本多作左衛門重次とは|「一筆啓上 火の用心」の鬼作左 ─ 大政所の宿所に薪を積んだ逸話と秀吉の怒り

丸岡城:日本100名城の一つで丹羽長秀の家臣青山宗勝が配領 国の重要文化財 丸岡城
この記事のポイント
  • 本多重次(ほんだ しげつぐ)は、徳川家康に仕えた三河の武将です。享禄2年(1529)に生まれ、慶長元年(1596)に68歳で亡くなりました。通称は作左衛門で、「鬼作左」と呼ばれました
  • 陣中から妻に送った「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という短い手紙で知られます
  • 天正14年(1586)、秀吉の母・大政所が人質として岡崎に来たとき、宿所のまわりに薪を積み、家康に万一のことがあれば火をかける構えを見せたと伝わります
  • この一件で秀吉の怒りを買い、家康の関東移封のあと、蟄居させられたとされます。子の成重は越前丸岡藩主となりました

本多作左衛門重次は、家康の家臣のなかでも、とくに頑固で一本気な人物として知られます。「鬼作左」のあだ名のとおり、相手が天下人の母であっても遠慮しませんでした。『豊臣兄弟!』第41回以降、大政所が岡崎に送られる場面があれば、名前が出てくるかもしれない人物です。この記事では、重次の生涯と、「一筆啓上」の手紙、大政所の「薪」の逸話を紹介します。

目次

「鬼作左」 ─ 三河三奉行のひとり

重次は享禄2年(1529)、三河の本多家に生まれました。家康の祖父・清康、父・広忠の代から松平家に仕え、家康が今川家の人質から戻ってくると、三河の行政を担う奉行の一人となります。

家康のもとで三河を治めた三人の奉行は、その人柄をうたった言葉で知られています。「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛」。温和な高力清長を「仏」、厳しく一徹な重次を「鬼」、どちらにも偏らない天野康景を「どちへんなし」と評したもので、重次の「鬼作左」のあだ名はここから来ています。

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

重次の名を今に伝えるのが、陣中から妻にあてた短い手紙です。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」。わずか一行で、留守の家の火の始末、幼い息子・お仙(仙千代、のちの本多成重)の世話、戦に欠かせない馬の手入れを頼んでいます。日本一短い手紙として知られ、長篠の戦いのころの手紙と伝わります。

「お仙」と呼ばれた息子の成重は、のちに越前丸岡藩の初代藩主となりました。丸岡城(福井県坂井市)の城内には、この手紙を刻んだ碑が立っています(丸岡城)。

丸岡城の天守
重次の子・成重が藩主となった丸岡城。現存天守が残ります

大政所と「薪」の逸話

天正14年(1586)10月、秀吉は家康を上洛させるため、母の大政所を人質として三河の岡崎に送りました。このとき岡崎で大政所の警固にあたったのが、重次と井伊直政だったと伝わります(大政所(なか)とは)。

重次は、大政所の宿所のまわりに薪を積み上げさせました。大坂に上った家康の身に何かあれば、すぐに火をかけて大政所を焼き殺す ─ その構えを見せたのです。家康が無事に大坂で秀吉に臣従し、岡崎に戻ってくるまで、重次は警戒をゆるめなかったといいます(家康はなぜ秀吉に臣従したのか)。

▽ よく語られる話
本多重次は、大政所を本気で焼き殺すつもりで薪を積んだ。
▼ 史実ではこうです
薪の逸話は江戸時代の記録に見えるもので、どこまで事実かはわかりません。重次が本気だったのかどうかも、確かめようがありません。ただ、徳川家の側が「主君を人質に取られるかもしれない」という強い警戒心を持っていたことは確かで、この逸話はそれを象徴する話として語り継がれてきました。

秀吉の怒りと晩年

大政所は大坂に戻ったあと、岡崎での扱いを秀吉に話したといわれ、秀吉は重次に強い怒りを抱いたと伝わります。天正18年(1590)、家康が関東に移ると、重次は秀吉の意向で上総の古井戸(千葉県)などに蟄居させられました。家康の重臣でありながら、晩年は表舞台から遠ざけられたことになります。重次は慶長元年(1596)、68歳で亡くなりました。

子の成重は、のちに家康の次男・結城秀康の家に仕え、越前丸岡四万石の大名となります(結城秀康とは)。「お仙泣かすな」と父が気づかった息子は、立派に一家を立てたのです。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第41回「家康の野望」では、大政所が岡崎へ向かう流れが描かれる可能性があります。重次が登場し、薪の場面が再現されるかに注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 本多作左衛門重次の「一筆啓上」の手紙とは?
A. 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という、陣中から妻に送った短い手紙です。お仙は息子の仙千代(本多成重)のことです。

Q. 大政所の「薪」の逸話とは?
A. 天正14年、大政所が人質として岡崎に来たとき、重次が宿所のまわりに薪を積み、家康に何かあれば火をかける構えを見せたという逸話です。

Q. 「鬼作左」とはどういう意味ですか?
A. 厳しく一徹な人柄から付けられたあだ名です。「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三郎兵衛」という言葉が知られています。

まとめ

本多作左衛門重次は、「鬼作左」と呼ばれた一徹な三河武士でした。一行の手紙に家族への思いをこめ、天下人の母を前にしても主君を守るために薪を積む ─ その姿は、家康の家臣団の気風をよく表しています。そのために秀吉の怒りを買いながらも、子の成重は丸岡藩主として家を残しました。

参考:『寛政重修諸家譜』/『藩翰譜』/丸岡城の展示解説

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