山梨県韮崎市に新府城跡(しんぷじょうあと)がある。国指定史跡、続日本100名城127番。
この城には、日本の城のなかでも珍しい経歴がある。
完成から三か月で、城主が自分で火を放って捨てた。

「史跡 新府城跡」の石柱。ここから本丸へ石段が続く
武田勝頼が、最後に賭けた城
現地の案内板(韮崎市教育委員会)に、この城の来歴が刻まれている。
着工は天正九年(1581)。それまで武田氏の本拠は甲府の躑躅ヶ崎館だった。信玄が「人は城、人は石垣」と言ったとされる、あの館である。
その館を捨てて、新しい城を築く。これは武田家にとって、方針の大転換だった。
理由は明白である。天正三年(1575)の長篠で、武田は主力を失っていた。織田・徳川の圧力は年々強まっている。館では、もう守れない。
普請を命じられたのは真田昌幸である。のちに上田城で徳川を二度退ける、あの男だ。
案内板によれば工事は昼夜兼行で行われ、着工からわずか八か月余りで竣工。同年十二月に甲府から移った。

現地の想定復元図。本丸・二之丸・三之丸、大手には丸馬出しと三日月堀が描かれている
石垣を使わない、土の巨城
復元図を見ると、この城の性格がよくわかる。
案内板の記述はこうだ。南北六〇〇メートル、東西五五〇メートル。外堀と本丸の標高差八〇メートル。形式は平山城。
そして重要な一行がある。「近世城郭のような石垣は用いず、高さ約二・五メートルの土塁を巡らしている。」
これだけの規模を、土だけで築いた。同じ時期、織田は安土城で石垣の城を建てていた。新府城は、戦国の土の城の到達点である。
特徴的な設備が案内板に並ぶ。
- 丸馬出しと三日月堀……大手に設けられた、武田流築城術の代名詞
- 出構(でがまえ)……北方の高地からの攻撃に備えた二か所の突出部
- 横矢掛りの防塁……本丸の東、稲荷曲輪との間
とくに出構について、案内板は踏み込んだ説明をしている。「出構は新府城の特色で、防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。」
長篠で鉄砲に敗れた武田が、鉄砲を使うための施設を作った。ここが、この城のいちばん切実な部分だと思う。

文化庁・山梨県・韮崎市の案内板。城の規模と構造が詳しく記されている
三か月で、自分の城を焼いた
そして天正十年(1582)三月。
案内板の一行が重い。「天正十年三月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。」
移ってから、わずか三か月である。
八か月かけて築き、三か月住んで、自分で焼いた。城として使われた期間より、造っていた期間のほうが長い。
勝頼は岩殿城を目指した。小山田信茂を頼るためである。だがその小山田に裏切られ、天目山で自刃する。
案内板の系図の末尾に、こう書かれている。「天正十年三月(一五八二)、信玄の第四子武田勝頼、信勝の父子自殺し武田の歴史が終る。」

「武田氏の系図」。清和天皇から始まり、勝頼・信勝で終わる
なぜ、城を捨てたのか
ここが、この城を訪ねる人がいちばん引っかかる点だと思う。
これだけの城を、なぜ一戦もせずに捨てたのか。
案内板には、その答えのヒントがある。「韮崎に部将真田昌幸に命じて、築かせた」城でありながら、織田軍の侵攻時にはすでに武田方の諸将が離反していた。
城は堅くても、籠る兵がいなければ意味がない。
木曽義昌が離反し、穴山梅雪が徳川に付き、伊那の城が次々に落ちた。高遠城で仁科盛信が徹底抗戦したのが例外だったほどである。
勝頼が捨てたのは城ではなく、崩れた家臣団だった。そう考えると、この判断は理解できる。

本丸へ続く石段。この日は雨模様で、苔むした段が濡れていた
本丸に眠る、勝頼と十四将
石段を登り切ると、本丸跡に出る。
そこにあるのが藤武神社と、武田勝頼公霊社である。
現地の説明板によれば、この霊社は武田氏滅亡後、地方民が旧領主の勝頼を偲び、藤武神社の北の地を卜して石祠を建てたものと伝わる。建立は元禄二年(一六八四)ごろとされる。
そして毎年、命日の四月十六日に慰霊祭が行われているという。

