- 真田家は、信濃国小県郡の真田郷(いまの長野県上田市真田町)を本拠とした一族です。武田信玄に仕えた真田幸隆(幸綱)が家を大きくし、子の昌幸、孫の信之(信幸)と信繁(幸村)へと続きました
- 幸隆の長男・信綱と次男・昌輝は、天正3年(1575)の長篠の戦いでそろって戦死しました。そのため、他家の養子になっていた三男の昌幸が真田家を継ぐことになります
- 昌幸は武田家の滅亡後、織田・北条・徳川・上杉と主を替えながら領地を守り、天正13年(1585)の第一次上田合戦で徳川軍を退けました。『豊臣兄弟!』第39回で秀吉が「徳川と真田の和睦」を命じるのは、この直後の出来事です
- 関ヶ原の戦いでは、兄の信之が徳川方、父の昌幸と弟の信繁が豊臣方に分かれました。信之の家は松代藩主として幕末まで続き、信繁は大坂の陣で「日本一の兵」と呼ばれる最期を遂げます
『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」では、秀吉が石川数正を大坂城に呼び、徳川と真田の和睦を命じると予告されています。家康がその命令を拒み、戦の支度を始める ─ 天下人の秀吉と徳川家康のあいだで、なぜ信濃の小さな一族がこれほど大きな存在になっていたのでしょうか。この記事では、領地をめぐる争いのくわしい話はいったん置いて、「そもそも真田とはどんな家なのか」を、幸隆・信綱・昌輝・昌幸・信之・信繁(幸村)の三代六人でたどります。なお、ドラマで真田家の人物を誰が演じるのかは、筆者が確認した時点ではまだ発表されていません。

真田家の三代六人 ─ ひと目でわかる一覧
| 人物 | 続柄 | 生没年 | ひとこと |
|---|---|---|---|
| 真田幸隆(幸綱) | 初代 | 永正10年(1513)〜天正2年(1574) | 武田信玄に仕え、砥石城を調略で落とした知将 |
| 真田信綱 | 幸隆の長男 | 天文6年(1537)〜天正3年(1575) | 家督を継いだが、長篠の戦いで戦死 |
| 真田昌輝 | 幸隆の次男 | 天文12年(1543)〜天正3年(1575) | 兄とともに長篠の戦いで戦死 |
| 真田昌幸 | 幸隆の三男 | 天文16年(1547)〜慶長16年(1611) | 兄たちの死で家を継ぐ。上田城を築き徳川を二度退ける |
| 真田信之(信幸) | 昌幸の長男 | 永禄9年(1566)〜万治元年(1658) | 関ヶ原で徳川方。松代藩の初代藩主 |
| 真田信繁(幸村) | 昌幸の次男 | 永禄10年(1567)ごろ〜慶長20年(1615) | 大坂の陣で真田丸を築き、家康の本陣に迫る |
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真田家は、信濃の名族・海野氏の流れをくむとされますが、幸隆より前の系譜ははっきりしません。家紋の「六文銭(六連銭)」は、三途の川の渡し賃を表すとされ、死を恐れずに戦う覚悟の印として語られてきました。一族の本拠だった山城は、いまも真田氏本城跡として残っています。
真田幸隆(幸綱) ─ 武田信玄に仕えた「攻め弾正」
真田家を戦国大名の家臣として大きくしたのが、初代の真田幸隆(幸綱)です。若いころに村上義清らとの戦いで真田郷を追われ、上野国に身を寄せていたと伝わりますが、やがて甲斐の武田信玄に仕えて故郷を取り戻しました。信玄が力攻めで落とせず、大敗した村上方の砥石城(戸石城)を、天文20年(1551)に調略で手に入れたのが幸隆の名を高めた手柄とされます。さらに上野国の岩櫃城を攻め取り、のちの沼田領支配の足がかりをつくりました(屋代城)。幸隆は天正2年(1574)5月、信玄の死の翌年に世を去っています。
信綱と昌輝 ─ 長篠の戦いに散った二人の兄
幸隆の跡を継いだのは長男の信綱でした。信綱は次男の昌輝とともに武田勝頼に仕えましたが、天正3年(1575)5月21日の長篠の戦いで、兄弟そろって戦死します。織田・徳川連合軍の鉄砲隊に武田の騎馬武者が次々に倒れたといわれる戦いで、真田家は当主とその弟を一度に失ったのです(長篠城跡)。この二人の死がなければ、昌幸が真田家を継ぐことはなく、信之も信繁も歴史に名を残さなかったかもしれません。
真田昌幸 ─ 主を替えながら家を守った「表裏比興の者」

