※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 天正15年(1587)、秀長は九州攻めで日向方面の総大将を務めました。秀吉の本隊とは別の軍を率い、豊後から日向へと東回りで島津の本国をめざしました
- 秀長のもとには、黒田孝高(官兵衛)・蜂須賀家政・小早川隆景・吉川元長・毛利輝元・宇喜多秀家・宮部継潤ら、西国の大名がずらりと並びました。秀長自身の家臣では藤堂高虎が先鋒を務めています
- 出陣の3か月前、秀長は体にできものができて馬に乗れなくなっていました。九州攻めは、病を抱えた体で臨んだ遠征でした
- 秀長は高城を力攻めにせず、救援路に根白坂の砦を築いて島津の決戦を受け止めました。これで九州攻めの勝敗が決まります
- 根白坂のあと、島津義久が最初に和睦を申し入れた相手は秀長でした
九州攻めというと、薩摩まで攻めこんだ秀吉の姿が思い浮かびます。しかし島津の主力と正面からぶつかり、勝敗を決めたのは、日向を進んだ弟・秀長の軍でした。この記事では、秀長の動きだけに絞って、出陣から島津の降伏、そして戦後までをたどります。九州攻め全体の流れと、島津が敗れた理由は島津はなぜあっさり秀吉に敗れたのかで紹介しています。

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秀長の九州攻めを年表で見る
| 時期 | 秀長の動き |
|---|---|
| 天正14年(1586)11月 | 体にできもの(横痃)ができて、馬に乗れなくなる(『多聞院日記』) |
| 天正15年(1587)2月10日 | 九州へ向けて出陣 |
| 3月上旬 | 豊前の小倉に着く |
| 3月21日 | 秀吉の朱印状で、日向方面の総大将とされる |
| 3月25日 | 赤間関で秀吉と軍議。秀長は豊後・日向から薩摩へ向かうと決まる |
| 3月29日 | 豊後から日向に入り、縣(いまの延岡)の松尾城を落とす |
| 4月6日 | 耳川を渡り、山田有信の守る高城を囲む。根白坂に砦を築く |
| 4月17日 | 根白坂の戦い。島津の救援軍約2万を退ける |
| 4月21日 | 島津義久が重臣を人質に出し、秀長に和睦を申し入れる |
| 4月下旬 | 高城の明け渡しが決まり、山田有信が城を出る |
| 5月8日 | 義久が薩摩の泰平寺で秀吉に降伏 |
| 5月13日 | 秀吉から戦後処理の11か条を受け取る |
| 6月5日 | 秀長とともに上方へ向かうはずだった島津家久が、佐土原城で急死 |
秀長に従った武将たち
3月21日付の秀吉の朱印状は、日向方面の軍を一番から五番、そして番外に分けて、秀長の下に置きました。
| 順 | 武将 | どんな人か |
|---|---|---|
| 一番 | 黒田孝高(官兵衛)・蜂須賀家政 | 秀吉の古くからの家臣。孝高は九州攻めの先遣隊として前年から九州にいた |
| 二番 | 小早川隆景・吉川元長 | 毛利の両川。九州の事情にくわしい |
| 三番 | 毛利輝元 | 中国地方の大大名 |
| 四番 | 宇喜多秀家・宮部継潤・因幡衆(亀井茲矩・木下重堅・垣屋光成・南条元続) | 秀吉に目をかけられた備前の若い大名と、秀吉の古参 |
| 五番 | 小早川秀秋(このときは羽柴秀俊) | ねねの甥で秀吉の養子。まだ6歳ほどで名目上の大将 |
| 番外 | 筒井定次・溝口秀勝・森忠政・大友義統・脇坂安治・加藤嘉明・九鬼嘉隆・長宗我部元親ほか | 大和の筒井、水軍の九鬼・脇坂・加藤、助けを求めた大友家、戸次川で嫡男を失った長宗我部 |
中国・四国・畿内の大名がほとんど秀長の下に入っています。毛利一族と宇喜多家という西国の二大勢力を、弟の秀長が束ねたのです。秀吉は西回りの本隊を、秀長には東回りの主力を任せました。秀長が豊臣家の「もう一人の大将」だったことがよくわかります。
秀長自身の家臣は? ─ 先鋒を務めた藤堂高虎
朱印状に名前が並ぶのは大名たちですが、秀長の手もとには自分の家臣団もいました(豊臣秀長の家臣団とは)。なかでも働きが記録に残るのが藤堂高虎です。高虎は秀長軍の先鋒として島津と戦い、根白坂では砦の救援に駆けつけました。
この戦功で、高虎は従五位下・佐渡守に任じられ、1万石を加えられて紀伊粉河2万石の大名になります。秀長に仕えて10年余り、近江の浪人だった高虎が、ここではっきり一人前の大名になりました(藤堂高虎とは)。
