『豊臣兄弟!』で吉岡秀隆が演じる千利休(宗易)は、第33回で初登場して以来、秀吉の茶の湯を取り仕切る存在として描かれてきました。11月1日放送の第42回「北野大茶湯」では、秀吉の命を受けて、大名も商人も百姓も参加できる前代未聞の大茶会を任されます。わび茶を大成し、天下人のそばで茶の湯を政治の場にまで押し上げた利休とはどんな人物だったのか、その生涯をまとめます。
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堺の商人の子として生まれる
利休は大永2年(1522)、貿易で栄えた堺の商人の家に生まれ、幼名を与四郎といいました。家は魚問屋を営み、倉庫業も手がける裕福な町衆で、若いころから茶の湯を学び、北向道陳、さらに武野紹鴎に師事して、村田珠光から続くわび茶の道に進みます。大徳寺で禅を学んで「宗易」という法名を名乗り、ドラマでも当初はこの宗易の名で呼ばれています。
信長の茶頭、そして秀吉の茶頭へ
信長が堺を支配下に置くと、利休は今井宗久・津田宗及とともに信長の茶頭(茶堂)に取り立てられます。信長は名物の茶道具を集め、茶会を開く許しを家臣への褒美にするなど、茶の湯を支配の道具として使いましたが、その場を実際に取り仕切ったのが堺の茶人たちでした。本能寺の変のあとは秀吉に仕え、宗久・宗及をしのいで茶頭の筆頭となっていきます。
「利休」という名はどこから来たのか
天正13年(1585)、関白となった秀吉は宮中で正親町天皇に茶を献じる茶会を開きますが、町人の宗易はそのままでは宮中に上がれなかったため、このとき天皇から「利休」という居士号を授かりました。つまり私たちがよく知る「千利休」という名は、利休が64歳のころ、秀吉の天下取りとともに生まれた名前なのです。翌天正14年の宮中での茶会では、組み立て式の黄金の茶室も運び込まれました。
秀長と利休 ─ 「内々のことは宗易に」
利休の立場の大きさを示すのが、天正14年(1586)に大坂城を訪れた大友宗麟が書き残した手紙です。宗麟は秀長から、内々のことは宗易(利休)に、公のことは宰相(秀長)にと告げられたと記していて、利休が茶頭の枠を超え、大名たちと秀吉をつなぐ窓口になっていたことがわかります。秀長と利休は、いわば豊臣政権の表と裏を支える二本の柱でした。
北野大茶湯と待庵
天正15年(1587)10月、九州を平定した秀吉は京の北野天満宮で大茶会を開き、利休は津田宗及・今井宗久とともに茶席を受け持ちました。華やかな黄金の茶室とは正反対に、利休が理想としたのは、わずか二畳ほどの小さな茶室で主客が向き合う茶で、京都府大山崎町の妙喜庵に残る国宝の茶室「待庵」は、利休が手がけたと伝わる唯一の現存する茶室です。派手好みの秀吉と、削ぎ落とした美を求める利休は、同じ茶の湯でも目指すものが違っていました。
秀長の死と利休の切腹
天正19年(1591)正月、利休の後ろ盾でもあった秀長が亡くなると、そのわずか1か月後、利休は秀吉から堺での謹慎を命じられ、2月28日、京の屋敷で切腹しました。数えで70歳です。大徳寺の山門に利休の木像が置かれたことが問題にされたとも、茶道具の売買で私腹を肥やしたと咎められたともいわれますが、本当の理由はいまもはっきりしていません。利休の茶はその後、子孫の三千家や、古田織部・細川忠興ら利休七哲と呼ばれる弟子たちに受け継がれていきます。
『豊臣兄弟!』の利休に注目
ドラマの秀長は、天下一統が道半ばのなかで大茶会を開くのは早すぎると反対しますが、秀吉はそれを押し切って利休に茶会を命じます。秀長が亡くなれば利休の運命も大きく変わることを知っていると、第42回で兄弟と利休がどんな言葉を交わすのか、いっそう目が離せません。
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