- 松代城(長野県長野市)は、武田信玄が川中島の戦いの拠点として築いた「海津城」がはじまりです。築城は永禄2年(1559)から翌年にかけてとされ、山本勘助が縄張りをしたと伝わります
- 武田家の滅亡後は城主が次々に替わり、元和8年(1622)、真田信之が上田から移ってきました。以後、真田家は十代、約二百五十年にわたって松代藩主をつとめ、明治を迎えます
- 城の名は「海津城」から「待城」「松城」をへて、江戸時代に「松代城」となりました
- いまは国の史跡で、平成16年(2004)に太鼓門や堀、石垣、土塁が復元されました。入場は無料で、近くには真田邸や真田宝物館、文武学校もあります
松代城は、長野市の南東、千曲川のほとりにあった城です。戦国時代には武田信玄が上杉謙信と争った川中島の戦いの拠点となり、江戸時代には真田信之が上田から移って松代藩を開きました。この記事では、海津城と呼ばれた時代から真田十代の松代藩、そしていまの城跡の見どころまでをたどります。真田家の人びとについては真田家とはで紹介しています。

海津城の誕生 ─ 武田信玄が川中島に築いた城
松代城のはじまりは、武田信玄が築いた「海津城」です。信玄は北信濃をめぐって越後の上杉謙信と争い、千曲川と犀川にはさまれた川中島一帯をおさえるため、永禄2年(1559)から翌年にかけてこの城を築いたとされます。城代には、信玄の重臣・高坂昌信(春日虎綱)が置かれました。永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いでは、謙信が妻女山に陣を取ったのに対し、信玄は海津城に入って対陣します。有名な「啄木鳥の戦法」の舞台となったのが、この城とその周辺です(川中島の戦い(前編)/川中島の戦い(後編))。
武田家の滅亡後 ─ 城主が次々に替わった城
天正10年(1582)に武田家が滅びると、海津城には織田家の森長可が入りましたが、本能寺の変のあとは上杉景勝の勢力下に入ります。豊臣政権の時代、江戸時代のはじめにかけても城主はめまぐるしく替わり、そのたびに城の名も「待城」「松城」と呼び変えられました。北信濃の要の城として、時の権力者が信頼する大名を置いたことがうかがえます。
| 年 | 城主・できごと |
|---|---|
| 永禄2〜3年(1559〜1560) | 武田信玄が海津城を築く。城代は高坂昌信(春日虎綱) |
| 天正10年(1582) | 武田家滅亡。織田家の森長可が入る。本能寺の変のあとは上杉方の城に |
| 慶長3年(1598) | 豊臣家の蔵入地となり、田丸直昌が城主に |
| 慶長5年(1600) | 森忠政が城主に。城の名は「待城」とも |
| 慶長8年(1603) | 家康の六男・松平忠輝が城主に |
| 元和2年(1616) | 松平忠昌が城主に。このころ「松城」と呼ばれる |
| 元和5年(1619) | 酒井忠勝が城主に |
| 元和8年(1622) | 真田信之が上田から入る。以後、真田家が明治まで治める |
| 明治5年(1872) | 廃城 |
真田信之の入封 ─ 上田から松代へ
元和8年(1622)、上田の城主だった真田信之は、幕府の命で松代へ移されました。松代10万石に、上野の沼田3万石をあわせた13万石の大名です。父の昌幸が築き、二度にわたって徳川の大軍を退けた上田城を離れることは、信之にとってつらい国替えだったとも語られています。このとき信之はすでに五十代の後半でしたが、その後も九十歳を超えるまで生き、真田家の土台を固めました(真田家とは)。沼田の領地は、のちに信之の子孫が治める分家の領地となります(沼田城/徳川と真田は何でもめていたのか)。
真田十代と松代藩 ─ 幕末まで
真田家は信之から数えて十代、約二百五十年にわたって松代藩を治め、明治を迎えました。城の名が「松代城」となったのは、江戸時代の中ごろのことです。寛保2年(1742)には、千曲川の大洪水「戌の満水」で城も大きな被害を受けました。幕末には、藩士の佐久間象山が西洋の学問を学んで名を高め、藩は藩校の文武学校を開いて人材を育てています(佐久間象山「三条木屋町の遭難」)。
いまの松代城跡 ─ 太鼓門と本丸の石垣

明治5年(1872)に廃城となり、建物の多くは失われましたが、本丸の石垣や堀の一部は残りました。昭和56年(1981)に国の史跡に指定され、平成16年(2004)には、本丸の正門にあたる太鼓門をはじめ、堀や石垣、土塁が復元されています。日本100名城にも選ばれています。城跡から歩ける範囲に、真田家の別邸だった真田邸(新御殿)、真田家に伝わる品々を展示する真田宝物館、藩校の文武学校があり、あわせてめぐると松代藩の姿がよくわかります。
松代城跡の場所・アクセス
住所:〒381-1231 長野県長野市松代町松代44
開場時間:9時〜17時(11月〜3月は16時30分まで、入場は閉場の30分前まで)
