淀殿はなぜ豊臣家を仕切れたのか:家老のいない豊臣家、片桐且元の退去、大野治長と女房衆 ─ 北条政子・寿桂尼・おつやの方ら「家を動かした女性たち」と比べる

金地の襖の広間で、上座の女性に侍女たちが書状を広げて意見を述べ、下座で家臣が困惑するイメージ(イラスト)

秀吉の死後、豊臣家を事実上動かしていたのは、秀頼の母・淀殿(茶々)でした。戦国の女性が軍議に加わり、家の進む道を決めるのは異例のことです。それができたのは、淀殿が特別に権力を好んだからというより、豊臣家に「大人の身内」も「代々の家老」もいなかったからだと筆者は考えています。秀長も秀次も北政所もいない大坂城で、幼い当主を守れるのは生母しかいませんでした。そして家康の承認を受けた家老・片桐且元を信じきれず、頼ったのが乳母の一族・大野治長と、大蔵卿局ら女房衆だったのです。北条政子、寿桂尼、岩村城のおつやの方など、「家を動かした女性たち」と比べながら、淀殿の権力の正体を考えます。

※アイキャッチの絵はイメージ(イラスト)です。

大阪城の堀と天守
大阪城。秀吉の死後、秀頼と淀殿はこの城(当時は豊臣の大坂城)で豊臣家を守ることになります
目次

前提 ─ 戦国の女性は家の政治に関われなかったのか

戦国時代の女性が政治から完全に締め出されていたわけではありません。大名家の正室は「奥」と呼ばれる家の内側を取り仕切り、贈り物のやりとりや他家との交渉、人質の受け入れなどを担いました。夫や息子が幼い、あるいは亡くなったときには、母や妻が当主の代わりに文書を出して家を支えた例もあります。

秀吉の正室・寧々も、秀吉が出陣しているあいだは留守を預かり、大名たちの取次役を務めていました(寧々(ねね・北政所)とは)。ただ、それでも軍議の席に女性が加わり、合戦の方針まで左右するのは例外です。淀殿のケースが特別に見えるのは、そこまで踏み込んだからです。

理由① ─ 豊臣家に「大人の身内」がいなかった

秀吉が亡くなった慶長3年(1598)、豊臣家を見渡すと、秀頼を支えられる身内がほとんど残っていませんでした。

普通の大名家なら、当主が幼いときは叔父や一門の重鎮が後見に立ちます。しかし農民の出から一代で天下を取った豊臣家には、そうした一門も、代々仕える譜代の家臣団もありませんでした。秀吉と秀長の兄弟でつくった家は、二人がいなくなると、支える柱そのものを失ったのです。秀吉の子どもと後継ぎ候補の顔ぶれは秀吉に実子はいたのかでまとめています。

理由② ─ 秀吉が用意した後見の仕組みが壊れた

秀吉もこの弱さは分かっていました。だからこそ死の前に、徳川家康・前田利家ら五大老と、石田三成ら五奉行に秀頼の後見を託し、利家を秀頼の傅役(もりやく)としました。

ところが慶長4年(1599)閏3月に利家が亡くなると、五大老の均衡は崩れ、家康の力が突出していきます。翌年の関ヶ原の戦いで三成ら奉行衆が敗れると、秀吉が用意した後見の仕組みは事実上なくなりました。残ったのは、まだ八歳の当主と、その生母だけです。関ヶ原での豊臣家の立ち位置は茶々(淀殿)の生涯でくわしく書いています。

理由③ ─ 家老は「家康に認められた人」だった

関ヶ原のあと、豊臣家の家老として家の実務を担ったのは片桐且元です。賤ヶ岳の七本槍の一人で、秀吉子飼いの武将でした(賤ヶ岳の七本槍とは)。秀吉の叔母の夫にあたる小出秀政も秀頼のそばにいましたが、慶長9年(1604)に亡くなっています。

且元は、家康の了解のもとで豊臣家の家老を務め、徳川との交渉の窓口になりました。徳川から見れば頼れる交渉相手ですが、淀殿の側から見れば、徳川とつながりすぎている家老でもあります。主家を守るために徳川に歩み寄ろうとすればするほど、大坂城の中では「徳川の回し者ではないか」と疑われやすい立場でした。

