- 秀長は天正19年(1591)1月22日、大和郡山城で52歳で亡くなりました。史料が伝えるのは「病死」という一語だけで、病名は記されていません
- 体の不調は突然ではありません。亡くなる数年前から湯治を重ね、回復と悪化をくりかえしていました
- 天正18年の小田原攻めには出陣できず、畿内の留守を預かります。天下統一の総仕上げに、秀吉がもっとも頼った弟はいませんでした
- 労咳(肺結核)、霍乱、過労など説はありますが、いずれも後世の推測です。毒殺を疑う話に根拠はありません
- 秀長の死の翌月に千利休が切腹し、8月には鶴松が亡くなります。秀吉を止める人がいなくなった年でした
豊臣秀長の死因は、はっきりしていません。『多聞院日記』をはじめとする当時の記録が伝えるのは、天正19年(1591)1月22日に大和郡山城で52歳で亡くなったということと、その前から長く病んでいたということだけです。病名を記した史料はなく、労咳や霍乱といった説はいずれも後の人が症状や経過から推し量ったものにすぎません。この記事では、秀長の体に何が起きていたのかを年を追ってたどり、どこまでが記録で、どこからが推測なのかを分けて整理します。

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秀長はいつから病んでいたのか
秀長の体に異変が見えはじめるのは、天下統一が完成する何年も前のことです。天正14年(1586)ごろにはすでに体調を崩しやすくなっていたとみられ、以後たびたび湯治に出かけています。『多聞院日記』には、湯治中の秀長を奈良の僧たちが見舞ったことが書き留められています。
この時期の秀長は、九州攻めを控えた豊臣政権の要です。大和・紀伊・和泉の百万石を預かり、秀吉と諸大名のあいだを取り持つ立場にありました。秀長の家臣団を見ると、戦だけでなく検地も寺社との交渉も抱えていたことが分かります。休める立場ではなかったのです。
有馬温泉での湯治
記録に残る湯治のひとつが、天正17年(1589)11月4日から12月3日までのおよそ1か月、摂津の有馬温泉で過ごしたものです。1か月という長さは、物見遊山ではありません。体を治すために通った滞在です。しかもこの前年にも湯治をしていたと伝わりますから、すでに長くつきあう不調があったとみるのが自然でしょう。
有馬は兄の秀吉も好んだ湯でした。兄は遊興として、弟は療養として同じ湯に通っていたことになります。秀吉がこの時期にどんな催しをしていたかは北野大茶湯・名護屋の瓜畑遊び・醍醐の花見をどうぞ。
小田原に行けなかった天正18年
天正18年(1590)の正月、秀長は年頭の挨拶に出ることができませんでした。かわりに養子の秀保が出仕します。公の場に出られないほど悪かったということです。
3月1日、秀吉は小田原へ向けて出陣します。天下統一の総仕上げでした。しかし秀長は加われません。畿内の留守を預かる役に回りました。3月3日には秀長が死んだという噂まで流れたと伝わります。中国攻めも四国攻めも九州攻めも、重い役を担ってきた弟が、最後の戦にいなかったのです。秀吉は寺社に弟の回復を祈らせています。
回復と悪化のくりかえし
天正18年の春以降、秀長は一度持ち直します。4月に大和へ帰り、7月には兄を迎えるために上洛もしました。ところが9月、郡山へ戻った秀長は再び床につきます。10月には秀吉がわざわざ郡山まで見舞いに来ました。天下人が大坂を離れて弟を見舞うというのは、それだけ悪かったということでしょう。
年が明けても、よくなったり悪くなったりが続きます。天正19年1月10日、秀長は紀伊熊野の寺へ書状を出しました。これが具体的に動いた最後の記録とされます。その直後から重くなり、養子・秀保と娘の婚約が急いで整えられました。家の行く末を固める動きです。秀長の家がその後どうなったかは豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのかで書いています。
天正19年1月22日、郡山城
天正19年(1591)1月22日、秀長は大和郡山城で亡くなりました。52歳。官位は従二位権大納言で、人びとは「大和大納言」と呼んでいました。
『多聞院日記』を書いた興福寺の僧・英俊は、秀長の死に際して郡山城に米・銭・金銀が満ちていたことを記し、「盛者必衰」の言葉を添えています。ためこんだ富が家を危うくするのではないか、という見方です。英俊の心配は当たり、秀長の家は4年後に絶えました。その年に何が起きたのかは天正十九年に何が起きたのかにまとめています。
