島原城:四万石が築いた十万石の城と、大名でただ一人斬首された松倉勝家

島原城:江戸時代最大の一揆 天草四郎による島原の乱で有名な有馬直純 松倉重政の島原城

島原城は、四万石の大名が築いた城とは思えない規模を持っています。五層の天守が建ち、高石垣が隙間なく連なり、櫓は数え切れないほどありました。松倉重政が七年をかけて完成させたこの城は、しかし領民にとっては災いでした。四万石の領地から十万石級の城を建てる費用を絞り出そうとすれば、年貢はどこまでも重くなります。その苛政が島原の乱を招き、二代目の松倉勝家は、江戸時代の大名としてただ一人、切腹ではなく斬首されました。城の壮麗さと、その結末が真正面から結びついている城です。

この記事のポイント
  • 四万石の松倉氏が、十万石級ともいわれる規模の城を築いた
  • その負担が過酷な年貢と弾圧を生み、島原の乱の引き金になった
  • 二代藩主・松倉勝家は、江戸時代の大名で唯一、斬首に処された
  • 本丸は水堀で囲まれ、二の丸とは木橋一本でつながる独立した構え
  • 破風のほとんどない層塔型の天守と、途切れない高石垣が特徴
目次

四万石が築いた十万石の城

島原城跡の巨大な高石垣と、その上に建つ櫓

城跡の高石垣を下から見上げる。角のない直線的な石積みがどこまでも続き、その上に白壁の櫓が載っている。

有馬氏が日向へ移されたあと、この地に入ったのが松倉重政です。重政ははじめ有馬氏の居城だった日野江城に入りましたが、手狭だとしてすぐ新しい城の築城にかかります。それが島原城で、完成までに七年かかりました。問題はその規模です。石高は四万石。ところでき上がった城は、天守が五層、櫓が数十、そして写真のような高石垣が城域をぐるりと取り巻くという、十万石級の大名でもなかなか築けない代物でした。福山城も十万石には大きすぎる城でしたが、あちらは幕府が西国の押さえとして必要とし、天下普請で諸大名に費用を負わせています。島原城は違います。費用はすべて松倉家、つまり領民が負担しました。加えて松倉氏は幕府の江戸城普請にも動員されています。四万石の領地に、二重三重の負担がのしかかりました。

島原の乱は、宗教一揆だったのか

堀の外から見た島原城の天守と櫓、高石垣

堀端の柵ごしに城を望む。緑に覆われた高石垣の上に白い塀がめぐり、その奥に櫓と天守が並んで見える。

▽ よく語られる話

島原の乱は、キリシタン弾圧に立ち上がった信徒たちの宗教一揆である。天草四郎という少年を旗頭に、信仰を守るために戦った。

▼ 史実ではこうです

信仰が一揆をまとめる軸になったことは確かです。ただ、直接の引き金は松倉氏の苛政でした。年貢を納められない農民に対して、簑を着せて火をつけるといった見せしめの処刑がおこなわれ、記録に残っています。乱に加わったのは信徒だけではなく、有馬氏や小西氏の旧臣で牢人となっていた者も多く含まれていました。何より、幕府自身がこれを藩主の失政と判断しています。乱の後、松倉勝家は領内を騒乱に導いた罪で改易のうえ斬首されました。大名が切腹ではなく斬首されたのは、江戸時代を通じてこの一件だけです。宗教だけの問題であれば、藩主の首を斬る必要はありませんでした。

乱の主戦場になったのは島原城ではなく、南に位置する原城です。三万人を超えるともいわれる一揆勢が廃城となっていた原城に籠もり、幕府軍は十二万を投入して攻めました。四か月におよぶ戦いの末、籠城側はほぼ全滅します。島原城は乱のあいだ攻められはしましたが落ちておらず、この城の守りの固さは皮肉な形で証明されました。乱のあと、幕府はキリスト教の禁制をさらに徹底し、ポルトガル船の来航を禁じます。平戸城のある平戸から商館が長崎の出島へ移されたのも、この流れのなかでのことでした。