家老を信じきれない当主の母が、誰を頼るか。答えは、自分のいちばん近くにいる人たちでした。

理由④ ─ 乳母の一族と女房衆 ─ 大野治長と大蔵卿局

淀殿の側近の中心にいたのが、乳母の大蔵卿局と、その息子の大野治長です。治長は茶々の乳兄弟にあたり、もとは秀吉の馬廻でした。幼いころから身近にいた乳母の一族は、淀殿にとっていちばん信頼できる人たちだったはずです。

大蔵卿局のほかにも、渡辺糺の母の正栄尼、饗庭局、木村重成の母の右京大夫局など、淀殿に仕える女房たちが奥にいました。彼女たちは使者として外と交渉し、奥の意見をまとめる役目も果たしています。外の家老ではなく、奥の女房衆と乳母の子が豊臣家の決定に深く関わるようになったのは、こうした事情からです。

▽ よく語られる話
孝蔵主ら淀殿の女房衆が、軍議にまで加わって豊臣家の方針を決めていた。
▼ 史実ではこうです
孝蔵主は淀殿ではなく北政所(寧々)に仕えた筆頭の女房で、のちに徳川方へ移っています。淀殿の側近の女房は大蔵卿局・正栄尼・饗庭局らです。彼女たちが使者や取次として大きな役割を果たしたのは確かですが、軍議の場で方針を決めていたという話の多くは、江戸時代の軍記物による描写です。

方広寺鐘銘事件 ─ 二つの使者と、且元の退去

この構図がいちばんはっきり表れたのが、慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件です。豊臣家が再建した京都・方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字を、家康が問題にしました(方広寺の大仏とは)。

弁明のため、豊臣家は二つの使者を駿府の家康のもとへ送ります。家老の片桐且元と、淀殿の側近の大蔵卿局・正栄尼です。家康は且元には厳しい態度をとる一方、大蔵卿局らには穏やかに接したといわれます。大坂に戻った且元は、豊臣家が生き残るための条件として、秀頼の江戸参勤、淀殿を人質として江戸へ送ること、大坂城を出て国替えすることのいずれかを受け入れるべきだと考えました。ところが大蔵卿局らの報告は「家康は怒っていない」というものでした。

二つの報告が食い違ったことで、且元は徳川に通じていると疑われ、身の危険を感じて10月1日に大坂城を退去し、摂津の茨木城に入りました。豊臣家は、徳川との交渉の窓口になれるただ一人の家老を失ったのです。この直後、家康は大坂攻めを決め、大坂冬の陣が始まります。

大坂の陣の軍議 ─ 家老たちは何をしていたのか

且元が去ったあと、大坂城の中心に立ったのは大野治長と、淀殿の叔父にあたる織田有楽斎(長益)でした。有楽斎は信長の弟で、茶々にとっては母方の叔父です。秀頼直属の旗本である七手組の組頭たちもいましたが、全体を束ねる経験豊かな家老はいませんでした。

実際に大坂城で戦ったのは、真田信繁や後藤又兵衛、毛利勝永ら、関ヶ原のあと浪人となって集まった武将たちです。豊臣家の家臣団は、外から来た浪人衆を束ねる力を持っていませんでした。

▽ よく語られる話
真田信繁や後藤又兵衛が城外に打って出る策を唱えたのに、淀殿と大野治長が退けて籠城に決めた。豊臣家を滅ぼしたのは淀殿のわがままだった。
▼ 史実ではこうです
籠城か出撃かをめぐる軍議の場面は、『難波戦記』など後世の軍記物で広まったもので、誰が何を主張したかを確かめられる同時代の史料は多くありません。大軍を相手に、天下一の堅城で守りを固めるのは当時として自然な判断でもありました。淀殿が武具を身につけて城内を見回ったという話も伝わりますが、これも確かな記録とはいえません。

冬の陣の和議では、茶々の妹の初が交渉にあたり、有楽斎と治長もこれを進めました(初(常高院)とは)。有楽斎は夏の陣の前に大坂城を去っています。「家老連中は何をしていたのか」という問いへの答えは、家老にあたる人は、豊臣家の中に育っていなかった、ということになるでしょう。大坂の陣の流れは大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説で整理しています。

