秀長は本当に秀吉に茶々を勧めたのか:『豊臣兄弟!』第39回の予告と史実 ─ 記録はないが、茶々の城を建てたのは秀長だった

城の広間で向き合って話し合う二人の武将と、障子に映る打掛姿の姫の影のイメージ
この記事のポイント
  • 秀長が秀吉に、茶々を側室として迎えるよう勧めたことを記した史料は見当たりません。第39回の予告にある筋立ては、ドラマの創作とみられます
  • 時期もずれています。第39回の舞台は天正13〜14年ごろですが、茶々が側室になったのは天正16年(1588)ごろとされ、鶴松が生まれたのは天正17年(1589)5月です
  • 一方で、秀長と茶々をつなぐ確かな記録もあります。『多聞院日記』の天正17年の記事から、茶々が鶴松を産んだ淀城の普請に、秀長があたっていたことが分かります
  • 秀吉の家の内外を取りしきった秀長の立場を考えると、跡継ぎの問題に無関係だったとは考えにくく、ドラマはそこを大きくふくらませたと読めます

『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」について、NHKは「秀長は秀吉に、後継者となる実子をもうけるため織田の血を引く茶々をめとるよう勧める」と予告しました。仲野太賀さんが演じる秀長が、兄の縁組に口を出す ─ 本当にそんなことがあったのでしょうか。この記事では、記録に残っていることと、残っていないことを分けて確かめます。茶々の人物像は茶々(淀殿)とはで、茶々がなぜ秀吉の側室になることを受け入れたのかは茶々はなぜ秀吉の側室になったのかでまとめています。

目次

結論 ─ 秀長が勧めたという記録はない

先に結論を書くと、秀長が秀吉に茶々を勧めたことを記した史料は、筆者が調べたかぎりでは見当たりません。秀長の動きをよく書きとめている興福寺の僧の日記『多聞院日記』にも、そうした話は出てきません(多聞院日記とは)。茶々が秀吉の側室になった経緯そのものが、同時代の記録からはほとんど分からないのです。予告の筋立ては、ドラマが秀長を物語の中心に置くために組み立てたものとみるのが自然です(第39回「茶々の本心」の予想と史実)。

時期のずれ ─ 第39回と史実の三年

大坂城の御殿の茶々のイメージ
大坂城の御殿の茶々のイメージ(イラスト)

年表で並べると、ドラマと史実のずれが見えてきます。秀吉の養子で信長の四男だった於次秀勝が亡くなったのが天正13年(1585)12月。茶々が秀吉のもとにいたことが史料で確かめられるのは天正14年(1586)10月ごろからで、側室となったのは天正16年(1588)ごろとされます。そして鶴松が淀城で生まれたのは天正17年(1589)5月27日です。第39回が石川数正の出奔(天正13年11月)などを描く回だとすると、史実の側室入りは、そこから二年以上あとのことになります(史実ではこの後どうなる?第38回以降の年表)。

秀長と茶々をつなぐ確かな記録 ─ 淀城の普請

では、秀長と茶々はまったく関わりがなかったのかというと、そうではありません。『多聞院日記』の天正17年(1589)には、正月23日、2月18日、2月20日と三度にわたって淀城の普請の記事があり、そこに「大納言殿」として出てくるのが秀長です。淀城は、身ごもった茶々のために秀吉が用意した城で、茶々はここで鶴松を産み、「淀の方」「淀殿」と呼ばれるようになりました(茶々はなぜ淀殿と呼ばれたのか)。つまり、跡継ぎを産む女性のための城を整えたのは、秀長だったのです。勧めたという記録はなくても、兄の跡継ぎ誕生に秀長が手を動かしていたことは確かです。

▽ よく語られる話
秀長は兄の秀吉に、跡継ぎを得るため茶々を側室に迎えるよう勧めた。
▼ 史実ではこうです
そうした記録は見当たりません。確かめられるのは、天正17年に茶々が鶴松を産んだ淀城の普請に秀長があたっていたことです(『多聞院日記』)。秀長が「勧めた」かどうかは分かりませんが、兄の跡継ぎ誕生を支える側にいたことは記録に残っています。

なぜドラマは「秀長が勧めた」と描くのか(筆者の見方)

ここからは筆者の見方です。天正14年(1586)、大坂城を訪れた豊後の大友宗麟は、国元への手紙に「内々のことは宗易(千利休)に、公のことは宰相(秀長)に」と言われたと書き残しました。秀長は、秀吉の政権で表の取りまとめ役を任されていた人物です。跡継ぎを誰にするかは、豊臣家にとって最大の「公のこと」でした。

しかも、天正13年の暮れに於次秀勝が亡くなったことで、秀吉の家から織田の血を引く跡継ぎ候補がいなくなっていました。信長の姪である茶々を迎えれば、生まれる子は織田と浅井の血を引くことになります。さらに秀長自身にも男子がなく、のちに甥の秀保を養子に迎えています(末とは/秀吉の養子たち)。兄弟そろって跡継ぎに悩んでいたことを考えると、秀長が兄の縁組に意見したという筋立ては、記録はなくても、ありえない話とまでは言えません。ドラマはその「ありえたかもしれない場面」を描こうとしているのでしょう。秀吉の子どもについては秀吉に実子はいたのかでまとめています。

茶々はなぜ受け入れたのか

勧めたのが誰であれ、茶々の側から見れば、父の小谷城と母の北ノ庄城を攻めた側にいた秀吉の側室になることでした。茶々本人がどう考えていたのかを伝える言葉は残っておらず、浅井の家を残すため、妹たちを守るため、生きのびるため、といった理由はいずれも後世の推測です。その検討は茶々(淀殿)はなぜ秀吉の側室になったのかでくわしく行っています。ドラマの茶々は弓を引く凛とした姿で描かれていますが、第39回の題「茶々の本心」が、この問いにどう答えるのかが見どころです(茶々は弓が得意だったのか)。

よくある疑問

Q. 秀長が秀吉に茶々を勧めたのは史実ですか?
A. それを記した史料は見当たらず、ドラマの創作とみられます。

Q. 秀長と茶々に関わりはあったのですか?
A. あります。茶々が鶴松を産んだ淀城の普請に秀長があたっていたことが、『多聞院日記』の天正17年の記事から分かります。

Q. 茶々が秀吉の側室になったのはいつですか?
A. はっきりしませんが、天正16年(1588)ごろとされます。天正17年5月27日に淀城で鶴松を産みました。

Q. なぜ「織田の血」が重視されたのですか?
A. 秀吉の養子で信長の四男だった於次秀勝が天正13年12月に亡くなり、織田の血を引く跡継ぎ候補がいなくなっていたからだと考えられます。茶々は信長の姪にあたります。

まとめ

秀長が秀吉に茶々を勧めたという記録はなく、第39回の予告の筋立てはドラマの創作とみられます。時期の面でも、茶々の側室入りは天正16年ごろと、ドラマの舞台より二年以上あとのことです。ただし、茶々が鶴松を産んだ淀城の普請に秀長があたっていたことは『多聞院日記』に残っており、秀長が兄の跡継ぎ誕生を支える側にいたことは確かです。記録のない「勧め」の場面を、ドラマがどう描くのかに注目してみてください。

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