橋一本で切り離せる本丸

島原城跡の草に覆われた高石垣と、その上の櫓

草木が生い茂る高石垣の上に、白壁の櫓が顔を出している。手前の斜面は緑に覆われ、右手には現代の建物が見える。

島原城の縄張は、ほぼ長方形の連郭式です。本丸、二の丸、三の丸が一列に並び、それぞれを堀が仕切っている。特徴的なのは本丸と二の丸をつなぐ橋で、これは廊下橋形式の木橋が一本きりでした。つまり橋を落としてしまえば、本丸は水に囲まれた完全な独立区画になります。攻め手は堀を渡る手段を自前で用意しなければならず、渡っているあいだは石垣の上から一方的に狙われる。写真のように石垣が非常に高く、しかも屈曲が少ない直線的な積み方をしているのも、この城の性格を表しています。折れを多くして横矢を掛ける篠山城のような発想ではなく、単純に高く、長く、途切れなく積む。物量で押し切る守り方です。そしてその物量こそが、領民を追いつめたものでした。

破風のない天守

島原城の五層天守を真下から見上げる

真下から見上げた五層の天守。各層に装飾的な破風がほとんどなく、白壁と黒い格子窓が規則正しく積み重なっている。

写真の天守を見て、何か足りないと感じる人がいるかもしれません。破風です。ふつう天守には、三角形の千鳥破風や、丸みを帯びた唐破風が付いて、外観に変化をつけます。ところが島原城の天守には、それがほとんどありません。各層が同じ形で少しずつ小さくなりながら積み重なる、層塔型のなかでも極端に装飾を省いた形です。これは同じころ全国で建てられた天守の流行でもあり、飾りを削って工期と費用を抑えるという合理性もありました。ただ結果として、島原城の天守は妙に近代的で、そっけない印象を与えます。いま建っているのは昭和に鉄筋コンクリートで再建されたもので、内部はキリシタン関係の資料館になっています。天守を失った城が資料館として天守を建て直し、そこに自らが弾圧した人びとの資料を展示している。この城の歩みを思うと、複雑な構図です。

乱のあと ― 松平氏の二百年

松倉家の断絶後、島原には高力氏、松平氏、戸田氏が入り、最終的に深溝松平家が明治まで治めました。乱で領民が激減した島原へは、幕府の主導で各地から農民が移住しています。土地に人がいなくなったのです。新しい藩主たちは年貢を軽くし、復興に力を注ぎました。城はそのまま使われ続けますが、以後は一度も戦の舞台になっていません。明治の廃城令で建物は取り払われ、石垣と堀だけが残りました。近くの八代城や大分府内城と同じで、九州の城の多くは幕末まで戦を知らないまま役目を終えています。島原城が例外的に激しい記憶を持っているのは、その戦が外からの敵とではなく、自分の領民とのものだったからでした。

訪ね方と見どころ

幟旗の立つ島原城の天守

庭木の向こうに五層の天守がそびえ、手前には紫色の幟旗が何本も立っている。

所在地は長崎県島原市城内。日本100名城の九十一番です。島原鉄道の島原駅から歩いて十分ほど。城のすぐ背後に雲仙岳がそびえ、反対側には有明海が広がるという、風景の贅沢な城跡です。見どころはまず高石垣。堀の外側を歩きながら見上げると、この城の規模が四万石のものではないことが実感できます。次に天守へ。展示はキリシタン資料が中心で、島原の乱を知るうえでは欠かせません。最上階からは雲仙岳と有明海が見わたせます。城を出たら、足を伸ばして原城跡まで行くことをおすすめします。車で四十分ほど。いまは石垣と海しかない静かな場所ですが、ここで何が起きたかを知って立つと、島原城で見たものの意味が変わります。城下の武家屋敷の一角には、道の中央を水路が流れる町並みが残っています。九州・沖縄のお城と城跡の一覧と日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

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島原城・場所とアクセス

〒855-0036 長崎県島原市城内1-1183-1

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