秀頼は飾りだったのか

淀殿が豊臣家を仕切っていたというと、秀頼は母の言いなりだったように聞こえます。しかし秀吉の死のとき六歳だった秀頼も、大坂の陣のころには二十代の青年でした。慶長16年(1611)の二条城での家康との会見では、堂々とした姿が家康に強い印象を与えたといわれ、各地の寺社の再建も秀頼の名で進められています。

近年の研究では、成人した秀頼が当主として判断し、淀殿はそれを後ろから支える後見役だったとする見方も出ています。「淀殿が独断で豊臣家を滅ぼした」という語り方は、徳川の世に書かれた物語の影響が大きいのです(茶々(淀殿)は本当に悪女だったのか)。

比べてみる ─ 家を動かした女性たち

当主の母や妻が家を支えた例は、淀殿だけではありません。時代の違う例も含めて、代表的な女性たちと比べてみます。

名前 時代 立場 支えになった「外の力」 したこと
北条政子 鎌倉時代 源頼朝の妻・将軍の母 実家の北条氏と御家人 幼い将軍候補の後見として幕府を主導
日野富子 室町時代 足利義政の妻・義尚の母 実家の日野家と財力 将軍家の家政と財政を握る
洞松院 戦国初期 赤松政則の妻 赤松家の家臣団 幼い義村の後見として文書を出す
寿桂尼 戦国 今川氏親の妻 今川家の家臣団 印判状で領国を治めた「女戦国大名」
おつやの方 戦国 遠山景任の妻・信長の叔母 織田家の後ろ盾 岩村城の女城主
井伊直虎 戦国 井伊家の女性領主(男性説も) 井伊家の家臣 幼い直政を守り家をつなぐ
立花誾千代 戦国 立花道雪の娘 父・道雪 七歳で立花城の城督に
お福(円融院) 戦国 宇喜多直家の妻・秀家の母 秀吉と宇喜多家の家老 幼い当主の母として家を支える
淀殿(茶々) 安土桃山〜江戸初め 秀吉の妻・秀頼の母 実家は滅亡、一門・譜代なし 乳母の一族と女房衆を頼り、豊臣家の決定に関わる

北条政子 ─ 「尼将軍」と呼ばれた将軍の母

鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻で、二代頼家・三代実朝の母です。実朝が亡くなったあと、幼い将軍候補の後見として幕府を動かし、「尼将軍」と呼ばれました。承久の乱では、動揺する御家人たちに頼朝の恩を説いて結束させたと『吾妻鏡』は伝えます。淀殿と違うのは、政子の後ろには実家の北条氏と、頼朝以来の御家人たちという強い支えがあったことです。

寿桂尼 ─ 「女戦国大名」と呼ばれた今川家の母

駿河の今川氏親の正室で、氏親の死後、幼い息子の氏輝に代わって政務をとりました。「帰(とつぐ)」の字を刻んだ自分の印を押した文書を出して領国を治め、「女戦国大名」とも呼ばれます。のちに義元の代まで今川家を支えました。寿桂尼には、今川家の家臣団と、文書で領国を動かす仕組みがありました。

おつやの方 ─ 岩村城の女城主

織田信長の叔母で、美濃の岩村城主・遠山景任の妻です。夫が亡くなると、信長の子を養子に迎えて城主の役目を担い、「女城主」と呼ばれました。やがて武田方の秋山虎繁に城を囲まれると、虎繁と結婚する形で城を開き、織田と武田のはざまで悲劇的な最期を迎えます。女性が城を預かり、家の存続のために大きな決断を下した例です。

井伊直虎 ─ 井伊谷を預かった「女地頭」

遠江の井伊谷で、当主が次々に亡くなるなか、幼い井伊直政を守って家を支えた人物です。「次郎法師」として知られ、女性の領主として語られます。ただし直虎を男性とする史料もあり、人物像には議論があります。

洞松院 ─ 播磨の赤松家を支えた後見

管領・細川勝元の娘で、播磨の赤松政則の妻です。夫の死後、幼い赤松義村の後見として自分の黒印を押した文書を出し、赤松家の政務を担いました。戦国初期の「当主の母が家を動かす」典型例です。

