【城名】
沼田城
【沼田城の説明】
沼田城は現在の群馬県沼田市にあった丘城である。
築城時期は1532年、沼田顕泰により築城されたと言われている。
戦国時代には越後の「上杉謙信」と関東の「北条氏政」に挟まれてどちらに就くか内紛が勃発する。その間、上杉謙信により城を奪われ沼田支配は謙信直属の家臣が行うことになる。

しかし、謙信の死後上杉氏の後継者争いのさなか北条氏(北条氏邦)が沼田城を手に入れ、城代に「藤田信吉」を置いた。1578年、謙信の後を継いだ上杉景勝と武田勝頼との間で甲越同盟が結ばれると武田氏による沼田攻めを景勝は容認する。
この沼田攻めを任されたのが「真田昌幸(幸村の父)」で、巧みな謀略により天正8年(1580年)、城代の藤田信吉を降して沼田城を開城させた。翌天正9年(1581年)、沼田顕泰の子、沼田景義が沼田城の奪還を目指し攻め込むが逆に殺害され、これにより沼田氏は滅亡した。
天正10年(1582年)、織田信長の甲州侵攻により武田勝頼は自害。武田氏が滅亡すると上野一国と信濃の一部は「滝川一益」が配領した。しかし、同年「本能寺の変」で信長が家臣の明智光秀に討たれると上州は再び戦乱期となり沼田城は北条氏政が治める地となる。
真田昌幸はこの間、北条氏に降っている。武田家滅亡後の甲信は徳川家康が支配する土地となり、上野一国は北条氏に帰属した。しかし、信濃・上野国に領地がまたがっている「真田昌幸」は上野国に属する沼田城を北条氏へ引き渡すよう家康より説かれたがこれを拒否。

これにより昌幸は家康と手を切って上杉景勝と手を結び、天正13年(1585年)、家康が上田城に送った軍勢を撃退した(第一次上田合戦)。なお、上田城をめぐる二度目の戦い(第二次上田合戦)は沼田問題とは別の出来事で、関ヶ原の戦いの年にあたる慶長5年(1600年)、昌幸が中山道を進む徳川秀忠の大軍を上田城で足止めした戦いである。この間も天下の情勢は刻々と動き豊臣秀吉が天下人となる。
昌幸は天下の情勢を考慮し、秀吉にいち早く従い沼田城の件も秀吉に委ねることにした。天正17年(1589年)、秀吉の裁定により、沼田城を含む沼田領の三分の二は北条氏のものとなり、名胡桃城を含む残り三分の一が真田家に残された(北条氏に渡した分の替え地は、徳川家康から真田家に与えられることになった)。沼田城には北条氏家臣「猪俣邦憲」が城代として入り一件落着するかに見えたが、同年、邦憲が真田方の名胡桃城を奪い取った(名胡桃城事件)。
この騒動が発端で豊臣秀吉の「北条征伐」(小田原征伐)が開始された。北条氏が滅亡すると真田家は上田城・沼田城合わせて9万5千石を領する大名となる。関ヶ原の戦いで徳川家康が実質的にも天下人になると真田家を継いだ信幸が松代城へ13万石に移封となる。

引き続き沼田の地は真田家の飛び地として真田家支藩3万石として存続していたが、1681年、信利の代で幕府の務めを果たせず改易される。その後の沼田城主は本多氏・黒田氏・土岐氏へと移り廃藩置県を迎えた。
現在の城跡は「沼田公園」として整備されている。
【沼田城・場所・アクセス】
〒378-0042 群馬県沼田市西倉内町594(沼田公園)
【沼田城地図】
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