有馬晴信とは|島原半島のキリシタン大名 ─ 天正遣欧使節、追放令のあと宣教師を守った有馬、岡本大八事件と禁教令

島原半島の海辺の城と、港に入る南蛮船、城下の教会のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 有馬晴信は、肥前の島原半島を治めたキリシタン大名です。日野江城を本拠とし、天正8年(1580)に洗礼を受けました
  • 天正10年(1582)、大友宗麟・大村純忠とともに天正遣欧少年使節をローマへ送りました。使節のひとり千々石ミゲルは、晴信のいとこです
  • 天正15年のバテレン追放令のあとも、領内に宣教師をかくまい続けました。有馬の地は、追放令のもとでキリスト教が生きのびる拠り所となります
  • 江戸時代の慶長17年(1612)、岡本大八事件に巻きこまれて甲斐に流され、命を落としました。この事件が、江戸幕府の禁教令のきっかけになります

島原半島の南、有明海に面した有馬の地は、戦国時代、日本でもっともキリスト教がさかんな土地のひとつでした。その領主が有馬晴信です。バテレン追放令のあとも宣教師を守り、ローマに少年たちを送り、最後は江戸幕府の禁教のきっかけとなる事件で命を落とした。晴信の生涯は、日本のキリスト教の光と影をそのまま映しています。この記事では、島原の城の写真とともに、晴信の歩みをたどります。

島原半島の海辺の城と、港に入る南蛮船、城下の教会のイメージ(イラスト)
島原半島の海辺の城と、港に入る南蛮船のイメージ(イラスト)
目次

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島原半島の有馬家

晴信は永禄10年(1567)ごろ、肥前の有馬家に生まれました。有馬家は島原半島を本拠とする大名で、日野江城を居城としていました。晴信の叔父は、日本で最初のキリシタン大名となった大村純忠です(玖島城(大村城))。

晴信は家を継いでまもなく、北の龍造寺隆信の圧力にさらされます。天正12年(1584)、晴信は島津の援軍を得て、沖田畷の戦いで龍造寺軍を破り、隆信を討ち取りました。小さな大名が大国を破った、九州の戦国でもめずらしい勝利でした。

洗礼と、ローマへ送った少年たち

晴信が洗礼を受けたのは天正8年(1580)のことです。巡察師ヴァリニャーノのすすめによるもので、以後、有馬の地には神学校(セミナリヨ)が置かれ、日本人の聖職者を育てる拠点となりました。

天正10年(1582)、晴信は大友宗麟・大村純忠とともに、四人の少年をローマへ送り出します。天正遣欧少年使節です。そのひとり千々石ミゲルは晴信のいとこでした。少年たちはローマ教皇に会い、8年後の天正18年(1590)に日本へ戻ります。そのとき日本では、すでにバテレン追放令が出されていました(大友宗麟とは)。

年 晴信のできごと
永禄10年(1567)ごろ 肥前の有馬家に生まれる
天正8年(1580) 洗礼を受ける。有馬にセミナリヨが置かれる
天正10年(1582) 天正遣欧少年使節をローマへ送る
天正12年(1584) 沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討つ
天正15年(1587) 秀吉の九州攻めに従い、本領を安堵される。追放令のあとも宣教師をかくまう
文禄元年(1592) 朝鮮出兵で小西行長の軍に属して渡海
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで東軍につく
慶長14年(1609) 長崎でポルトガル船を沈める
慶長17年(1612) 岡本大八事件で甲斐に流され、命を落とす

追放令のあと ─ 宣教師たちの拠り所

天正15年、晴信は秀吉の九州攻めに従い、島原の本領を安堵されました。その直後にバテレン追放令が出ますが、晴信は処罰されていません。それどころか、平戸に集まった宣教師たちの多くを、自分の領内に受け入れました(バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か)。

追放令のもとで、宣教師たちは表に出ないように活動を続け、有馬の神学校もひそかに続けられました。秀吉の目の届きにくい島原半島は、日本のキリスト教が生きのびるための、大切な拠り所となったのです。