立花誾千代と妙林尼 ─ 九州の女性たち

立花誾千代は、父の立花道雪から七歳で立花城の城督を譲られた女性です。のちに宗茂を婿に迎えました(秀吉が引き抜いた・引き抜こうとした武将たち)。妙林尼は大友家臣・吉岡家の女性で、夫の死後、島津軍に攻められた鶴崎城を守ったと伝わります。

お福(円融院) ─ 宇喜多秀家の母

備前の宇喜多直家の妻で、幼くして家を継いだ秀家の母です。秀吉の庇護のもとで宇喜多家を支えましたが、宇喜多家には戸川・長船といった家老家があり、家臣団を直接動かす立場ではありませんでした。母が後見しても、家の実務は家老が担う ─ これが戦国大名家のふつうの姿です。

筆者の見方 ─ 淀殿は「仕切れた」のではなく「仕切るしかなかった」

ここからは筆者の見方です。北条政子には実家の北条氏と御家人がいて、寿桂尼には今川家の家臣団があり、お福には宇喜多家の家老たちがいました。家を動かした女性たちの多くには、彼女を支える「外の力」があったのです。

淀殿にはそれがありませんでした。実家の浅井家は滅び、男子の弟・井頼は他家の家臣にすぎません(浅井井頼とは)。豊臣家には一門も譜代もなく、家老は徳川とのつながりを疑われる人でした。頼れるのは、奥の女房衆と乳母の子だけ。淀殿が豊臣家の行く末を決める場に立ったのは、権力を握りたかったからではなく、ほかに決められる人がいなかったからだと考えます。

ただ、奥の人たちは外の政治と軍事の駆け引きに慣れていません。方広寺鐘銘事件で家康の真意を見誤り、家老の且元を失ったのは、その弱さが表に出た瞬間でした。豊臣家の滅亡は、一人の女性の性格ではなく、一代で築かれた家の構造そのものに原因があったといえるでしょう。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」で、茶々(井上和)は秀吉の妻になるかどうかの分かれ道に立ちます。物語はまだ秀吉・秀長の存命中ですが、秀長がいなくなったあとの豊臣家の弱さは、この先の回で少しずつ浮かび上がってくるはずです。放送後は、この枠を実際の描かれ方に差し替えます。

よくある質問

Q. 淀殿は豊臣家の当主だったのですか?
A. 当主は秀頼です。淀殿は当主の生母として後見の立場にありましたが、豊臣家に一門や譜代の家老がいなかったため、実際には家の決定に大きな影響を持ちました。

Q. 豊臣家の家老は誰だったのですか?
A. 関ヶ原のあとは片桐且元が家老として実務と徳川との交渉を担いました。方広寺鐘銘事件で疑われて大坂城を去ったあとは、大野治長が中心になりました。

Q. 孝蔵主は淀殿の侍女ですか?
A. いいえ。孝蔵主は北政所(寧々)に仕えた筆頭の女房で、のちに徳川方へ移りました。淀殿の側近の女房は、大蔵卿局・正栄尼・饗庭局などです。北政所については寧々(ねね・北政所)とはをどうぞ。

Q. 淀殿のように家を動かした女性はほかにいますか?
A. 鎌倉時代の北条政子、今川家の寿桂尼、岩村城のおつやの方、播磨赤松家の洞松院などが知られています。

まとめ

淀殿が豊臣家を仕切れたのは、秀頼の母という立場に加えて、豊臣家に一門も譜代の家老もおらず、秀吉が用意した後見の仕組みも関ヶ原で崩れていたからでした。家康に認められた家老・片桐且元を信じきれなかった淀殿は、乳母の一族と女房衆を頼り、方広寺鐘銘事件で且元を失います。北条政子や寿桂尼のように「外の力」を持たなかったことが、淀殿と豊臣家の運命を決めたといえるでしょう。『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」の史実は第39回「茶々の本心」あらすじ予想と史実でまとめています。

参考:福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房/曽根勇二『片桐且元』吉川弘文館/黒田基樹『羽柴家崩壊』平凡社/静岡市「寿桂尼」/『吾妻鏡』

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