秀吉の金賦り(かねくばり)とは|天正17年、聚楽第で金銀をばらまいた日 ─ 秀長がいちばん多く受け取った理由

聚楽第の馬場に金銀を積んだ台が並び、大名や公家が金銀を受け取る金賦りのイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 金賦り(かねくばり)とは、天正17年(1589)5月20日、秀吉が聚楽第に一族・公家・大名を集め、山のように積んだ金銀を配った行事です
  • 配った量は記録によってちがい、『鹿苑日録』は金6000枚・銀2万5000枚、『蓮成院記録』は金4900枚・銀2万1100枚と伝えます。徳川家康は金200枚・銀2000枚を受け取ったと『家忠日記』にあります
  • この年の正月、秀長は吉川平介の事件で秀吉への年頭のあいさつを許されませんでした。それでも金賦りでは、秀長がもっとも多くの金銀を与えられたと伝わります
  • 金賦りは、天下人の財力を見せつけ、大名や公家を豊臣家につなぎとめるための、目に見える「恩」の配り方でした

『豊臣兄弟!』第45回のサブタイトルは「天下人の暴走」です。天正17年(1589)の秀吉は、聚楽第の落書事件で多くの人を処刑する一方、同じ聚楽第で、前代未聞の大盤ぶるまいを行いました。それが金賦り(かねくばり)です。この記事では、金賦りの中身と、秀吉が金銀をばらまいた理由、そしてこの年の秀長との関係を読み解きます。

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金賦りとは ─ 天正17年5月20日の聚楽第

天正17年5月20日、秀吉は聚楽第の南の二の丸の馬場に、一族や公家、大名を集めました。そこには、およそ二町(約200メートル)にわたって台が並べられ、金銀が積み上げられていたといいます。秀吉はこれを、集まった人びとに次々と配りました。

配られた量は記録によって大きくちがいます。京都の相国寺鹿苑院の僧の日記『鹿苑日録』は金6000枚・銀2万5000枚、奈良の『蓮成院記録』は金4900枚・銀2万1100枚、『多聞院日記』は金銀それぞれ1000枚と記しています。いずれにしても、ひとりの人間が一日で配る量としては、けた外れでした。

記録 金 銀
『鹿苑日録』 6000枚 2万5000枚
『蓮成院記録』 4900枚 2万1100枚
『多聞院日記』 1000枚 1000枚
聚楽第の馬場に金銀を積んだ台が並び、大名や公家が金銀を受け取る金賦りのイメージ(イラスト)
聚楽第の馬場で行われた金賦りのイメージ(イラスト)

だれが、どれだけ受け取ったのか

受け取った人の顔ぶれと額については、いくつかの伝えがあります。のちの八条宮智仁親王(後陽成天皇の弟)、織田信雄、徳川家康にはそれぞれ金1000両・銀1万両、甥の秀次には金3000両・銀1万両、そして弟の秀長には金3000両・銀2万両が与えられた、というものです。家康の家臣・松平家忠の日記『家忠日記』には、家康が金200枚・銀2000枚を受け取ったとあり、数字は記録によってちがいますが、家康クラスの大名にも莫大な金銀が渡ったことがわかります。

注目したいのは、秀長への額です。伝えのとおりなら、秀長は甥の秀次よりも、家康や信雄よりも多く、もっとも多くの金銀を受け取ったことになります。

拝謁を許されなかった秀長が、いちばん多く受け取った

この年の正月、秀長は前の年の吉川平介の事件の責めを負い、秀吉への年頭のあいさつを許されませんでした。兄弟のあいだに目に見える距離が生まれたできごとです(秀吉と秀長は仲たがいしたのか)。

ところが、それから4か月あまりのちの金賦りで、秀長は一族の中で最も手厚く遇されたと伝わります。正月の処分が、身内にも示しをつけるための政治的なものであり、兄弟の関係そのものが壊れたわけではなかったことを、この金賦りはよく物語っています。

▽ よく語られる話
平介の事件で秀吉の怒りを買った秀長は、そのあと兄から遠ざけられ、冷遇された。
▼ 史実ではこうです
正月の拝謁は許されなかったものの、同じ年5月の金賦りで、秀長は秀次や家康よりも多い金銀を与えられたと伝わります。秀長は豊臣一門の第一人者として、変わらず扱われていたと見るのが自然です。

秀吉はなぜ金銀を配ったのか

秀吉が金銀を配った理由については、いくつかの見方があります。

ひとつは、財力を見せつけることです。佐渡や石見、生野などの金山・銀山を押さえた秀吉のもとには、それまでにない量の金銀が集まっていました。その富を目の前に積み上げてみせることは、ほかの大名がとうてい及ばない力の差を、だれの目にもわかる形で示すことでした(豊臣家はなぜあれほど金銀を持てたのか)。

もうひとつは、恩を配ることです。大名や公家は、秀吉から大きな贈り物を受けることで、豊臣家とのつながりをいっそう強めます。北条氏や伊達氏がまだ従わず、天下統一の仕上げを前にしたこの時期、身内と味方を固めておく意味は大きかったでしょう。

『鹿苑日録』は、秀吉自身の言葉として、人の生き死にはわからないので、形見分けのつもりで配るのだ、という趣旨の理由を伝えています。53歳の秀吉が、自分の死後を意識しはじめていたことをうかがわせる言葉です。そしてこの金賦りのわずか一週間後、5月27日に、茶々が鶴松を産みました(淀城:茶々が鶴松を産んだ城)。

「暴走」と「大盤ぶるまい」は表と裏

天正17年の春、秀吉は聚楽第の落書事件で番衆や天満の町の人びとを処刑し、その同じ聚楽第で金銀をばらまきました。逆らう者には容赦のない罰を、従う者には惜しみない恩を。両極端に見えるふるまいは、天下人として人を従わせるための、同じ手法の表と裏だったともいえます。第45回の「天下人の暴走」は、そうした秀吉の両面を描く回になるのかもしれません。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第45回「天下人の暴走」は11月22日(日)放送予定です。伝えられているあらすじには金賦りの場面は見えませんが、秀吉の権勢がきわまっていく天正17年の空気を知るうえで、欠かせないできごとです。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 金賦りはいつ行われましたか?
A. 天正17年(1589)5月20日、聚楽第で行われました。

Q. どれくらいの金銀が配られましたか?
A. 記録によってちがい、『鹿苑日録』は金6000枚・銀2万5000枚としています。

Q. 秀長はいくら受け取ったのですか?
A. 金3000両・銀2万両を受け取ったと伝わり、一族の中でもっとも多い額でした。

Q. 秀吉はなぜ金銀を配ったのですか?
A. 財力を見せつけ、大名や公家とのつながりを強めるためと考えられます。秀吉自身は形見分けのつもりだと語ったと伝わります。

まとめ

金賦りは、天正17年5月20日に秀吉が聚楽第で行った、金銀の大盤ぶるまいです。配った量は記録によってちがいますが、天下人の財力を見せつけ、大名や公家を豊臣家につなぎとめる効果は大きなものでした。正月に拝謁を許されなかった秀長が、ここでもっとも多い金銀を与えられたと伝わることは、兄弟の関係が壊れていなかったことを示しています。

参考:『鹿苑日録』/『蓮成院記録』/『多聞院日記』/『家忠日記』/渡邊大門「金銀を大名や公家に配りまくった豊臣秀吉の真意は、いったいどこにあったのか?」

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