真田昌幸とは|「表裏比興の者」と呼ばれた知将 ─ 主君を替えて真田家を守った生涯と、上田合戦・沼田問題・九度山

上田城/アクセス・地図・場所 真田昌幸が築城し徳川軍を散々苦しめた上田城
この記事のポイント
  • 真田昌幸(さなだ まさゆき)は、天文16年(1547)に生まれ、慶長16年(1611)に65歳で亡くなった信濃の武将です。真田幸綱(幸隆)の三男で、真田信之・信繁(幸村)の父です
  • 若いころは武田信玄の側近として仕え、長篠の戦いで二人の兄が戦死したため真田家を継ぎました
  • 武田家が滅びると、織田、上杉、北条、徳川、そして豊臣と、主君を次々に替えながら家を守りました。秀吉が昌幸を「表裏比興の者」と評したとする史料もあります
  • 上田城で徳川の大軍を二度退けた、戦国屈指の知将です。沼田をめぐる争いでは、徳川・北条・豊臣の三者を相手に一歩も引きませんでした

真田昌幸は、小さな国衆の当主でありながら、徳川家康・北条氏政・豊臣秀吉という大大名を相手に渡り合った武将です。『豊臣兄弟!』第39回以降の沼田問題でも、物語のカギを握る人物になります。この記事では、昌幸の生涯を、武田家臣の時代から関ヶ原、九度山での最期までたどります。真田家の人びとの全体像は真田家とはで紹介しています。

目次

武田信玄の側近として ─ 武藤喜兵衛

昌幸は天文16年(1547)、信濃の小県(長野県上田市周辺)を本拠とする真田幸綱(幸隆)の三男として生まれました。幼いころ、人質として甲斐の武田信玄のもとに送られ、信玄の身の回りに仕える近習として育ちます。やがて武田家の親類である武藤家の養子となり、「武藤喜兵衛」と名のりました。信玄のそばで、戦や政治のやり方を学んだことが、のちの昌幸を形づくります。

天正3年(1575)、長篠の戦いで兄の信綱と昌輝がそろって戦死します。昌幸は真田家に戻って家を継ぎ、武田勝頼のもとで上野の攻略を任されました。天正8年(1580)には沼田城を手に入れ、名胡桃城や岩櫃城とともに、上野北部を真田の領地とします(沼田城/岩櫃城)。

上田城
真田昌幸が築いた上田城(上田城)

主君を次々に替える ─ 天正壬午の乱

天正10年(1582)、武田家が織田信長に滅ぼされると、昌幸は信長に従いました。ところが同じ年に本能寺の変で信長が倒れると、甲斐・信濃・上野は主のいない土地となり、徳川・北条・上杉が奪い合う「天正壬午の乱」が起こります。昌幸はこのわずか数か月のあいだに、上杉、北条、徳川と次々に従う相手を替え、真田の領地を守りました。

時期 従った相手
〜天正10年3月 武田家
天正10年3月〜 織田家(滝川一益)
天正10年6月〜 上杉家
天正10年7月〜 北条家
天正10年9月〜 徳川家
天正13年〜 上杉家、のち豊臣家
▽ よく語られる話
真田昌幸は、主君を平気で裏切る信用ならない武将だった。
▼ 史実ではこうです
昌幸が主君を替えたのは、武田家が滅び、大大名が真田の小さな領地を奪い合うなかでのことでした。どこか一つの家に頼りきれば、領地を取り上げられかねない状況で、昌幸は家と領地を守るために、そのときどきで最も頼れる相手を選んだのです。秀吉が昌幸を「表裏比興の者」と評したとする書状が知られていますが、これは「油断ならないしたたか者」という意味で、そのしたたかさこそが真田家を生き残らせました。

上田城と第一次上田合戦 ─ 徳川を退ける

徳川に従った昌幸は、天正11年(1583)ごろ、徳川の支援を受けて上田城を築きます。ところが徳川と北条が和睦し、家康が「沼田を北条に渡せ」と求めると、昌幸はこれを拒んで徳川と手を切り、上杉景勝を頼りました。このとき次男の信繁を人質として上杉家に送っています。

