、必ずしも滅ぼしてきたわけではありません。四国の長宗我部元親には土佐一国を、九州の島津義久には薩摩・大隅などを残しています。では、なぜ北条家には、相模一国だけでも残すという道がとられなかったのでしょうか。この記事では、秀吉に降伏したほかの大名の例と比べながら、その理由を考えます。

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秀吉に降伏した大名はどうなったのか

まず、秀吉と戦って降伏した主な大名が、どのような処分を受けたのかを見てみましょう。

大名 降伏 処分 処刑された者
長宗我部元親(四国) 天正13年(1585)7月 阿波・讃岐・伊予を取り上げ、土佐一国を安堵 なし
佐々成政(越中) 天正13年(1585)閏8月 越中の新川郡だけを残される。のちに大坂へ なし
島津義久(九州) 天正15年(1587)5月 九州のほとんどを取り上げ、薩摩・大隅と日向の一部を安堵 なし
北条氏直(関東) 天正18年(1590)7月 関東の領地をすべて取り上げ。氏直は高野山へ 氏政・氏照が切腹。宿老の松田憲秀・大道寺政繁も死を命じられる
伊達政宗(奥羽) 天正18年(1590)6月に参陣 会津など3郡を取り上げ、ほかは安堵 なし

こうして並べてみると、北条家への処分が、ほかの大名と比べて際立って重いことがわかります。長宗我部も島津も、秀吉と本気で戦ったうえで降伏しましたが、本国は残され、誰も処刑されていません(四国平定・九州平定をわかりやすく解説)。

理由① 一度した約束を破った

長宗我部や島津と北条の一番の違いは、北条家が一度は秀吉に従うと約束していたことです。

天正16年(1588)8月、北条家は氏政の弟・氏規を上洛させ、聚楽第で秀吉に対面させました(北条氏規とは)。これで北条家は、秀吉に従う姿勢を示したことになります。翌天正17年、秀吉は北条家と真田家が争っていた上野の沼田領について裁定を下し、3分の2を北条に与えました。その条件が、氏政が上洛して秀吉に挨拶することでした。

ところが、沼田城を受けとったあとも、氏政は上洛しませんでした。そして天正17年10月、北条方の猪俣邦憲が、真田家に残された名胡桃城を奪います(名胡桃城事件とは)。秀吉が下した裁定を、北条家が力で覆したことになりました。

11月24日、秀吉は北条家に手切れの書状を送ります。その中で秀吉は、北条氏直を「天道にそむき、帝都に対して奸謀をくわだてる者」と非難しました。北条家は、ただの「まだ従っていない大名」ではなく、天下の主である秀吉と朝廷にそむいた反逆者として扱われたのです。

▽ よく語られる話
北条家は、秀吉に従わずに戦ったから滅ぼされた。長宗我部や島津と同じように降伏すれば、本国は残されたはずだ。
▼ 史実ではこうです
長宗我部や島津は、まだ秀吉に従う約束をしていない段階で戦いました。北条家は、氏規を上洛させて従う姿勢を示し、沼田の裁定も受け入れたうえで、その約束を破ったとみなされました。秀吉にとって北条家は、許せば「約束を破っても大丈夫だ」という例になってしまう相手だったのです。

理由② 関東の土地が必要だった

二つ目の理由は、秀吉にとって関東の土地そのものが必要だったことです。秀吉は北条家の旧領を、そのまま徳川家康に与えました。家康は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃という東海と甲信の五か国を離れ、関東に移ることになります(家康の本拠はなぜ岡崎・浜松・駿府・江戸と変わったのか)。

家康が去った東海には、秀吉の家臣たちが入りました。駿府には中村一氏、浜松には堀尾吉晴、掛川には山内一豊、岡崎には田中吉政、吉田には池田輝政が置かれます。京から関東へ向かう東海道を、秀吉の信頼する大名たちでかためたのです。

北条家に相模一国でも残せば、家康に与える関東は欠けてしまいます。家康を京から遠ざけ、東海を自分の家臣で押さえるという秀吉の構想にとって、北条家の旧領はまるごと必要でした。

小田原城の天守
北条五代の本拠・小田原城(小田原城)。開城のあと、関東は家康に与えられました

理由③ 最後まで戦い、降伏が遅かった

三つ目は、降伏の時期です。長宗我部元親は、豊臣軍が四国に上陸しておよそ一か月半で降伏しました(谷忠澄とは)。島津義久も、秀吉の本隊が薩摩に入ると、本拠の鹿児島が攻められる前に自ら出向いて降伏しています(九州攻めはどう終わったのか)。

北条家は違いました。天正18年3月に豊臣軍が攻めこむと、山中城や八王子城などの支城で激しく戦い、小田原城では3か月以上も籠城を続けました。降伏したのは、支城がほとんど落ち、援軍の望みもなくなってからです(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。

それまでの四国攻めや九州攻めでは、秀吉の側にも早く戦を終わらせたい事情がありました。四国攻めのころは家康との関係がまだ固まっておらず、九州は京から遠く、長い戦は負担が大きかったからです。一方、小田原攻めのときには、家康はすでに秀吉に従い、20万をこえる大軍で北条家を囲んでいました。秀吉には、急いで妥協する理由がなかったのです。