語られてきた説を並べる
病名を記した史料はありません。そのうえで語られてきた説を、根拠と弱いところで並べます。
| 説 | 根拠とされるもの | 弱いところ |
|---|---|---|
| 労咳(肺結核) | 数年にわたって湯治を重ね、回復と悪化をくりかえした経過が慢性の病と合う | 咳や喀血といった具体的な症状の記録が残っていない |
| 霍乱(急性の胃腸の病) | 最期が比較的急だったとみる立場から | 5年にわたる闘病の経過と合わない。急性の病では説明できない |
| 過労 | 中国・四国・九州と大きな戦を担い、大和・紀伊・和泉の政務も抱えていた | 過労は病名ではない。体を弱らせた背景としては考えられる |
| 毒殺 | 秀吉との不和を疑う俗説から | 不和を示す確かな記録がなく、秀吉は寺社に回復を祈らせ、自ら見舞いにも来ている |
こうして並べると、長い経過と合うのは慢性の病だということだけが見えてきます。ただしそれ以上は分かりません。兄の秀吉の死因も同じように決まっていないのは豊臣秀吉の死因は何だったのかで書きました。
秀長の死が変えたもの
秀長が亡くなったあと、豊臣家には立て続けに出来事が起こります。
- 天正19年2月 千利休が切腹を命じられる
- 同年8月 秀吉の跡継ぎ・鶴松が3歳で亡くなる
- 同年末 秀吉が関白を秀次に譲り、太閤となる
- 翌年 朝鮮への出兵がはじまる
秀長は、兄に対してものを言える数少ない人でした。表向きの政治は秀長、内々のことは利休 ─ 大友宗麟に伝えられたというこの言葉のとおり、二人は秀吉の手綱でした。その二人が1年のうちに消えたのです。利休がなぜ死ななければならなかったのかは豊臣秀吉はなぜ千利休を切腹させたのかで詳しく書いています。
秀長の最晩年には、家臣の吉川平介が熊野の材木代を着服した事件も起きていました。秀吉は秀長の正月の拝謁を許さなかったと伝わります。病んだ弟に、兄は最後まで厳しかったのです。その経緯は秀吉と秀長は仲たがいしたのかにまとめました。
大納言塚 ─ 秀長はどこに眠るのか
秀長の墓は、大和郡山市箕山町の大納言塚と伝わります。戒名は大光院殿前亜相春岳紹栄大居士。京の大徳寺塔頭・大光院と、郡山の春岳院が秀長ゆかりの寺です。
兄の秀吉は死後に豊国社に祀られ、やがて徳川の世に社を壊されました。弟の塚は壊されることなく、いまも郡山の町なかに残っています。秀長が治めた城とその後は大和郡山城で紹介しています。

よくある疑問
Q. 豊臣秀長の死因は何ですか?
A. 分かっていません。史料は「病死」と伝えるだけで病名を記していません。労咳(肺結核)や過労が挙げられますが、いずれも後世の推測です。
Q. 何歳で亡くなったのですか?
A. 52歳です。天正19年(1591)1月22日、大和郡山城で亡くなりました。
Q. いつから病気だったのですか?
A. 天正14年ごろから体調を崩しやすくなり、たびたび湯治に出ています。天正17年には有馬温泉で1か月を過ごしました。
Q. 小田原攻めに参加しなかったのはなぜですか?
A. 病のためです。正月の挨拶にも出られず、畿内の留守を預かりました。
Q. 秀吉に毒を盛られたという話は本当ですか?
A. 根拠はありません。秀吉は寺社に回復を祈らせ、郡山まで見舞いにも来ています。
Q. 秀長が長生きしていたら歴史は変わりましたか?
A. 利休の切腹も朝鮮出兵も秀長の死の直後に起きています。兄を止められる人だったことは確かです。
まとめ
豊臣秀長の死因は特定されていません。分かっているのは、天正14年ごろから体を壊しはじめ、湯治を重ね、回復と悪化をくりかえしたすえに、天正19年正月22日、郡山城で52歳で亡くなったということです。労咳、霍乱、過労という説はありますが、どれも症状の記録に裏づけられたものではありません。
ただ、経過だけははっきりしています。秀長は5年近く病をかかえたまま、百万石の政務と兄の補佐を続けていました。小田原に行けなかった無念も、郡山で見舞いを受けた日のことも、記録は淡々と伝えるだけです。その弟を失ってから、秀吉を止める人はいなくなりました。
参考:『多聞院日記』/談山神社文書/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書