天正13年(1585)閏8月、家康は大軍で上田城を攻めますが、昌幸は城下に敵を引き込んで反撃し、徳川軍に大きな損害を与えて退けました。これが第一次上田合戦です(第一次・第二次上田合戦)。この年の11月、家康の重臣・石川数正が秀吉のもとへ走り、秀吉は家康攻めの準備を進めます。昌幸はこの流れのなかで、豊臣の大名として扱われるようになりました。

沼田問題 ─ 北条と秀吉のあいだで

沼田をめぐる争いは、やがて秀吉が裁く問題になります。天正17年(1589)、秀吉は沼田領の三分の二を北条に、名胡桃城を含む三分の一を真田に分けました。その年の11月、北条方が名胡桃城を奪ったことで、秀吉は北条攻めを決めます。北条家の滅亡後、沼田は名胡桃も含めてすべて真田のものとなり、長男の信幸(信之)が沼田城主となりました。名胡桃城事件には「秀吉と真田の罠だった」とする説もあります(名胡桃城事件とは/名胡桃城)。

犬伏の別れと第二次上田合戦

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの直前、昌幸は下野の犬伏(栃木県佐野市)で、長男の信幸、次男の信繁と話し合い、親子が東西に分かれることを決めました。信幸は家康の重臣・本多忠勝の娘を妻としていたため東軍に、昌幸と、石田三成と縁の深い大谷吉継の娘を妻とする信繁は西軍につきます。どちらが勝っても真田家が残るように、という判断だったとも伝わります。

昌幸と信繁は上田城に籠もり、中山道を進む徳川秀忠の大軍を足止めしました。秀忠は関ヶ原の決戦に間に合わず、家康から厳しく叱られます。第二次上田合戦です。しかし関ヶ原で西軍が敗れたため、昌幸と信繁は死罪を言い渡されるところでしたが、信幸の嘆願で命を助けられ、紀伊の九度山に流されました。

九度山での最期

九度山での暮らしは十年あまり続きました。昌幸はいつか許される日を待ちましたが、その願いはかなわず、慶長16年(1611)、65歳で亡くなります。その3年後、九度山を抜け出した信繁は大坂城に入り、大坂の陣で「日本一の兵」と呼ばれる活躍を見せることになります(大坂の陣をわかりやすく解説)。

『豊臣兄弟!』の真田昌幸

『豊臣兄弟!』では、第39回で秀吉が「徳川と真田の争い」をやめさせようと動くなど、真田昌幸の存在が物語に大きく関わってきます。昌幸の配役については、本記事の執筆時点で筆者は確認できていません。発表を確認しだい、この記事に追記します。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第39回では、秀吉が徳川と真田の争いをやめさせるため石川数正を呼び寄せると伝えられています。昌幸が画面に登場するのか、名前だけが語られるのかにも注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 真田昌幸は何をした人ですか?
A. 信濃の上田城を拠点に、徳川家康の大軍を二度退けた武将です。武田家の滅亡後、主君を替えながら真田家を守り、沼田をめぐって徳川・北条・豊臣と渡り合いました。

Q. 「表裏比興の者」とはどういう意味ですか?
A. 「油断ならない、したたかな者」という意味です。秀吉が昌幸をそう評したとする書状が知られています。

Q. 真田昌幸はどこで亡くなったのですか?
A. 関ヶ原のあと流された紀伊の九度山で、慶長16年(1611)に亡くなりました。

Q. 真田昌幸の息子は誰ですか?
A. 長男が真田信之(信幸)、次男が真田信繁(幸村)です。

まとめ

真田昌幸は、武田信玄のもとで学び、武田家の滅亡後は主君を次々に替えながら、小さな真田家と領地を守り抜いた武将でした。上田城で徳川の大軍を二度退け、沼田をめぐっては北条・徳川・豊臣を相手に一歩も引きませんでした。そのしたたかさが、真田家を江戸時代の大名として残すことにつながります。

参考:丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社新書/平山優『真田三代』PHP新書/『真田家文書』

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