- 猿飛佐助や霧隠才蔵は、江戸時代の軍記や明治・大正の立川文庫が生んだ架空の忍者ですが、真田家が忍びを使っていたことは確かで、その名が伝わる人物もいます
- 代表的なのが出浦盛清です。武田家で透波を率いたと伝わり、武田家が滅んだのちは真田昌幸・信之に仕えて、上野の吾妻の奉行や岩櫃城の城代を務めました
- 真田家が治めた上野の吾妻・沼田は、北条家との境目の土地で、横谷左近や唐沢玄蕃といった吾妻の地侍たちが、城への忍び入りや放火で働いたと『加沢記』などの軍記に記されています
- 真田十勇士は、こうした真田家の忍びや家臣たちの姿に、講談の作者たちが想像をふくらませて生まれた物語の英雄たちといえます
ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』では、猿飛佐助(岩本照さん)や霧隠才蔵(中川大志さん)をはじめとする忍びたちが、九度山の幸村(安藤政信さん)のもとに集まり、10月30日放送の第2話では、いよいよ九度山からの脱出に挑みます。佐助や才蔵は物語の中の忍者ですが、真田家には本当に忍びがいたのでしょうか。この記事では、真田家に仕えた実在の忍びとして名が伝わる出浦盛清と、上野の吾妻の忍び衆を紹介し、十勇士の物語とのつながりを考えます。
佐助と才蔵は架空の忍者、でも真田家に忍びはいた
はじめに確かめておくと、猿飛佐助と霧隠才蔵は、江戸時代の軍記や講談をもとに、明治・大正の立川文庫で人気者になった架空の忍者です。同時代の史料にその名は見えず、モデルとされる人物についても確かなことはわかっていません(猿飛佐助とは/霧隠才蔵とは)。
けれども、真田家が忍びを使っていたことは確かです。真田家は、信濃の小県と上野の吾妻・沼田という、武田・上杉・北条・徳川といった大きな勢力にはさまれた土地を治め、小さな兵力でたくみに生き残った一族でした。敵の動きをいち早く知り、城を奪い、守るためには、山の地理に通じた地侍たちの働きが欠かせませんでした(真田家とは)。
出浦盛清 ─ 武田の透波を率い、真田に仕えた
真田家の忍びとして最もよく知られるのが、出浦盛清(昌相)です。盛清は天文15年(1546)ごろ、信濃の埴科郡出浦の村上氏の一族に生まれたとされ、村上義清が武田信玄に敗れたのちは武田家に仕えました。松代藩の家老・河原綱徳がまとめた『本藩名士小伝』には、盛清が武田家の透波(忍び)を率いたと記されています。
天正10年(1582)に武田家が滅ぶと、盛清はいったん織田家の森長可に仕え、本能寺の変のあと長可が信濃から引き上げる際にも力を貸しました。その後、天正11年ごろから真田昌幸に仕え、信濃の武石村で三十貫文の知行を受けて、上野の吾妻の奉行を務めます。吾妻の要の城・岩櫃城では最後の城代となり、関ヶ原の戦いのあとは吾妻の原町に住んで、元和9年(1623)に78歳で亡くなりました。子の幸久は、松代藩で千石を受ける家老になっています。
なお、盛清が「忍び」を率いたという話については、天正18年(1590)の小田原攻めで武蔵の忍城攻めに加わったことが、「忍(おし)」と「忍び」の取り違えで伝わったのではないか、という見方もあります。それでも、吾妻の奉行として境目の土地を預かった盛清が、敵地の様子を探る者たちを束ねていたことは十分に考えられます。

吾妻の忍び衆 ─ 横谷左近と唐沢玄蕃
真田家が治めた上野の吾妻と沼田は、北条家との境目にあたり、城の取り合いが絶えない土地でした。吾妻の地侍たちのことを記した『加沢記』などの軍記には、出浦盛清とともに吾妻の忍び衆を率いた横谷左近や、身軽で火薬の扱いにたけ、敵の城に忍び入って放火した唐沢玄蕃といった人びとの働きが語られています。唐沢玄蕃には、北条方の城から金の馬鎧を盗み出したという話も伝わります。
これらの話は、のちの時代にまとめられた軍記によるもので、どこまでが史実かは慎重に見る必要があります。ただ、名胡桃城や沼田城をめぐって北条家と争った真田家にとって、夜の城に忍び入り、火を放ち、敵の動きを探る地侍たちが大きな力になっていたことは確かでしょう(岩櫃城/名胡桃城事件とは)。
| 人物 | 伝わる働き |
|---|---|
