高岡城跡:高山右近が縄張を引いた前田利長の隠居城と、廃城になっても埋められなかった水堀

高岡城/アクセス・地図・場所 初代加賀藩主前田利長の隠居城として築城された高岡城

高岡城は、加賀百二十万石の二代目・前田利長が隠居城として築いた城です。ところが利長はこの城に入って五年ほどで没し、翌年には一国一城令で廃城になってしまいました。城としての寿命は、驚くほど短い。それなのに高岡城は日本100名城に選ばれています。理由は、廃城になったはずのこの城に、当時の水堀と土塁がほぼそのままの形で残っているからです。加賀藩は城を壊すふりをして、実は壊しませんでした。そしてこの城の縄張を引いたのは、キリシタン大名として知られる高山右近だと伝えられています。

この記事のポイント
  • 前田利長の隠居城。富山城の火災を受けて急ぎ築かれた
  • 縄張を引いたのは、前田家の客将だった高山右近と伝わる
  • 利長の在城は五年ほど。翌年には一国一城令で廃城になった
  • 廃城後も加賀藩は堀と土塁を壊さず、蔵を置いて維持した
  • 水堀が城跡の三分の一を占め、築城当時の形をよく伝えている
目次

隠居城として、急いで築かれた城

高岡古城公園に立つ前田利長の騎馬像

高岡古城公園に立つ前田利長の騎馬像。兜の前立てが細く長く伸びていて、遠くからでもそれとわかる。

前田利長は、利家とまつの長男で、加賀藩の初代藩主にあたります。関ヶ原では東軍につき、前田家の所領を守り抜いた人物です。家督を弟の利常に譲って富山城へ隠居しましたが、その富山城が城下の出火で建物の大半を焼いてしまいました。利長はひとまず魚津城へ移り、幕府に新しい隠居城の築城を願い出ます。許しが下りるとすぐ工事が始まり、利長は完成を待たずに未完成の高岡城へ入りました。よほど急いでいたことがわかります。前田家が徳川のもとで所領を保つために払った気苦労は、母のまつが自ら人質となって江戸へ下ったことにも表れていますが、利長自身も、隠居してなお家のために動き続けた人でした。かつて越中を争った佐々成政の富山城が焼けた跡から、前田の隠居城が生まれたというのも因縁めいた話です。

縄張を引いたのは高山右近だった

高岡城跡に残る自然石を積んだ石垣

自然石をそのまま積み上げた石垣。加工の跡がほとんどなく、上は草に覆われている。

高岡城の縄張は、当時前田家に客将として身を寄せていた高山右近が引いたと伝えられます。右近はもともと摂津の大名で、キリシタンとして知られた人物。秀吉の伴天連追放令に際して信仰を選んで領地を捨て、前田利家に招かれて加賀に住んでいました。築城の巧みさでも茶の湯でも名を知られた人で、千利休の高弟のひとりでもあります。その右近が引いた縄張は、本丸を中心に二の丸・三の丸と二つの出丸を配し、あいだを幅の広い水堀で切るというもの。石をほとんど使わず、水と土で守る設計です。写真のように石垣が用いられているのは限られた箇所だけで、それも自然石を積んだ素朴なもの。北陸は良質な石を運ぶのに手間がかかるうえ、この土地には水が豊富でした。ある土地で何が手に入るかが、そのまま城の形を決めています。右近がこのあとどうなったかは千利休の弟子たちはどうなったのかに書きました。信仰を捨てなかった右近は、やがて国外へ追放されます。

使われたのは五年 ― 利長の死と一国一城令

利長がこの城で過ごしたのは、慶長十四年に入ってから慶長十九年に没するまでの五年ほどでした。隠居城としては短すぎる時間です。そして利長の死の翌年、幕府は一国一城令を発します。加賀藩の城は金沢城ひとつと定められ、高岡城は廃城となりました。築いてからわずか六年での廃城で、これは完成から七年で天守を壊された岩国城とほとんど同じ経緯です。一国一城令がどれほど多くの城を一度に消したか、この二つの城を並べるとよくわかります。ただし高岡城のその後は、岩国城とはまったく違う道をたどりました。

廃城になったのに、なぜ堀が残っているのか

高岡古城公園の水堀と朱塗りの橋

木々に囲まれた水堀。対岸に朱塗りの橋が架かり、その姿が水面に映っている。

▽ よく語られる話

一国一城令が出た以上、高岡城も他の城と同じように取り壊され、跡形もなくなったはずだ。

▼ 史実ではこうです

加賀藩は高岡城を廃城としながら、堀も土塁も埋めずに残しました。城地には米蔵や塩蔵、火薬蔵などを置き、藩の管理する施設として使い続けたのです。名目上は城ではない、ただの蔵地である。しかし曲輪の形も水堀もそのまま。もし越中で何か起きたとき、ここは即座に城として使える状態でした。町人の立ち入りも制限されていたと伝わります。幕府への建前を守りながら、実質を手放さない。加賀百二十万石という大身が、徳川の世でどう身を処していたかが、この城跡の形にそのまま出ています。

結果として高岡城跡には、築城当時の水堀がほぼ完全な形で残りました。堀の面積は城跡全体のおよそ三分の一を占めるといわれ、本丸・二の丸・三の丸・鍛冶丸・明丸という曲輪の区画が、いまも水の線でくっきり読み取れます。土の城の遺構がこれだけ市街地の中で残っている例は多くありません。佐倉城や玄蕃尾城のように、石を使わなかった城ほど当時の形をとどめているという逆説が、ここでも成り立っています。

利長が遺したもの ― 高岡の町と鋳物

高岡城跡の本丸跡に広がる芝の広場

本丸跡。いまは広い芝地になっていて、奥のほうに石碑と銅像が小さく見える。建物はひとつも建っていない。

利長がこの地に遺したのは城だけではありません。城を築くにあたって町割りを定め、各地から職人を呼び寄せました。とりわけ鋳物師(いもじ)を招いて土地と特権を与えたことが、のちの高岡銅器につながります。廃城で城がなくなっても、町は残りました。いや、城がなくなったからこそ、高岡は武家の町ではなく商工の町として伸びていったともいえます。銅器と漆器の産地として知られ、いまも全国の梵鐘や銅像の多くがこの町でつくられている。城の寿命は六年でも、町の寿命は四百年を超えました。写真の本丸跡には何も建っていませんが、この静けさの外側に、利長が引いた町割りがそのまま生きています。

訪ね方と見どころ

高岡古城公園の入口に立つ石碑

公園の入口に立つ石碑。「高岡古城公園」と大きく刻まれ、その上に小さく「県定」の二文字が見える。

所在地は富山県高岡市古城。JR高岡駅から歩いて十五分ほどで、日本100名城の三十三番です。城跡は高岡古城公園として開かれていて、入場は無料。桜の名所としても知られています。歩き方のこつは、建物を探さないことです。ここには天守も櫓も門もありません。そのかわり、水堀の線を目でたどってください。本丸を囲む内堀、二の丸と三の丸を隔てる堀、外側をめぐる堀。水の形がそのまま四百年前の設計図です。本丸跡から土橋を渡って二の丸へ抜けるところは、道の幅がぐっと狭くなります。そこが守りの要だった場所です。城跡を出たら、利長の菩提寺である瑞龍寺まで足を伸ばすとよいでしょう。伽藍が国宝に指定されている壮麗な寺で、城が短命だったぶん、利長の格式はこちらに残されています。高岡大仏も歩いていける距離です。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

高岡城跡・場所とアクセス

〒933-0044 富山県高岡市古城1-9

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