秀吉に実子はいたのか:長浜の石松丸、鶴松、秀頼 ─ 『豊臣兄弟!』で茶々が求められた「後継者」の史実

長浜城の模擬天守(長浜城歴史博物館)
この記事のポイント
  • 秀吉の実子として確かなのは、茶々(淀殿)が産んだ鶴松と秀頼の二人です。正室の寧々とのあいだに子はいませんでした
  • 長浜城主のころ、「石松丸」という男子がいたことが記録に残り、天正4年(1576)10月に亡くなっています。ただし、実子か養子かは研究者のあいだでも意見が分かれています
  • 秀吉は、信長の四男・於次秀勝や、甥の秀次、宇喜多秀家、家康の次男・於義丸(結城秀康)など、何人もの養子を迎えました
  • 天正13年(1585)12月に於次秀勝が亡くなったことで、織田の血を引く跡継ぎ候補がいなくなります。第39回の予告にある「織田の血を引く茶々」という言葉の背景には、この事情があります

『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」では、秀長が秀吉に、後継者となる実子をもうけるため茶々を迎えるよう勧めると予告されています。天下人となった秀吉は、なぜそれほど跡継ぎに困っていたのでしょうか。そもそも秀吉に実の子はいたのでしょうか。この記事では、記録に残る秀吉の子どもたちと養子たちを整理します。秀長が茶々を勧めたという話の真偽は秀長は本当に秀吉に茶々を勧めたのかで確かめています。

目次

結論 ─ 確かな実子は鶴松と秀頼の二人

秀吉の実の子として確かなのは、茶々が産んだ鶴松(天正17年生まれ)と秀頼(文禄2年生まれ)の二人です。正室の寧々(のちの北政所・高台院)とのあいだには、子は生まれませんでした。秀吉は五十歳を過ぎるまで跡継ぎとなる実子を得られず、そのために何人もの養子を迎えることになります。

長浜城主のころの「石松丸」 ─ 実子か養子か

豊公園から見た長浜城
豊公園から見た長浜城。秀吉が初めて城主となった地で、石松丸の記録が残っています

秀吉が初めて城主となった長浜(滋賀県長浜市)には、「石松丸」という男子の記録が残っています。竹生島(宝厳寺)の奉加帳に秀吉の家族として石松丸の名が見え、長浜の妙法寺には「本光院朝覚居士」の位牌と、天正4年(1576)10月14日の銘がある供養塔が伝わります。石松丸は幼くして亡くなり、のちに「秀勝」の名で呼ばれるようになりました(長浜城)。

石松丸が秀吉の実の子かどうかは、研究者のあいだでも意見が分かれています。秀吉がのちに養子たちに何度も「秀勝」の名をつけたことから、亡くした実子への思いの表れとみて実子とする説がある一方、養子だったとする説や、実子と言い切れる確証はないとする見方もあります。母についても、「南殿」とよばれた女性とする説がありますが、根拠は弱いとされ、はっきりしません。

秀吉の養子たち ─ 三人の「秀勝」と秀次

実子に恵まれなかった秀吉は、多くの養子を迎えました。石松丸のあとに迎えたのが信長の四男・於次丸で、「秀勝」の名を継ぎます。さらに姉・ともの子である秀次と、その弟の小吉(のちの秀勝)、備前の宇喜多秀家、家康の次男・於義丸(のちの結城秀康)、寧々の甥の小早川秀秋などが、養子や猶子として秀吉の家に入りました(秀吉の養子たち:関係図でみる後継ぎ候補/於義丸とは)。「秀勝」の名を名乗った人物は三人いて、混同されやすいところです(秀次の兄弟はどうなったのか)。

天正13年、織田の血を引く跡継ぎ候補を失う

養子たちの中でも、信長の子である於次秀勝は特別な存在でした。信長の血を引く秀勝を跡継ぎに立てれば、織田家の家臣だった秀吉が天下を継いだことの筋も通しやすくなるからです。ところがその秀勝は、天正13年(1585)12月10日、丹波亀山城で十八歳の若さで病死してしまいます。秀吉が関白となった年の暮れのことでした(第39回「茶々の本心」の予想と史実)。

茶々は信長の妹・お市の方の娘で、信長の姪にあたります。茶々が子を産めば、その子は織田と浅井の血を引くことになります。第39回の予告にある「織田の血を引く茶々」という言葉は、於次秀勝を失ったあとの豊臣家の事情を映したものと読めます(茶々(淀殿)の生涯)。

鶴松の誕生と死 ─ 関白は秀次へ

天正17年(1589)5月27日、茶々は淀城で男子・鶴松を産みました。五十三歳の秀吉にとって待望の跡継ぎで、淀城の普請には秀長があたっていたことが記録に残っています(茶々はなぜ淀殿と呼ばれたのか)。しかし鶴松は天正19年(1591)8月5日、わずか三歳で亡くなります。同じ年の正月には秀長も世を去っており、秀吉は弟と跡継ぎを相次いで失いました。秀吉は12月、甥の秀次に関白をゆずり、秀次を跡継ぎとする形を整えます。

秀頼の誕生と秀次事件

ところが文禄2年(1593)8月3日、茶々は大坂城で二人目の男子・拾(のちの秀頼)を産みました。実子の誕生は、跡継ぎとされていた秀次の立場を揺るがし、文禄4年(1595)、秀次は高野山で切腹し、妻子たちも処刑されます(秀次事件をわかりやすく)。秀吉が慶長3年(1598)8月に亡くなったとき、秀頼はまだ六歳でした。実子の誕生がかえって豊臣家の支えを細らせたことは、のちの関ヶ原、大坂の陣へとつながっていきます。

秀頼は本当に秀吉の子だったのか

秀頼については、秀吉の子ではないのではないかという噂が、後の時代の書物などで語られることがあります。けれども、それを裏づける同時代の確かな史料はなく、俗説の域を出ません。秀吉自身は秀頼をわが子として扱い、遺言でも秀頼の行く末を大名たちに託しています。

▽ よく語られる話
秀頼は秀吉の実子ではなかった、という噂がある。
▼ 史実ではこうです
秀頼が秀吉の子ではないとする話は、後世の書物などに見られるもので、同時代の確かな史料による裏づけはありません。秀吉は秀頼を跡継ぎとして扱い、死の床でも大名たちに秀頼を託しました。

よくある疑問

Q. 秀吉に実子は何人いましたか?
A. 確かなのは鶴松と秀頼の二人です。長浜時代の石松丸を実子とする説もありますが、養子とする説もあり、決着していません。

Q. 秀吉と寧々に子はいましたか?
A. いませんでした。

Q. 石松丸の母は誰ですか?
A. 「南殿」とよばれた女性とする説がありますが、根拠は弱く、はっきりしません。

Q. なぜ秀吉は茶々を迎えたのですか?
A. 跡継ぎとなる実子を得るためと考えられています。茶々は信長の姪で、織田の血を引いていました。

まとめ

秀吉の確かな実子は、茶々が産んだ鶴松と秀頼の二人だけでした。長浜時代の石松丸は実子か養子か決着しておらず、秀吉は於次秀勝や秀次など多くの養子を迎えて跡継ぎを探しました。天正13年に織田の血を引く於次秀勝を失ったことは、信長の姪である茶々を迎える背景のひとつと考えられます。第39回「茶々の本心」で描かれる跡継ぎ問題を、こうした史実とあわせて見てみてください。

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