休み:12月29日〜1月3日
入場料:無料
バス:JR長野駅から松代方面行きのバスで約30分、「松代駅」下車、徒歩約5分
車:長野インターチェンジから約2km、約5分。市営殿町観光駐車場、松代城北駐車場あり
よくある疑問
Q. 松代城と海津城は同じ城ですか?
A. 同じ城です。武田信玄が築いたころは海津城と呼ばれ、「待城」「松城」をへて、江戸時代に「松代城」となりました。
Q. 真田信之が松代に移ったのはいつですか?
A. 元和8年(1622)です。上田から移り、以後、真田家が明治まで松代藩主をつとめました。
Q. 松代城に天守はありますか?
A. 天守はありません。本丸の石垣や堀、平成16年に復元された太鼓門などを見ることができます。
Q. 入場料はかかりますか?
A. 無料です。
まとめ
松代城は、武田信玄が川中島の戦いのために築いた海津城にはじまり、真田信之が上田から移ってからは、真田十代の松代藩の城として幕末まで続きました。戦国の武田と上杉の争い、江戸時代の真田家の歩みの両方を伝える城です。上田城や沼田城とあわせて、真田家ゆかりの城をめぐってみてください。英語版はMatsushiro Castleです。
- 豊臣秀長とはどんな人物か
兄・秀吉を支えた大和大納言の生涯 - 豊臣秀長の出自
本当に秀吉と同じ父母の弟だったのか - 豊臣秀長はなぜ「長秀」から「秀長」に改めたのか
丹羽長秀と同じ名を持っていた - 豊臣秀長は賤ヶ岳で何をしていたのか
秀吉が戦場を離れられた理由 - 豊臣秀長と大坂城築城
石と材木をどう集めたのか - 豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか
十万の軍を率いた夏 - 豊臣秀長の四国平定・九州平定
総大将として天下統一を進めた戦 - 豊臣秀長の百万石
大和・紀伊・和泉の内訳と、大和郡山を任された理由 - 豊臣秀長の大和支配
寺社の国をどう治めたのか - 豊臣秀長の居城・大和郡山城
逆さ地蔵の石垣と、秀長のあとの城主たち - 豊臣秀長が築いた和歌山城
虎伏山に築いた紀州の城 - 豊臣秀長の家臣団
藤堂高虎・桑山重晴・吉川平介ら百万石を支えた人びと - 豊臣秀長に仕えた藤堂高虎
築城の名手になった二十年 - 豊臣秀長の家臣・吉川平介
主君・秀長の面目を潰した処刑 - 豊臣秀長が亡くなった年
天正十九年、豊臣家が一年で失った三つ - 豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか
養子・秀保の十七歳の死と、大和豊臣家の断絶 - 豊臣秀長の妻・慶(慈雲院)
吉岡里帆が演じる正室は実在? 豊臣家の滅亡まで見届けた生涯 - もし豊臣秀長があと十年生きていたら
朝鮮出兵・秀次事件・関ヶ原はどう変わったのか - 豊臣秀長ゆかりの城めぐり
大河『豊臣兄弟!』の舞台を歩く - 豊臣秀長の出世と石高の推移
田を耕していた小一郎が百万石になるまでと、父の違う四人のきょうだい - 豊臣秀長が副将をつとめた紀州攻めと高野山
根来寺は焼け、高野山はなぜ残ったのか。そのあと紀伊は秀長の領国に - 豊臣兄弟!第37回「秀長の国」の史実
秀長はなぜ大和を任され、寺社の国をどう治めたのか
この回に登場する片岡鶴太郎さんの過去の役については、片岡鶴太郎が演じた歴史上の人物・時代劇の役まとめをどうぞ。
あわせて読みたい:徳川と真田は何でもめていたのか ─ 沼田領と秀吉の裁定
