- 織田信雄(おだ のぶかつ)は、織田信長の次男です。永禄元年(1558)に生まれ、寛永7年(1630)に73歳で亡くなりました
- 伊勢の北畠家を継いだのち、本能寺の変のあと尾張・伊勢などを治め、天正12年(1584)には徳川家康と組んで秀吉と戦いました(小牧・長久手の戦い)
- ところが家康に相談せずに秀吉と単独で和睦し、のちには秀吉と家康の和睦の仲介役を務めます。旭姫の輿入れにも、信雄の家臣が付き従いました
- 天正18年(1590)、家康の旧領への国替えを拒んで改易されますが、江戸時代には大和宇陀などで大名に返り咲き、子孫は明治まで続きました
織田信雄は、天下人・信長の次男として生まれながら、天下を取ることはできず、秀吉と家康のあいだで揺れ動いた人物です。『豊臣兄弟!』では山脇辰哉さんが演じています。第40回の「和睦」の場面では、史実で仲介役を務めた信雄が登場するかもしれません。この記事では、信雄の生涯を紹介します。
北畠家の養子 ─ 伊勢の大名として
信雄は永禄元年(1558)、信長の次男として生まれました。永禄12年(1569)、信長が伊勢の北畠家を降すと、和睦の条件として北畠家の養子となり、のちに北畠家を継ぎます。天正7年(1579)には、信長に無断で伊賀に攻め込んで敗れ、信長から厳しく叱責されたことで知られます。
本能寺の変のあと ─ 清須会議と賤ヶ岳
天正10年(1582)の本能寺の変のとき、信雄は伊勢にいました。安土城が焼けたのはこのあとで、信雄が焼いたとする説もありますが、はっきりしません。清須会議で織田家の跡継ぎには兄・信忠の子の三法師(秀信)が決まり、信雄は尾張を得ます。続く賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破ると、弟の信孝は自害に追い込まれ、信雄は尾張・伊勢・伊賀の三か国を治める大名となりました(清洲城)。

小牧・長久手 ─ 家康と組み、そして単独講和
しだいに力を強める秀吉に反発した信雄は、天正12年(1584)、徳川家康と組んで秀吉と戦いました。小牧・長久手の戦いです。家康は長久手で秀吉方を破りましたが、信雄は11月、家康に相談せずに秀吉と単独で和睦してしまいます。戦う大義名分を失った家康も、兵を引くしかありませんでした(小牧・長久手の戦いはどっちが勝ったのか)。
家康と秀吉の和睦を仲介する
天正13年(1585)の暮れ、天正地震で秀吉が家康攻めをあきらめると、翌天正14年の正月、信雄は家康と会って秀吉との和睦を勧めました。その結果、秀吉の妹・旭姫が家康に嫁ぐことになり、輿入れの行列には、信雄の側から織田長益(有楽斎)や滝川雄利も加わりました(旭姫(朝日姫)の生涯/旭姫の縁組は家康が求めたのか、秀吉が申し出たのか)。かつて秀吉と戦った信雄が、こんどは秀吉と家康を結ぶ側に回ったのです。
改易と、大名への返り咲き
天正18年(1590)、小田原攻めのあと、秀吉は関東に移る家康の旧領(三河・遠江・駿河など)へ信雄を移そうとしました。ところが信雄は、父祖の地である尾張を離れることを拒み、秀吉の怒りを買って領地をすべて取り上げられます。下野の烏山などに流された信雄は出家して「常真」と名のり、のちに許されて秀吉の話し相手(御伽衆)となりました。
関ヶ原の戦いのころは目立った動きを見せず、大坂の陣の前には大坂城を離れて徳川方に通じたとされます。元和元年(1615)、家康から大和宇陀と上野小幡などに五万石を与えられ、大名に返り咲きました。寛永7年(1630)、73歳で亡くなり、子孫は出羽天童藩や丹波柏原藩の藩主として明治まで続きます。信長の子のなかで、最も長く生き、家を大名として残したのが信雄でした。
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よくある質問
Q. 織田信雄は信長の何番目の子ですか?
A. 次男です。兄は織田信忠、弟に織田信孝がいます。
Q. 小牧・長久手の戦いで信雄は何をしたのですか?
A. 家康と組んで秀吉と戦いましたが、家康に相談せずに秀吉と単独で和睦しました。
Q. 『豊臣兄弟!』で織田信雄を演じるのは誰ですか?
A. 山脇辰哉さんです。
Q. 織田信雄の子孫は?
A. 江戸時代に出羽天童藩・丹波柏原藩の藩主家として続きました。
まとめ
織田信雄は、信長の次男として生まれ、本能寺の変のあと一時は三か国を治めましたが、天下を取ることはできませんでした。小牧・長久手では家康と組みながら単独で講和し、その後は家康と秀吉の和睦を仲介します。改易されても大名に返り咲き、信長の子のなかで最も長く生きて家を残しました。
参考:『織田系図』/谷口克広『信長の天下所司代』中公新書/柴裕之『徳川家康』平凡社