一方で、秀長の軍につけられていた秀吉の古参・尾藤知宣は、根白坂で援軍を出すのを止めたことをとがめられ、戦後に領地を取り上げられました。同じ戦いで、高虎は取り立てられ、尾藤は失脚したのです(尾藤知宣とは)。
秀長の体調 ─ 馬に乗れないまま出陣した
見落とされがちですが、このときの秀長は万全の体ではありませんでした。奈良・興福寺の僧が書いた『多聞院日記』には、天正14年11月、秀長に横痃(よこね)というできものができ、馬に乗れなくなったと記されています。九州への出陣は、そのわずか3か月後です。
この年のころから、秀長はたびたび湯治に出かけるようになります。九州から戻ったあとは大きな合戦の先頭に立つことが少なくなり、3年後の小田原攻めには病のため出陣できませんでした。九州攻めは、秀長が総大将として大軍を率いた最後の大きな戦いになったのです(豊臣秀長の死因は何だったのか)。
秀長の戦い方 ─ 力攻めをせず、砦で待つ
4月6日、秀長は耳川を渡って、島津方の山田有信が守る高城を囲みました。高城は小さな城ですが、攻め落とそうとすれば多くの兵を失います。秀長は城を幾重にも囲んで兵糧攻めにし、南から来るはずの島津の救援軍に備えて、根白坂に砦を築かせました。深い空堀と柵で固めた砦を、宮部継潤が約1万の兵で守ります。
4月17日の夜、島津は義久・義弘・家久の三兄弟がそろって約2万の兵で砦に攻めかかりました。しかし砦は抜けず、そこへ藤堂高虎・黒田孝高・小早川隆景らが救援に入り、島津は大敗します。城を囲む軍と救援に来る軍のあいだに砦を置く。秀長のこの手で、島津が得意とした「釣り野伏せ」は生かせませんでした(根白坂の戦いで秀長は何をしたのか)。
九州攻めは秀吉が大軍で島津を押しつぶした戦いで、秀長はその脇役だった。
島津の主力が決戦を挑んだのは、秀長の軍でした。根白坂の勝利で島津は戦う力を失い、和睦を申し入れた相手も秀長です。勝敗を決めたのは、日向を進んだ秀長の軍でした。
島津が和睦を申し入れた相手
根白坂から4日後の4月21日、島津義久は重臣の伊集院忠棟と平田増宗を人質として差し出し、秀長に和睦を申し入れました。目の前で戦った相手であり、秀吉の弟でもある秀長は、和睦の窓口としてもっとも話の通じる相手だったのでしょう。秀長はこの申し入れを受け、秀吉のもとへつなぎました。そして5月8日、義久は薩摩の泰平寺で頭を丸め、秀吉の前に出て降伏します(九州攻めはどう終わったのか)。
戦のあとも、秀長の仕事は続きました。5月13日、秀吉は秀長に11か条の指示を出し、人質の扱いや城の取り壊し、大隅の配分などの戦後処理を任せています。
島津家久の急死
島津四兄弟の末弟・家久は、日向の佐土原城にいました。家久は秀長とともに上方へ向かうことになっていましたが、その直前の6月5日、佐土原城で急死します。あまりに急な死だったため、毒を盛られたのではないかという噂も立ちましたが、確かな証拠はなく、病死だった可能性が高いとされます。戸次川で豊臣の先遣隊を破った名将は、こうして九州攻めの終わりとともに世を去りました。
秀長にとっての九州攻め
毛利・宇喜多という西国の大大名を束ね、島津の主力を受け止めて勝ち、和睦の窓口となり、戦後処理まで引き受ける。九州攻めは、秀長が豊臣家の「もう一人の大将」として最も大きな役割を果たした戦いでした。ただ、その体はすでに病を抱えていました。この4年後、秀長は大和郡山城で亡くなります。
よくある疑問
Q. 九州攻めで秀長はどこを担当したのですか?
A. 日向方面です。豊後から日向に入り、東回りで島津の本国をめざしました。秀吉の本隊は肥後から薩摩へ向かう西回りでした。
Q. 秀長の軍にはだれがいましたか?
A. 黒田孝高・蜂須賀家政・小早川隆景・吉川元長・毛利輝元・宇喜多秀家・宮部継潤らです。秀長自身の家臣では、藤堂高虎が先鋒を務めました。
Q. 九州攻めのとき、秀長は病気だったのですか?
A. 出陣の3か月前、天正14年11月に、できもので馬に乗れなくなったと記録されています。この前後から体調を崩しやすくなっていたとみられます。
Q. 藤堂高虎は九州攻めで何を得ましたか?
A. 戦功により従五位下・佐渡守に任じられ、1万石を加えられて紀伊粉河2万石の大名になりました。
参考:『多聞院日記』、『国史大辞典』「九州征伐」、津市「藤堂高虎 略年譜」ほか
