上田城は、徳川の軍勢を二度にわたって退けた城です。一度目は天正十三年、真田昌幸が二千ほどの兵で七千の徳川勢を相手にし、二度目は慶長五年、関ヶ原へ向かう徳川秀忠の大軍を城の前で足止めしました。よく語られるのは昌幸の知略ですが、それだけでは二度は勝てません。上田城は南が川に削られた崖に面していて、攻め手が取りつける方向が最初から限られている。そのうえ城下町ごと罠に仕立ててあり、寄せ手は町に入った瞬間に袋のなかへ入ることになりました。この記事では、上田城が落ちなかった理由を地形と縄張の側から見ていきます。城の成り立ちや歴代城主については上田城の記事にまとめています。
- 第一次上田合戦は、二千ほどの兵で七千の徳川勢を退けた戦い
- 第二次上田合戦では、関ヶ原へ向かう徳川秀忠の本隊を城の前に釘づけにした
- 城の南は千曲川の分流に削られた崖。攻め口が北と東に限られる
- 城下町そのものが縄張の一部で、寄せ手を引きこんで叩く仕掛けだった
- 関ヶ原のあと城は破却され、いま建つ櫓と櫓門はそのあとの時代のもの
第一次上田合戦 ― 二千で七千を退ける

櫓門の手前にひらけた広場。左手に高い石垣がそそり立ち、正面の石段を上がると門をくぐる形になる。
きっかけは領地をめぐる約束違反でした。昌幸は上野の沼田領を手に入れていましたが、徳川と北条が和睦した際、沼田を北条へ渡せと命じられます。昌幸はこれを拒み、上杉景勝のもとへ人質を送って後ろ盾を得た。怒った家康は討伐軍を差し向けます。天正十三年、徳川方はおよそ七千。迎える真田方は二千に満たなかったといわれます。昌幸は籠城一辺倒ではなく、まず城下へ敵を引き入れました。狭い町の道で押し合いになったところへ横合いから討ちかかり、崩れて退く敵を追撃する。退路にあたる神川は増水していて、押し戻された徳川勢は川で多くを失いました。大軍が小勢に敗れる典型的な形で、しかもそれが地形の使い方によって起きている。昌幸が若いころ仕えた武田のやり方を、そのまま自分の城でやってみせた戦いでした。武田時代からの真田の歩みは真田氏本城や砥石城の記事で追えます。
第二次上田合戦 ― 秀忠の本隊を釘づけにする

桜の向こうに櫓と櫓門が並ぶ。石垣の上に建物が載る、近世の城の姿。
十五年後、関ヶ原へ向かう途中の徳川秀忠が、中山道を進みながら上田城の前に現れます。兵力はおよそ三万八千。一方、城に籠もる昌幸と次男の信繁(のちの幸村)は数千でした。昌幸はまず降伏すると見せかけて時を稼ぎ、次に城下へ誘い出して叩く。十五年前とよく似た手順です。秀忠は数日をこの城に費やし、結果として関ヶ原の本戦に間に合いませんでした。徳川の主力が決戦に加われなかったという事実だけを取れば、これは真田の側の大きな戦果です。もっとも、昌幸の長男・信之はこのとき徳川方にいました。父と弟が西軍、兄が東軍。家を残すために一族を二つに割るという判断で、結果としてこれが真田家を存続させます。信繁のその後については真田幸村(信繁)とは何者かと大坂の陣で詳しく扱っています。
なぜ落ちなかったのか ― 尼ヶ淵の崖