平戸の浜に集まり、沖の南蛮船を見つめる宣教師たちと見送る信者のイメージ(イラスト)
追放令のあと宣教師たちは平戸に集まり、多くが有馬などの領内に身を寄せた(イメージ)

岡本大八事件と、晴信の最期

関ヶ原の戦いで東軍についた晴信は、江戸時代も島原の領主として続きました。慶長14年(1609)、晴信は家康の許しを得て、長崎でポルトガル船を攻め、沈めます。前年にマカオで有馬家の家臣たちが殺されたことへの報復でした。

この手柄にからんで、家康の側近・本多正純の家臣だった岡本大八が、晴信に「旧領の回復を取りはからう」ともちかけ、多額の金品を受け取ります。しかしそれは嘘でした。事件が明るみに出ると、大八は処刑され、晴信も長崎奉行の暗殺をはかったとされて甲斐に流されます。慶長17年(1612)、晴信は配流先で命を落としました。キリシタンとして自害はせず、家臣の手で最期を迎えたと伝わります。

大八も晴信もキリシタンだったことから、家康はキリスト教への警戒を強め、同じ年に幕府の直轄地でキリスト教を禁じました。翌年には禁教が全国に広がります(慶長の禁教令とは)。

▽ よく語られる話
有馬晴信はキリシタンだったために、幕府に罰せられた。
▼ 史実ではこうです
晴信が流されたのは、岡本大八事件という贈収賄と、長崎奉行の暗殺をはかったという疑いのためでした。ただし、この事件の当事者がふたりともキリシタンだったことが、家康の禁教を後押ししたのは確かです。

その後の島原 ─ 原城と島原の乱

晴信の死後、子の直純はキリスト教を捨て、のちに日向へ移されます。島原には松倉重政が入り、島原城を築いて、キリシタンを厳しく取りしまりました。寛永14年(1637)、重い年貢と弾圧にたえかねた島原と天草の人びとが立ち上がり、有馬家のかつての城・原城にこもります。島原の乱です(原城、島原城)。

原城/アクセス・場所・地図 島原半島の南部 天草四郎の島原の乱で有名な原城
有馬家の城だった原城の跡(原城)
島原城/アクセス・場所・地図 江戸時代最大の一揆 天草四郎による島原の乱で有名な有馬直純 松倉重政の島原城
松倉重政が築いた島原城の天守
✎ 筆者の考え
晴信の生涯を追うと、追放令のあとの30年間、九州の南の端でキリスト教を支え続けた人の姿が見えてきます。その晴信が、最後は信仰とは関係のない汚職事件で命を落とし、それが禁教の引き金になった。歴史の皮肉というには、あまりに重い結末です。
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第42回「北野大茶湯」(11月1日放送予定)では、キリシタン追放令が物語の背景となります。追放令で宣教師たちが身を寄せたのが、晴信の治める島原半島でした。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 有馬晴信の本拠はどこですか?
A. 肥前・島原半島の日野江城です。

Q. 有馬晴信の洗礼名は?
A. プロタジオ、のちにジョアンと名のりました。

Q. バテレン追放令のあと、晴信はどうしましたか?
A. 処罰されず、領内に宣教師をかくまい続けました。

Q. 岡本大八事件とは何ですか?
A. 本多正純の家臣・岡本大八が晴信から金品をだまし取った事件で、晴信も流されて命を落としました。

まとめ

有馬晴信は、島原半島を治めたキリシタン大名でした。天正遣欧少年使節を送り、バテレン追放令のあとも宣教師をかくまい続けて、有馬の地をキリスト教の拠り所にしました。しかし江戸時代、岡本大八事件で命を落とし、その事件が幕府の禁教のきっかけとなります。追放令から島原の乱まで、晴信の島原は日本のキリスト教の歩みの中心にありました。

参考:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』中公文庫/五野井隆史『日本キリスト教史』吉川弘文館/南島原市「日野江城跡・原城跡」案内

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