- 『豊臣兄弟!』第42回の予告で、とも(宮澤エマさん)が息子の秀次に「あんた、小一郎のことが嫌いなの?」と問いかける場面が話題になっています
- 史実で秀次が叔父の秀長を嫌っていたことを示す記録はありません。四国攻めでは、総大将の秀長のもとで秀次も軍を率い、ともに戦っています
- 秀長は、秀次の弟の秀保を養子に迎えて跡継ぎにしました。秀次の家と秀長の家は、親子の縁でも結ばれていたのです
- ただ、秀吉の跡継ぎ候補という点では、叔父と甥は微妙な立場にありました。ドラマはそのすきまに、秀次の心のゆれを描こうとしているのかもしれません
『豊臣兄弟!』第42回の予告には、思わず息をのむ一場面がありました。ともが秀次に向かって「あんた、小一郎のことが嫌いなの?」と問うのです。小一郎は秀長の幼名。つまり母が、息子に向かって「叔父さんのことが嫌いなのか」と聞いているわけです。SNSでは「秀長の死に秀次が関わるのでは」という考察まで飛びかっています。では史実の秀次と秀長は、どんな関係だったのでしょうか。
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叔父と甥 ─ 家系で見るふたり
秀次は、秀吉・秀長の姉ともの長男です。秀長から見れば、姉の子、つまり甥にあたります。年齢は秀長が28歳上でした(秀吉の甥とねねの甥を関係図で整理)。
| 人物 | 秀長との関係 | その後 |
|---|---|---|
| 豊臣秀次(とも の長男) | 甥 | 秀吉の養子となり関白に。文禄4年(1595)切腹 |
| 豊臣秀勝(とも の次男) | 甥 | 秀吉の養子。文禄元年(1592)朝鮮で病死 |
| 豊臣秀保(とも の三男) | 甥で、秀長の養子 | 秀長の娘と結婚して跡を継ぐ。文禄4年に17歳で死去 |
表のとおり、秀次の末の弟・秀保は、秀長の養子になっています。秀長には男子が育たなかったため、姉ともの子を迎えて跡継ぎにしたのです。秀次にとって秀長は、叔父であると同時に、弟の義父でもありました(豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか、三好信吉(豊臣秀次)の兄弟はどうなったのか)。

四国攻め ─ 秀長のもとで戦った秀次
ふたりがいっしょに戦った戦として知られるのが、天正13年(1585)の四国攻めです。総大将は秀長。秀次は秀長とともに阿波方面から攻め入り、長宗我部元親の軍と戦いました。小牧・長久手の大敗で叱られた秀次にとって、四国攻めは名誉をとりもどす戦でした。その戦を率いていたのが、叔父の秀長だったのです(天正十三年の論功行賞)。
四国攻めのあと、秀次は近江八幡を本拠とする大名に、秀長は大和郡山の大名になりました。ふたりは豊臣一門の両輪として、それぞれの国を治めていきます。

それでも「微妙な立場」はあった
それでは、ドラマの「嫌いなの?」はまったくの作り話かといえば、そうとも言い切れません。秀吉に実子がいなかったこのころ、豊臣家の跡継ぎとして名前が挙がりうるのは、弟の秀長と、甥の秀次でした。
秀長は秀吉の片腕として政権の中心にいる一方、秀次は秀吉の養子にもなりうる若い一門です。年齢も立場もちがうふたりですが、「秀吉の次」をめぐっては、どこかで意識しあう関係だったとしても不思議はありません。第39回のドラマでは、秀長が「秀次には殿下の器はない」と語る場面もありました(なぜ秀長は「秀次には殿下の器はない」と言ったのか)。
ドラマの秀長は「秀次には任せられない」と考え、茶々を勧めた
ドラマのこれまでの流れも、ふり返っておきます。第39回「茶々の本心」では、秀長が「秀次には殿下の器はない」と見て、豊臣家の跡継ぎをつくるために、秀吉に茶々を側室に迎えるよう勧めました。つまりドラマの秀長は、秀次を次の天下人にすることに、はっきりとためらいを見せていたのです(なぜ秀長は「秀次には殿下の器はない」と言ったのか、第39回「茶々の本心」史実解説)。
秀次の側から見れば、叔父は自分を跡継ぎから外そうとした人です。しかも茶々が秀吉の子を産めば、秀次の立場はさらに遠のきます。ともの「あんた、小一郎のことが嫌いなの?」という問いは、この積み重ねの上に置かれた言葉だと考えると、ぐっと重みが増します。
史実では、秀長が茶々を勧めたという記録はありませんし、秀長が秀次の器をどう見ていたかもわかりません。それでも、秀吉の跡継ぎをめぐって叔父と甥の利害がぶつかりうる構図は、史実にもたしかにありました。ドラマはそこを、秀長の「器」の見立てと茶々の側室入りで、目に見える形にしたのでしょう(寧々(北政所)はなぜ茶々の側室入りを認めたのか)。

秀長の死と秀次のその後
天正19年(1591)正月、秀長は亡くなりました。跡を継いだのは、秀次の弟・秀保です。同じ年の8月には秀吉の子・鶴松も亡くなり、12月、秀次は秀吉の養子として関白を継ぎます。叔父の死から一年もたたないうちに、秀次は豊臣家の後継者になったのです。
しかし文禄2年(1593)に秀頼が生まれると、秀次の立場はゆらぎ、文禄4年に高野山で切腹します。同じ年、秀長の家を継いだ弟の秀保も17歳で亡くなりました。秀長と秀次、ふたりの家は、ほぼ同じ時に絶えてしまったのです(秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか)。
よくある質問
Q. 秀次と秀長はどういう関係ですか?
A. 秀次は秀長の姉ともの長男で、秀長の甥にあたります。
Q. 秀次は秀長を嫌っていたのですか?
A. 史実でそれを示す記録はありません。四国攻めではともに戦っています。
Q. 秀長の跡を継いだのはだれですか?
A. 秀次の弟の秀保で、秀長の養子となっていました。
Q. 「あんた、小一郎のことが嫌いなの?」はどの回ですか?
A. 第42回「北野大茶湯」の予告で、ともが秀次に問いかける場面です。
まとめ
史実の秀次と秀長は、四国攻めでともに戦い、秀次の弟が秀長の養子になるなど、深く結びついた叔父と甥でした。秀次が秀長を嫌っていたという記録はありません。それでも、秀吉の跡継ぎをめぐっては微妙な立場にあったふたりです。ドラマが描く秀次の心のゆれに、注目したいと思います。
参考:藤田恒春『豊臣秀次』吉川弘文館/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書/柴裕之『羽柴秀長』角川選書