武田勝頼公霊社。「武田勝頼公四百二十年祭」の標柱が立つ
だがこの本丸で、いちばん胸を打つのは霊社そのものではない。
その脇に立ち並ぶ、十四本の霊標である。
武田十四将霊碑 — 名前が読める
「武田14将霊碑」と案内が出ている。一本ずつに、武将の名が書かれている。
読み取れるものを挙げる。
- 武田兵庫頭 信実
- 原隼人佐 昌胤
- 内藤修理亮 昌豊
- 高坂又八郎 助宣
- 土屋右衛門尉 昌次
- 甘利郷左衛門 信康
- 横田十郎兵衛 康景
- 真田兵部丞 昌輝
- 真田源太左衛門 信綱
- 高坂源五郎 昌澄
- 山県三郎兵衛 昌景
- 五味與惣兵衛 貞氏
- 小山田五郎兵衛 昌輝
そして中央に石碑が立つ。刻まれているのは「大塚 長篠役陣殁将士之墓」。

「大塚 長篠役陣殁将士之墓」。長篠で死んだ将たちの供養塔である
ここに眠るのは、新府城で死んだ人たちではない。
七年前の長篠で死んだ将たちである。
山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、土屋昌次、真田信綱・昌輝の兄弟——信玄の代を支えた重臣が、あの一日でまとめて消えた。
真田兄弟の名前があることに注目してほしい。この城を築いた真田昌幸は、長篠で兄二人を失っている。だから昌幸が真田家を継ぐことになった。

真田兵部丞昌輝・真田源太左衛門信綱の霊標。昌幸の兄二人である
長篠で人を失い、その穴を埋めるために城を築き、その城を捨てて滅びた。
本丸に立つと、その順番が一望できる。新府城は、長篠の続きなのである。
新府城の現地写真

道路の案内標識。天守の絵が描かれているが、この城に天守はなかった

藤武神社の鳥居。扁額に社名が入る

杉木立のなかの石段。本丸まで一直線に登る

「国指定史跡 新府城本丸跡」の標柱

本丸の広場。「武田勝頼公霊社/武田14将霊碑」の案内が出ている

十四将の霊標。一本ずつに名が記されている

新府城跡見取図。本丸を中心に曲輪が広がる
訪ねるときに
本丸まで長い石段を登る。手すりはあるが、雨の日は苔で滑りやすい。歩きやすい靴で訪ねたい。
遺構は広範囲に散在している。案内板によれば指定面積は二三・八ヘクタール。本丸だけ見て帰ると、この城の半分も見ないことになる。
とくに見ておきたいのが大手の丸馬出しと三日月堀、そして北側の出構である。武田流築城術の教科書のような遺構が残っている。
| 配布・販売場所 | 韮崎市民俗資料館(〒407-0004 山梨県韮崎市藤井町南下條786-3/0551-22-1696) |
|---|---|
| 開館時間 | 火〜日曜 9:00〜16:30(木曜は13:00〜16:30) |
| 休館日 | 月曜、祝日の振替休館日、年末年始 |
| 入館料 | 無料 |
| 続100名城スタンプ | 同館内に設置。休館日は入口の押印済み用紙を利用 ※新府城跡やほかの場所にスタンプはありません |
新府城・場所・アクセス
〒407-0021 山梨県韮崎市中田町中条
JR中央本線「新府駅」から徒歩約15分/中央自動車道「韮崎IC」から車で約20分。
新府城跡駐車場(韮崎市中田町中條4645)約30台、大型バス可。
新府城ゆかりの城
- 高遠城(長野県伊那市)… 仁科盛信が織田信忠軍を相手に徹底抗戦した城
- 大島城(長野県松川町)… 信玄の弟・武田逍遥軒信廉が守り、戦わずに開城した城
- 飯田城(長野県飯田市)… 甲州征伐で織田軍が北上した伊那谷の城
- 上田城(長野県上田市)… 新府城を築いた真田昌幸が、のちに徳川を二度退けた城
- 安土城(滋賀県近江八幡市)… 同じ時期、織田が築いていた石垣の城
- 苗木城(岐阜県中津川市)… 巨岩にまたがる天守が建っていた城
- 岩村城(岐阜県恵那市)… 日本三大山城。標高717メートルの本丸
- 馬籠宿(岐阜県中津川市)… 中山道の宿場町。木曽路が開いて武田は滅んだ
甲州征伐で武田がどう崩れたかは、本能寺の変の記事や川中島の戦いともあわせて読むと流れがつかめます。
