- 天正13年11月29日(1586年1月18日)の夜、天正地震で近江の長浜城が全壊し、城主・山内一豊の一人娘・与祢(よね)が亡くなりました。数えで6歳でした
- 与祢は乳母とともに倒れた建物の下敷きになったと伝わります。家老の乾和信夫妻も命を落としました
- 一豊と妻の千代(見性院)は、その後子どもに恵まれず、山内家は一豊の甥・忠義が継ぎました
- 一豊はのちに土佐一国の大名となり、高知城を築きます。長浜城主の時代に起きたこの悲劇は、一豊夫妻の人生に深い影を落としました
山内一豊といえば、妻・千代の「内助の功」で出世した武将として知られます。しかしその一豊夫妻が、天正地震で一人娘を失っていたことは、あまり知られていません。『豊臣兄弟!』第40回では、大地震が大坂と浜松を襲う場面が描かれると伝えられています。この記事では、天正地震で長浜城に何が起きたのか、そして与祢を失った一豊夫妻のその後を紹介します。天正地震で被害を受けた城の一覧は天正地震で壊れた城一覧にまとめています。
山内一豊とは ─ 秀吉に仕えて長浜城主に
山内一豊は尾張の出身で、織田信長、そして羽柴秀吉に仕えた武将です。秀吉の家臣として各地を転戦し、天正13年(1585)、近江の長浜城主となりました。長浜城は、かつて秀吉自身が初めて城持ち大名となった城です(長浜城)。
一豊の妻・千代(のちの見性院)は、夫が名馬を買えるようにと嫁入りのときの持参金を差し出した、という「内助の功」の逸話で知られます。この逸話がどこまで事実かはわかりませんが、千代が聡明な女性として一豊を支えたことは確かだと考えられています。

天正13年11月29日 ─ 長浜城の倒壊
一豊が長浜城主となってわずか数か月後、天正13年11月29日の夜、中部から近畿を大地震が襲いました。天正地震です。琵琶湖のほとりの長浜城は全壊し、城内にいた一豊の一人娘・与祢が、乳母とともに倒れた建物の下敷きになって亡くなりました。数えで6歳、天正8年(1580)ごろの生まれでした。
この地震では、山内家の家老・乾和信夫妻も命を落としています。千代は無事でした。一豊はこのとき、京にいたとも伝わり、城に戻って娘の死を知ったことになります。
一豊夫妻のその後 ─ 子に恵まれず
与祢を失ったあと、一豊と千代のあいだに子は生まれませんでした。のちに一豊夫妻は、長浜で捨て子を拾って育て、その子はのちに出家して僧になったという話も伝わります。与祢を失った夫妻の思いが重ねられた逸話といえるでしょう。
天正18年(1590)、一豊は遠江の掛川五万石に移り、関ヶ原の戦いでは家康に味方して、戦後に土佐一国二十万石余りを与えられました。高知城を築いた一豊は慶長10年(1605)に亡くなり、山内家は一豊の弟の子・忠義が継いで、土佐藩主として幕末まで続きます(高知城)。

天正地震と秀吉の家康攻め
長浜城をはじめ、天正地震で大きな被害を受けた城の多くは、秀吉が家康を攻めるときの前線にありました。地震のあと、秀吉は家康攻めをあきらめ、妹の旭姫を家康に嫁がせる道を選びます。一豊の娘の死は、徳川と豊臣の関係が「戦」から「縁組」へ変わる、その転機となった大地震のなかで起きた悲劇でした(旭姫(朝日姫)の生涯)。
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よくある質問
Q. 山内一豊の娘はなぜ亡くなったのですか?
A. 天正13年(1585)11月29日の天正地震で長浜城が全壊し、6歳の娘・与祢が乳母とともに下敷きになって亡くなりました。
Q. 山内一豊と千代に子どもはいましたか?
A. 娘の与祢がいましたが、天正地震で亡くなりました。その後子どもには恵まれず、山内家は甥の忠義が継ぎました。
Q. 天正地震のとき山内一豊はどこの城主でしたか?
A. 近江の長浜城主でした。
まとめ
天正地震は、山内一豊と千代から一人娘の与祢を奪いました。長浜城主となって数か月後の悲劇でした。一豊夫妻はその後子に恵まれず、土佐の大名となった山内家は甥が継ぎます。同じ地震は秀吉に家康攻めをあきらめさせ、豊臣と徳川の関係を変えました。天下の動きの陰で、一つの家族の運命も大きく変わっていたのです。
参考:『山内家史料』/寒川旭『秀吉を襲った大地震』平凡社新書/長浜城歴史博物館の展示解説
