家康と北条氏政の会見(天正14年)|督姫と氏直の婚姻で結ばれた徳川と北条 ─ 黄瀬川で何を話し、その後どうなったのか

小田原城:北条早雲に始まり北条家5代にわたり関東を支配した名城 小田原城
この記事のポイント
  • 天正14年(1586)3月、徳川家康は北条氏政と、伊豆と駿河の国境を流れる黄瀬川をはさんだ三島・沼津のあたりで会見しました
  • 家康と北条家は、天正10年(1582)の天正壬午の乱のあと和睦し、翌天正11年に家康の娘・督姫が氏政の子・氏直に嫁いでいました。家康は氏直の舅、氏政とは「相舅」の間柄です
  • 石川数正の出奔、天正地震を経て、秀吉との和睦が進むなかで、家康は北条との同盟をあらためて固めました。背後の北条が味方であることが、家康の強気を支えていました
  • のちに家康は、北条家に秀吉への臣従を勧める側に回ります。北条が上洛しなければ督姫を返してもらう、とまで迫ったとされます

『豊臣兄弟!』第40回では、数正の出奔のあと、家康がひそかに北条氏政(谷原章介)を訪ね、「今こそ攻め時」と語る場面があると伝えられています。史実でも家康と氏政は、天正14年の春に直接顔を合わせています。この記事では、徳川と北条を結んだ婚姻から、この会見の中身、そしてその後の両家の関係までを紹介します。北条氏政の人物像は北条氏政とはでくわしく書いています。

目次

徳川と北条を結んだ婚姻 ─ 督姫と北条氏直

徳川と北条は、もともと敵どうしでした。天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が倒れると、主のいなくなった甲斐・信濃・上野をめぐって両家は争います(天正壬午の乱)。この争いは同じ年の10月に和睦となり、「甲斐・信濃は徳川、上野は北条」と分け合うことで決着しました(徳川と真田は何でもめていたのか)。

この和睦の証として結ばれたのが、家康の次女・督姫と、北条氏政の嫡男・氏直の縁組です。督姫は天正11年(1583)8月、小田原へ嫁ぎました。これで家康は氏直の舅となり、氏政とは子どもどうしを結婚させた「相舅(あいやけ)」の関係になります。督姫の生涯は督姫とはで紹介しています。

小田原城の天守
督姫が嫁いだ北条家の小田原城(天守は昭和の復興、小田原城)

この婚姻によって、徳川と北条は「背中を預け合う」同盟になりました。天正12年の小牧・長久手の戦いで家康が秀吉と戦えたのも、東の北条が味方だったからです。

天正14年3月 ─ 黄瀬川をはさんだ会見

天正14年(1586)3月、家康は駿河から伊豆との国境へ向かい、北条氏政と会見しました。場所は、伊豆の三島と駿河の沼津のあいだを流れる黄瀬川のあたりです。両家の当主どうしが国境で直接顔を合わせ、酒を酌み交わしたと伝わります。

江戸時代にまとめられた『徳川実紀』には、重臣の酒井忠次が「わざわざこちらから出向くことはない」と反対したのに対し、家康が「上下の礼にこだわって同盟をこじらせるより、北条と心を合わせることが大事だ」と諭した、という話が見えます。家康が会見で北条側に気をつかい、へりくだった態度をとったとする逸話もあります(酒井忠次とは)。

長久保城跡
黄瀬川の近く、徳川と北条の国境にあった長久保城の跡(長久保城跡)
▽ よく語られる話
家康は数正の出奔のあと、秀吉を攻めるため北条と密かに手を結んだ。
▼ 史実ではこうです
史実の会見は天正14年3月で、数正の出奔(天正13年11月)や天正地震のあと、すでに秀吉との和睦が動き出していた時期です。家康は秀吉と和睦する道を探りながら、同時に北条との同盟をあらためて固めていました。和睦がうまくいかなかったときに備えて、背後を確かめておく ─ 両にらみの一手だったと考えられます。

家康はなぜこの時期に北条と会ったのか

ここからは筆者の見方です。この会見には、少なくとも三つの意味があったと考えられます。

  • 秀吉との交渉を有利にするため:北条と強く結んでいることを見せれば、秀吉も家康を軽くは扱えない
  • 北条を安心させるため:家康が秀吉と和睦すれば、北条は「徳川に見捨てられるのでは」と不安になる。直接会って同盟が変わらないことを示した
  • 旭姫の縁組を前にした調整:2か月後には秀吉の妹・旭姫が家康に嫁ぐ。豊臣と縁を結ぶ前に、北条との縁を確かめておく必要があった

この会見の2か月後、旭姫が浜松に嫁ぎ、さらにその年の10月、家康は大坂城で秀吉に臣従します(旭姫(朝日姫)の生涯/家康はなぜ秀吉に臣従したのか)。

その後 ─ 北条に臣従を勧める家康

秀吉に臣従した家康は、こんどは北条家に「秀吉に従うように」と勧める立場になりました。天正16年(1588)には、北条家が秀吉のもとへ上洛しないなら、督姫を返してもらう、とまで記した起請文を送ったとされます。北条家は氏政の弟・氏規を上洛させてひとまず応じますが、当主の上洛は遅れ、名胡桃城事件をきっかけに天正18年の小田原攻めを招きました(名胡桃城事件とは)。

小田原攻めでは、家康は秀吉軍の主力として北条を攻める側に立ちます。北条家が降伏したあと、氏直は家康の娘婿であったことから命を助けられ、北条家の旧領・関東は家康に与えられました。黄瀬川で酒を酌み交わした両家の関係は、わずか4年で大きく変わったのです(北条五代100年の歴史)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」は10月18日(日)放送予定です。ドラマでは家康がひそかに氏政を訪ね、「今こそ攻め時」と語ると伝えられています。谷原章介さんの氏政と松下洸平さんの家康が初めて向き合う場面に注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 家康と北条氏政はいつ会見したのですか?
A. 天正14年(1586)3月、伊豆と駿河の国境の黄瀬川のあたり(三島・沼津)で会見したとされます。

Q. 家康と北条家はどういう関係ですか?
A. 天正11年に家康の娘・督姫が北条氏直に嫁ぎ、家康は氏直の舅、氏政とは相舅の関係でした。

Q. 『豊臣兄弟!』で北条氏政を演じるのは誰ですか?
A. 谷原章介さんです。

まとめ

家康と北条家は、天正壬午の乱のあと督姫と氏直の婚姻で結ばれ、背中を預け合う同盟となりました。天正14年3月の黄瀬川での会見は、秀吉との和睦が進むなかで、家康が北条との縁をあらためて確かめた一手でした。しかし家康が秀吉に臣従すると、両家の立場は分かれ、4年後には家康が北条を攻める側に立つことになります。

参考:『徳川実紀』/『家忠日記』/黒田基樹『北条氏政』ミネルヴァ書房/柴裕之『徳川家康』平凡社

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