浅野長政とは|『豊臣兄弟!』大地伸永が演じる寧々の妹婿 ─ 旭姫の輿入れに付き従った五奉行と、広島藩・赤穂浅野家

東海道を進む旭姫の花嫁行列のイメージイラスト
この記事のポイント
  • 浅野長政(あさの ながまさ)は、豊臣秀吉の重臣です。天文16年(1547)に生まれ、慶長16年(1611)に65歳で亡くなりました。はじめは長吉と名のりました
  • 妻のややは寧々(北政所)の妹で、長政は秀吉の義理の弟にあたります。のちに五奉行のひとりとなりました
  • 天正14年(1586)、秀吉の妹・旭姫が徳川家康に嫁いだとき、輿入れの行列に付き従いました
  • 子孫は安芸広島藩主として幕末まで続き、分家からは「忠臣蔵」で知られる赤穂藩の浅野家が出ました

浅野長政は、秀吉の妻・寧々の妹を妻とした、豊臣家の「身内」の重臣です。『豊臣兄弟!』では大地伸永さんが演じています。第40回で描かれる旭姫の輿入れでは、史実の長政が行列に付き従いました。この記事では、長政の生涯を紹介します。

目次

寧々の妹婿 ─ 秀吉の義弟

長政は天文16年(1547)、尾張の安井家に生まれ、のちに浅野長勝の養子となりました。浅野長勝は、寧々を養女として育てた人物です。長政は長勝の娘・ややを妻とし、寧々とややは姉妹の関係にあったため、長政は秀吉の義理の弟となりました(寧々(ねね・北政所)とは/木下一族一覧)。

秀吉が織田家の家臣として出世していくなかで、長政は秀吉の身内として早くから仕え、各地の戦いに加わりました。秀吉にとっては、数少ない信頼できる親族の一人でした。

旭姫の輿入れに付き従う

天正14年(1586)、秀吉の妹・旭姫が家康の正室として浜松に嫁いだとき、長政は輿入れの行列に付き従いました。行列には、秀吉の側近・富田知信らのほか、和睦を仲介した織田信雄の側から織田長益や滝川雄利も加わり、150人余りにのぼったと伝わります。秀吉の身内である長政が加わったことは、この縁組が豊臣家の一門をあげた和睦の儀式だったことを示しています(旭姫(朝日姫)の生涯)。

東海道を進む旭姫の花嫁行列のイメージイラスト
旭姫の輿入れのイメージ。長政は行列に付き従いました(イメージイラスト)

五奉行として ─ 太閤検地と甲斐の大名

長政は、検地や城の普請など、豊臣政権の実務を担いました。各地で行われた太閤検地では、検地奉行として大きな役割を果たしています。文禄2年(1593)には子の幸長とともに甲斐一国を与えられ、甲府城を拠点としました。秀吉の晩年には、石田三成・増田長盛らとともに五奉行のひとりとなります。

関ヶ原と、その後

秀吉の死後、長政は家康の暗殺を企てた疑いをかけられて蟄居しますが、まもなく家康に従う道を選びました。関ヶ原の戦いでは子の幸長が東軍として戦い、戦後、幸長は紀伊和歌山三十七万石を与えられます。長政は江戸で徳川秀忠に仕え、慶長16年(1611)に65歳で亡くなりました。

▽ よく語られる話
浅野長政は、豊臣家の身内でありながら家康についた裏切り者だった。
▼ 史実ではこうです
長政は寧々の妹婿として、寧々と近い立場にありました。秀吉の死後、寧々は家康と良好な関係を保ち、長政や幸長が家康に従ったのも、その流れのなかでのことと考えられます。豊臣家の「身内」のなかにも、茶々と秀頼を支える側と、寧々とともに家康と結ぶ側があったのです(淀殿はなぜ豊臣家を仕切れたのか)。

子孫 ─ 広島藩と赤穂藩

長政の子孫は、幸長の弟・長晟の系統が安芸広島四十二万石の藩主となり、幕末まで続きました。また、長政の三男・長重の系統は播磨赤穂の藩主となり、その子孫の浅野長矩が江戸城で吉良義央に斬りかかった事件が、のちの赤穂事件、いわゆる「忠臣蔵」につながります。旭姫の輿入れに付き従った長政は、忠臣蔵の浅野内匠頭のご先祖でもあったのです。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』で浅野長政を演じるのは大地伸永さんです。第40回であさひの輿入れが描かれるとき、長政が行列に付き従う姿が見られるかに注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 浅野長政と秀吉はどういう関係ですか?
A. 長政の妻ややは寧々の妹で、長政は秀吉の義理の弟にあたります。

Q. 浅野長政は旭姫の輿入れで何をしたのですか?
A. 旭姫が家康に嫁いだとき、輿入れの行列に付き従いました。

Q. 『豊臣兄弟!』で浅野長政を演じるのは誰ですか?
A. 大地伸永さんです。

Q. 赤穂藩の浅野家は浅野長政の子孫ですか?
A. はい。長政の三男・長重の系統が赤穂藩主となりました。

まとめ

浅野長政は、寧々の妹婿として秀吉の義弟となり、豊臣家の身内の重臣として政権を支えました。旭姫の輿入れに付き従い、五奉行として検地や行政を担い、秀吉の死後は寧々とともに家康と結ぶ道を選びます。子孫は広島藩主として続き、分家の赤穂浅野家からは忠臣蔵の物語が生まれました。

参考:『浅野家文書』/『寛政重修諸家譜』/小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書

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