昌幸は幸隆の三男で、若いころは武田家の家臣・武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」と名乗っていました。信玄のそば近くに仕えて戦と政治を学び、兄たちの死で真田家に戻って家督を継ぎます。天正10年(1582)、武田家が滅びると(新府城跡)、昌幸は織田信長に従い、本能寺の変のあとは北条、徳川と、主を次々に替えていきました。信濃・甲斐・上野をめぐって北条・徳川・上杉が争った混乱の中で、小さな真田家が生き残るための選択でした。
天正11年(1583)、昌幸は上田城を築きはじめます(上田城)。ところが徳川家康が北条氏と和睦し、真田の沼田領を北条に渡すよう求めたことから、昌幸は徳川と手を切り、上杉景勝に従いました。天正13年(1585)閏8月、家康は上田城に軍勢を送りますが、昌幸はわずかな兵でこれを撃退します。これが第一次上田合戦です(上田城はなぜ落ちなかったのか/上田城の縄張と惣構え)。
この勝利で、昌幸の名は一気に天下に知られました。翌天正14年、秀吉は上杉景勝に宛てた書状の中で、昌幸を「表裏比興の者」と評しています。くるくると主を替える油断ならない者、という意味ですが、裏を返せば、それだけ手ごわい相手として秀吉の目に映っていたということです。第39回で秀吉が徳川と真田の和睦を命じるのは、この第一次上田合戦の直後のことで、昌幸はやがて天正15年(1587)に上洛して秀吉に従い、家康の指揮下に入ることになります(史実ではこの後どうなる?年表)。
真田信之(信幸) ─ 徳川の側で家を残した長男
昌幸の長男・信之(はじめは信幸)は、父とともに上田合戦を戦い、その後は沼田城を任されました(沼田城)。のちに徳川四天王の一人・本多忠勝の娘(小松姫)を、家康の養女という形で妻に迎え、徳川家とのつながりを深めていきます。この縁組が、のちの真田家の運命を分けることになりました。
真田信繁(幸村) ─ 人質から「日本一の兵」へ
昌幸の次男・信繁は、第一次上田合戦のころ、上杉家に人質として送られ、その後は秀吉のもとで人質として大坂で暮らしました。秀吉に近く仕え、豊臣家の重臣・大谷吉継の娘を妻に迎えています。豊臣家の中で青年期を過ごしたことが、のちに信繁が大坂城に入る理由のひとつになったと考えられます(真田幸村(信繁)とは何者か)。
犬伏の別れ ─ 父と弟は豊臣方、兄は徳川方
慶長5年(1600)、家康が会津の上杉景勝を攻めるために東へ向かうと、石田三成らが挙兵します。下野国の犬伏(いまの栃木県佐野市)の陣でその知らせを受けた昌幸・信之・信繁の父子は話し合い、昌幸と信繁は豊臣方(西軍)へ、信之は徳川方(東軍)へと分かれました。どちらが勝っても真田の家が残るように、という判断だったと語られています(関ヶ原の戦いをわかりやすく解説)。昌幸と信繁は上田城に戻って徳川秀忠の大軍を足止めし(第二次上田合戦)、秀忠は関ヶ原の本戦に間に合いませんでした。
関ヶ原のあと ─ 九度山と松代
西軍が敗れたあと、昌幸と信繁は、信之とその舅・本多忠勝の助命嘆願によって命を救われ、紀伊国の九度山(いまの和歌山県九度山町)に流されました。昌幸は慶長16年(1611)、九度山で亡くなります。一方の信之は父の旧領を受け継ぎ、のちに信濃の松代(いまの長野市)へ移って、松代藩の初代藩主となりました(松代城)。信之は九十歳を超える長寿を保ち、真田家は松代藩主として幕末まで続いていきます。
大坂の陣 ─ 信繁の最期

慶長19年(1614)、豊臣家と徳川家の対立が深まると、信繁は九度山を抜け出して大坂城に入ります。冬の陣では城の南に出城「真田丸」を築いて徳川方を苦しめ、翌年の夏の陣では家康の本陣にまで迫りました。慶長20年(1615)5月7日、信繁は戦死します。その戦いぶりは、敵方からも「日本一の兵」とたたえられたと伝わります(大坂の陣をわかりやすく解説)。真田家は、兄の信之が徳川の側で家を残し、弟の信繁が豊臣の側で名を残したのです。
『豊臣兄弟!』ではどこに出てくるのか
第39回の時点で、物語は天正13年の暮れから天正14年ごろ、第一次上田合戦の直後にあたります。秀吉が石川数正を通じて家康に真田との和睦を求めたことは、家康と秀吉の駆け引きの中で、真田家の領地問題が大きな火種になっていたことを示しています(第39回「茶々の本心」の予想と史実/石川数正はなぜ秀吉へ寝返ったのか)。ドラマで昌幸や信之、信繁がどのように描かれるのか、今後の配役の発表とあわせて注目です。
よくある疑問
Q. 真田家の初代は誰ですか?
A. 戦国大名の家臣として家を大きくしたのは真田幸隆(幸綱)です。それより前の系譜ははっきりしていません。
Q. 真田昌幸はなぜ真田家を継いだのですか?
A. 長男の信綱と次男の昌輝が、天正3年(1575)の長篠の戦いでそろって戦死したためです。昌幸は武藤家の養子になっていましたが、真田家に戻って家督を継ぎました。
Q. 真田幸村と真田信繁は同じ人物ですか?
A. 同じ人物です。史料に残る名は「信繁」で、「幸村」は江戸時代の軍記物などで広まった名とされます。
Q. なぜ真田家は関ヶ原で東西に分かれたのですか?
A. 父の昌幸と弟の信繁が豊臣方、兄の信之が徳川方につきました。どちらが勝っても家が残るように、という判断だったと語られています。
Q. 『豊臣兄弟!』で真田昌幸を演じるのは誰ですか?
A. 筆者が確認した時点では、真田家の人物の配役は発表されていません。
まとめ
真田家は、武田信玄に仕えた幸隆が大きくし、長篠の戦いで二人の兄を失ったあと、三男の昌幸が継いで戦国の荒波を乗り切った一族です。昌幸は上田城で徳川軍を退けて秀吉にも一目置かれ、子の信之は徳川の側で家を残し、信繁は大坂の陣で名を残しました。『豊臣兄弟!』第39回で秀吉が命じる「徳川と真田の和睦」は、この一族が天下の行方を左右する存在になっていたことを物語っています。
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