| 出浦盛清 | 武田家で透波を率いたと伝わる。真田昌幸・信之に仕え、吾妻の奉行、岩櫃城の最後の城代を務めた |
| 横谷左近 | 吾妻の地侍。出浦盛清とともに吾妻の忍び衆を率いたとされる |
| 唐沢玄蕃 | 吾妻の地侍。敵の城に忍び入って火を放つなどの働きが軍記に語られる |
| 割田重勝 | 吾妻の地侍。真田家の家臣として小田原攻めのころの記録に名が見えるとされる |
真田十勇士は真田家の忍びから生まれたのか
真田十勇士の物語は、江戸時代の軍記『真田三代記』などに出てくる真田家の家臣や忍びたちをもとに、講談の語り手や立川文庫の作者たちが想像をふくらませて生まれたものです。十勇士の一人ひとりに、出浦盛清や吾妻の忍び衆のような決まったモデルがいたわけではありませんが、「真田家には腕ききの忍びがいた」という伝えが、十勇士という英雄たちを生む土台になったことは間違いないでしょう(真田十勇士とは)。
また、十勇士の根津甚八や望月六郎、海野六郎の名は、真田家とつながりの深い信濃の禰津氏、望月氏、海野氏といった一族の名からとられたと考えられています。実在の一族の名に、物語の英雄の姿が重ねられていったのです(穴山小助・根津甚八とは)。
ドラマ『真田十勇士』第2話の忍びたち
第2話では、佐助が敵討ちと褒美を目当てに幸村の九度山脱出を手伝い、鉄砲を手に入れようとする才蔵に同行します。一方、穴山(浜野謙太さん)や根津(金田哲さん)らが身を寄せる村は、徳川方の首藤景明(橋本じゅんさん)に見張られ、人間離れした忍びが待ち構えているようです。史実の真田家の忍びたちが境目の城で見せたような、忍び入りや火攻めの技が、ドラマでどう描かれるのかにも注目です(戦国時代の鉄砲はいくらで、どうやって手に入れたのか/九度山の真田父子は誰に見張られていたのか/『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。
よくある疑問
Q. 真田家に忍者はいたのですか?
A. いました。武田家で透波を率いたと伝わる出浦盛清が真田昌幸・信之に仕え、上野の吾妻では横谷左近や唐沢玄蕃といった地侍が忍びの働きをしたと軍記に記されています。
Q. 猿飛佐助や霧隠才蔵は実在したのですか?
A. 同時代の史料に名は見えず、講談や立川文庫が生んだ架空の忍者と考えられています。
Q. 出浦盛清とはどんな人ですか?
A. 信濃の村上氏の一族に生まれ、武田家、森長可を経て真田家に仕えた武将です。吾妻の奉行や岩櫃城の城代を務め、元和9年(1623)に亡くなりました。
Q. 真田十勇士にモデルはいたのですか?
A. 一人ひとりに決まったモデルがいたわけではありませんが、真田家の忍びや家臣の伝え、禰津・望月・海野といった真田家ゆかりの一族の名が、物語のもとになったと考えられています。
まとめ
猿飛佐助や霧隠才蔵は物語の中の忍者ですが、真田家が忍びを使っていたことは確かで、武田の透波を率いたと伝わる出浦盛清や、吾妻の忍び衆を率いた横谷左近、城に忍び入った唐沢玄蕃といった人びとの名が伝わっています。北条家との境目の土地で城を奪い合った真田家の戦いぶりが、のちに十勇士という英雄たちの物語を生む土台になったのです。
よくある疑問
Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。
Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。
Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。
Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。
Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。
まとめ
真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。
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