桜の枝の向こうに立つ二層の櫓。下は野面に近い石垣で、その足元を歩けるようになっている。
地図で見ると、上田城は千曲川のつくった河岸段丘の縁に建っています。城の南側は尼ヶ淵(あまがふち)と呼ばれ、川の分流が段丘を削ってできた崖がそのまま城の壁になっていました。ここから攻め上がることは、まずできません。西も谷で切れていて、残るのは北と東だけ。つまり攻め手は、昌幸があらかじめ用意した方角からしか近づけないのです。守る側にとって、敵がどこから来るかわかっているというのは、兵力差を一気に縮める条件になります。しかも城のすぐ北には太郎山の斜面が迫っていて、大軍を展開できるだけの平地がない。数で押すという徳川の最大の強みが、この地形の前では使えなくなる。上田城が二度とも小勢で勝てた一番の理由は、地の利を先に押さえていたことでした。
城下町ごと罠にする ― 昌幸の縄張
上田城のもう一つの特徴は、城だけで完結していないことです。城の東に広がる城下町は、道がまっすぐ通っておらず、要所で鍵の手に折れています。城へ向かって進んだつもりが、いつのまにか横を向かされている。このような町割りは城下町では珍しくありませんが、上田の場合はそれが実戦で使われました。寄せ手を町へ引きこみ、折れ曲がった道で隊列を細切れにし、伸びきったところへ横から打ちかかる。第一次でも第二次でも、真田方は城壁の内側でじっと耐えるのではなく、外へ出て戦っています。籠城というより、城を背にした野戦に近い。備えの厚さで敵を止めるのではなく、敵の動きを自分の都合のよい形に変えてしまうというやり方で、これは同じころ山中城のように地形をそのまま武器にした城とも、篠山城のように馬出で機械的に止める城とも違う、真田らしい発想でした。
破却と、いま建つ櫓

石垣の上に載る櫓門と、その両脇に並ぶ櫓。白漆喰の壁に黒い格子がはまり、軒が幾重にも重なる。
関ヶ原の後、昌幸と信繁は紀伊の九度山へ流され、上田城は徹底的に壊されました。建物は取り払われ、堀も埋められて、城としての形が消されます。徳川にとって二度も苦杯をなめさせた城ですから、残しておきたくなかったのでしょう。徳川方についた長男の信之は家を守りましたが、城の修復を願い出ても許されず、やがて松代へ移されます。上田に入ったのは仙石忠政で、この家がようやく修復の許可を得て、いまに残る石垣と櫓の普請を始めました。忠政の父はあの仙石秀久です。ところが普請の途中で忠政が没し、工事は中断したまま終わりました。だから上田城には天守がありません。現在建っているうち、西櫓はこのときの建物がそのまま残ったもので、南櫓と北櫓は明治に民間へ払い下げられて市内で別の建物として使われていたのを、のちに買い戻して元の位置へ戻したものです。東虎口の櫓門は木造で復元されました。門の脇の石垣には真田石と呼ばれる巨石があって、信之が松代へ移るときに父の形見として持っていこうとしたが動かせなかった、という話が伝わっています。
訪ね方と見どころ
所在地は長野県上田市二の丸。上田駅から歩いて十五分ほどで、日本100名城の二十七番に選ばれています。順路としては、まず東虎口の櫓門から入って真田石を見て、本丸跡の真田神社に寄り、西櫓まで足を伸ばす。ここまでは誰でも歩きますが、この城の本質を知りたいなら、そのあとで城の南側へ回ってください。尼ヶ淵側から見上げると、櫓が乗った石垣の下に段丘の崖がそのまま続いていて、ここが攻められない側だということが体でわかります。上から見るだけでは絶対にわからない部分です。桜の季節には本丸のまわりが一面の花になり、春の上田城は写真のとおり城と桜が重なります。城下町の通りが折れ曲がっているところも、歩いてみると縄張の話がぐっと具体的になるはずです。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。
上田城跡・場所とアクセス
旅の計画に
ここを歩くコースがあります
姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」に、行程・所要時間・駐車場までまとめた実走コースがあります。
上州・信州・甲州 戦国の城と名湯めぐり ― 金山城・高崎観音・箕輪城・富岡製糸場・草(1泊2日)
〒386-0026 長野県上田市二の丸6263番地イ
城の基本用語:曲輪・堀・土塁・虎口・馬出をイラストで読み解く
案内板に出てくる言葉を、断面図と配置図でまとめました。
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