小田原征伐のイメージイラスト:石垣山から小田原城を見おろす
石垣山から小田原城を囲む秀吉の軍(イメージ)。秀吉には、急いで妥協する理由がありませんでした

理由④ 天下統一の「見せしめ」

北条家は、秀吉に従っていない最後の大大名でした。北条家をどう処分するかは、まだ様子をうかがっている奥羽の大名たちへの答えでもあります。実際、秀吉は小田原のあとすぐに奥羽の処分を行い、小田原に来なかった大名の領地を取り上げました(奥州仕置とは)。

約束を破った北条家を厳しく罰することは、「天下人の命令にそむけばこうなる」と全国に示すことでもありました。四国攻めや九州攻めのころの秀吉は、まだ天下を固めている途中の権力者でした。小田原攻めのときの秀吉は、天下の主として、従わない者を罰する立場にあったのです。

それでも北条家は滅ぼしつくされなかった

ただし、秀吉は北条家を根絶やしにしたわけではありません。7月5日、当主の氏直は、自分の命とひきかえに城兵の命を助けてほしいと申し出て降伏しました。秀吉はこの申し出を立派だとし、家康の娘婿でもあった氏直の命を助けます(督姫とは)。

責任を問われたのは、戦を主導したとされる氏政と弟の氏照、そして宿老の松田憲秀・大道寺政繁らでした。氏政と氏照は7月11日に切腹します。氏直は高野山に送られましたが、翌天正19年に許され、1万石を与えられて豊臣の大名となりました。しかしその年の11月、30歳の若さで亡くなっています。

北条家の血すじは、氏政の弟・氏規の家に受けつがれました。韮山城で最後まで戦った氏規は、のちに河内に領地を与えられ、その子孫は河内狭山藩1万石の大名として幕末まで続きます。関東の覇者としての北条家は滅びましたが、家そのものは、別の形で生きのびたのです。

人物 その後
北条氏政(前当主) 天正18年7月11日に切腹
北条氏照(氏政の弟) 同日に切腹
北条氏直(当主) 高野山へ。翌年許されて1万石。同年11月に死去
北条氏規(氏政の弟) 韮山城を開城。のちに河内で領地を得て、子孫は狭山藩1万石
松田憲秀・大道寺政繁(宿老) 死を命じられる

長宗我部や島津と同じように本国を残してもらうには、北条家はもっと早く、約束を守って秀吉に従う必要がありました。北条家が相模一国も残されなかったのは、北条家が弱かったからではなく、秀吉が天下の主になった時代に、古いやり方のまま向きあってしまったからだといえるでしょう。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
公式ガイドで伝えられている最終回(第47回・12月6日放送予定)では、秀吉が北条討伐のため小田原攻めを決め、北条が降伏して天下統一がなる、という流れになるようです。谷原章介さん演じる北条氏政の最期がどう描かれるのかにも注目です。放送後にこの枠を更新します。

あわせて読みたい:旭姫の死と秀忠の上洛、天正十八年に何が起きたのか(『豊臣兄弟!』第46回の予習に)

よくある質問

Q. なぜ北条家は長宗我部や島津のように本国を残されなかったのですか?
A. 一度は秀吉に従う姿勢を示しながら、氏政の上洛の約束を果たさず、名胡桃城事件を起こしたためです。加えて、関東を家康に与えるという秀吉の構想、降伏の遅さ、天下統一の見せしめという理由が重なりました。

Q. 北条家は小田原攻めで滅亡したのですか?
A. 関東の大名としての北条家は滅びましたが、当主の氏直は助命され、のちに1万石を与えられました。氏規の子孫は河内狭山藩1万石として幕末まで続きました。

Q. 北条氏政はなぜ切腹させられたのですか?
A. 戦を主導した責任を問われたためと考えられます。弟の氏照とともに、天正18年7月11日に切腹しました。

Q. 北条氏直はなぜ助命されたのですか?
A. 自分の命とひきかえに城兵の助命を願った態度が評価されたことと、徳川家康の娘婿だったことが理由とされます。

Q. 長宗我部元親はどんな処分を受けたのですか?
A. 天正13年の四国攻めで降伏し、阿波・讃岐・伊予を取り上げられましたが、土佐一国を安堵されました。

まとめ

秀吉は長宗我部に土佐を、島津に薩摩・大隅を残しましたが、北条家には関東の領地を一つも残しませんでした。北条家は一度は秀吉に従う姿勢を示しながら、氏政の上洛の約束を破り、名胡桃城事件で秀吉の裁定を覆したとみなされました。さらに、関東を家康に与えるという構想、最後まで戦った降伏の遅さ、天下統一の見せしめという理由が重なります。それでも氏直は助命され、氏規の家は狭山藩として幕末まで続きました。

参考:豊臣秀吉朱印状(天正17年11月24日 北条氏直宛)/『家忠日記』/黒田基樹『小田原合戦と北条氏』吉川弘文館

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