海部城跡:元親の弟・島親益が殺された港と、苔むした石垣が残る阿波南端の城

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この記事のポイント
  • 海部城は、土佐から阿波へ入る最初の関門にあたる城です。
  • 暴風を避けて停泊した長宗我部元親の弟・島親益が、ここで殺されました。
  • この一件が、元親の阿波侵攻の口実になります。
  • 阿波で最初に長宗我部に奪われたのが、この海部の地でした。
  • 城跡には苔むした石垣が残っています。

海部城は阿波の南の端、土佐との境に近い港町にあります。ここで一つの事件が起きました。病気の養生に向かう途中、暴風を避けて湾に入った船を、城主が襲ったのです。乗っていたのは長宗我部元親の弟でした。元親が阿波へ攻め込む口実は、この港で生まれています。そして阿波で最初に長宗我部のものになったのが、この海部でした。

目次

土佐から阿波へ入る、最初の関門

海部城跡の城山と港

海部城跡の城山。すぐ足元まで港が迫っています。

地図で見ると、この城の性格がすぐ分かります。阿波の南端、海沿いの道が土佐へ抜けていく場所です。

陸路で土佐から阿波へ入るなら、ここを通ります。海路で来る船も、この湾に寄ります。関所のような城でした。

城主の海部氏は、阿波を握っていた三好氏に従っていました。

暴風を避けた船が、襲われた

元亀二年のことです。元親の弟・島親益が、病気の養生のため有馬温泉へ向かっていました。

ところが海が荒れて暴風になります。親益の船は風を避けるため、海部城下の湾へ入りました。

そこで城主の海部友光が、この船を襲います。親益は殺されました。

▽ よく語られる話

弟を殺された元親は、怒りにまかせて阿波へ攻め込んだ。

▼ 史実ではこうです

怒ったことは確かでしょう。ただ、元親が阿波へ手を伸ばすのは時間の問題でもありました。土佐を統一しきる前から、次にどこへ出るかは決まっていたようなものです。

海部氏の側にも言い分があったとされます。当時、海部氏は三好方につき、長宗我部とは敵対関係にありました。入ってきた船を長宗我部の攻撃と取り違えたという見方もあります。

ここで押さえておきたいのは、戦国の侵攻には口実が要るということです。理由なく他国へ攻め込めば、周りの国人が警戒します。弟を殺されたという事実は、その口実として十分すぎるものでした。

島親益という、もう一人の弟

ここで補っておきたいことがあります。

長宗我部元親の弟として知られているのは、吉良親貞と香宗我部親泰の二人です。四国攻めで西と東を受け持った兄弟として、よく取り上げられます。

しかし弟はもう一人いました。それが島親益です。島氏を継いだため名字が違い、しかも早くに死んだので、三兄弟の話には入ってきません。

長宗我部の兄弟をめぐる物語は、この人の死から始まっていると言ってもいいのですが、名前を知られる機会はほとんどありませんでした。

長宗我部兄弟とは何者か:元親を支えた吉良親貞と香宗我部親泰、四国を分けて攻めた三人

阿波で最初に奪われたのが、この城だった

天正三年、元親は阿波への侵攻を始めます。そして天正五年、海部城を落としました。

白地城跡に立つ案内板には、こう書かれています。元親の阿波侵略が始まり、「南方の海部氏が最初に領土を奪われ」たと。阿波の側から見ても、ここが最初の一歩だったことになります。

白地城跡:長宗我部元親が四国統一の根拠地にした「四国の十字路」と、大西氏二百五十年の城

元親はこの城に弟の香宗我部親泰を置き、阿波制圧の拠点としました。親泰はのちに、さらに北の牛岐城へ拠点を移します。

牛岐城跡(富岡城):最後まで抗戦した新開道善と、寺に呼び出された謀殺

石垣が残っている

海部城跡に残る苔むした石垣

城跡に残る石垣。開口部の形から、虎口だったと見られます。

海部城跡は整備された公園ではありません。山道を登っていく城跡です。

そして苔むした石垣が、はっきりと残っています。写真の中央あたりに四角い開口部が見えますが、これは虎口、つまり城の出入口だったと考えられます。

海部城跡の斜面に残る石積み

斜面に残る石積み。落ち葉と蔓に覆われていますが、人の手で積まれたものです。

阿波で石垣を持つ城は多くありません。勝瑞の三好氏の館には土塁すらありませんでした。海に面したこの城が石を積んでいたことは、ここがどれだけ重く見られていたかを示しています。

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その後 ― 蜂須賀氏の城代が置かれた

天正十三年、秀吉の四国攻めで長宗我部は土佐一国に押し戻され、阿波は蜂須賀家政に与えられます。

蜂須賀家は代々この城に城代を置き、海部地方を支配しました。誰が阿波を持っても、ここは押さえておかなければならない土地だったということです。

江戸幕府の一国一城令で海部城は廃城となり、近くに海部陣屋が置かれました。

港に立つと、分かること

この城のいちばんの見どころは、遺構そのものよりも立地かもしれません。

城山の足元まで港が迫っています。暴風の日に船が逃げ込んでくる湾が、そのまま城の下にある。島親益の船がここへ入ってきたとき、城からは丸見えだったはずです。

戦国の海沿いの城が、どういう意味で「関所」だったのか。立ってみると理屈ぬきに分かります。

元親がなぜ海で秀吉を止められなかったのかは、別の記事で扱いました。

なぜ長宗我部元親は海で秀吉を止められなかったのか:八百艘の船団と、瀬戸内を持たなかった男

海部城跡へのアクセス

徳島県海部郡海陽町鞆浦。国道五十五号から海側へ入ったところにあります。

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