- 上洛はただ京へ行くことではありません。時代によって意味が三つに分かれます
- 室町のころは格を認めてもらう行い、信長のときは京を押さえる軍事行動、秀吉のころは従うことを形にして示す出仕でした
- 行くには路次の安全・費用・留守の備え・身の安全の四つが要ります。どれか欠ければ行けません
- 上洛を果たしたのは大内義興・上杉謙信・織田信長。今川義元と武田信玄は、そもそも上洛が目的だったのかに議論があります
- 家康が二年も渋ったのも、北条が最後まで行かなかったのも、この四つで説明がつきます
戦国の記録には「上洛」の二文字がよく出てきます。ただ、同じ言葉でも中身はずいぶんちがいます。挨拶に行くのと、軍勢を連れて京を押さえるのと、天下人の前で頭を下げるのとでは、まったく別の行いです。しかもどの場合も、思い立てばすぐ行けるというものではありませんでした。京までの道、費用、留守の備え、そして身の安全。この四つが揃ってはじめて、大名は京へ上れたのです。
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格を認めてもらう上洛
室町のころ、守護大名が京へ上るのは、将軍や朝廷に挨拶をして自分の家の立場を確かめてもらうためでした。官位をもらい、守護職を安堵され、都の作法を身につけて帰る。家の格を公のものにする行いです。
この時代、京にいること自体が力でもありました。関白でありながら越後へ下った近衛前久のような例もありますが、普通は逆で、地方の大名が京を目指しました。都に顔がきくかどうかが、そのまま家の重みになったからです。

京を押さえる上洛
意味が変わるのは戦国の半ばです。永禄十一年、織田信長は足利義昭を奉じて入京しました。挨拶に行ったのではありません。軍勢を率いて京を押さえ、政権そのものを自分の手で動かしに行ったのです。
以後、「上洛」という言葉には軍事の匂いがつきまといます。武田信玄の西上も、上杉謙信の関東出兵も、同じ系譜で語られてきました。謙信が関東管領の名分を重んじたのは、軍を動かす理由として、都とのつながりが効いたからでもあります。
上洛を目指した大名たち
京を押さえる上洛を実際に試みた大名は、思っているより少数です。
着いた側から見ていきます。大内義興は永正五年、将軍足利義稙を奉じて上洛し、そのまま十年近く京に留まりました。六十年後に信長がやることの、先例にあたります。
上杉謙信は二度上洛しています。天文二十二年と永禄二年です。二度目では将軍足利義輝に拝謁し、のちの関東管領につながる名分を得ました。軍勢で京を取りに行ったのではなく、名分をもらいに行った上洛です。
面白いのは、この永禄二年に織田信長も京にいることです。尾張の一大名として八十人ほどを連れ、義輝に顔を見せに行きました。同じ年、越後の謙信と尾張の信長が都にいたことになります。そして九年後、信長は足利義昭を連れて戻ってきました。
そして朝倉義景です。義昭が越前に身を寄せていた時期、奉じて上洛する機会は義景にこそありました。動かなかったために、義昭は信長を頼ります。行かなかったことが、そのまま天下の行方を決めてしまった例です。
天下人のもとへ出仕する上洛
秀吉が関白になると、意味がまた変わります。今度は従うことを目に見える形にする行いになりました。大坂城や聚楽第へ出向き、大勢の大名が居並ぶ前で頭を下げる。これが上洛です。
だから秀吉は、この場面を人に見せたがりました。家康が天正十四年十月に大坂城で平伏したのも、景勝がその四か月前に同じ場に出たのも、中身は同じです。儀式として整えることに意味がありました。

行くために要ったもの
では、上洛を決めたらすぐ出発できたのか。そうはいきません。
路次の安全がまず問題でした。京までの道は他家の領内を通ります。通行の了解を取り、宿を手配し、場合によっては通る先の大名へ礼を送りました。
費用も重い。大名の上洛は供回りが数百から数千に及びます。献上の品も要りますし、滞在は月単位です。帰ってから家が傾いた例さえあります。
そして留守の備え。本国を誰に預けるかが決まらなければ動けません。背中に敵を抱えた大名が上洛をためらったのは、この一点です。
最後が身の安全です。行った先で殺されない保証が要りました。取次が間に立ち、人質を交わし、起請文を取り交わす。すべてはこのためでした。
どの道を通ったのか
道筋を思い浮かべると、路次の安全がなぜ問題になるのかが分かります。
家康は浜松を発ち、東海道を西へ向かいました。三河、尾張、美濃、近江と、他家の領を次々に抜けていきます。越後の景勝の場合はさらに遠く、春日山から北国の道を通り、越中・加賀を抜けて琵琶湖の北へ回りました。
どちらも、途中の国を治める者が通してくれなければ進めません。上洛が決まると、先に使者が立って道筋の大名へ挨拶を入れました。大名の上洛は、本人が動き出す前からすでに始まっていたのです。
行けなかった家
四つのうち一つでも欠ければ、上洛はできません。北条氏政がついに上洛しなかったのは、関東がまとまっていて行く必要を感じなかったことに加え、本国を空ける踏ん切りがつかなかったからでもあります。
伊達政宗も同じです。奥羽の争いに勝ち続けているあいだは、留守にする理由がありません。結局、小田原の陣中まで引き延ばしました。
秀吉が妹や母を差し出したのも、人質を取ったのも、この四つを相手のために揃えてやる作業だったと見ることができます。誰がいつ上洛したかを並べると、その手間のかかり方がそのまま順番になっています。
参勤交代とはどうちがうのか
江戸時代の参勤交代は、決められた周期で江戸へ出るしくみです。制度として定まっており、行かないという選択がありません。
戦国の上洛は、そこがちがいます。行くか行かないかを大名が選べた。選べたからこそ、行ったことに意味がありました。家康が臣従の直後に本拠を駿府へ移したのも、京や大坂との距離を測り直した結果です。制度になる前の、むき出しの駆け引きがここにあります。

よくある質問
Q. 上洛と上京はちがうのですか?
A. 当時の「洛」は京のことです。上京という言い方が東京を指すようになったのは明治以降で、戦国の文書に出てくるのは上洛です。
Q. 上洛にはどれくらいの人数で行ったのですか?
A. 家の格によりますが、大大名なら数千に及びました。家康の上洛も相当な供回りだったと伝わります。
Q. 上洛すれば必ず臣従したことになるのですか?
A. 秀吉のころはそうです。ただ室町のころの上洛は挨拶に近く、従属を意味しません。同じ言葉でも時代で読み分ける必要があります。
Q. 上洛しなかった大名はどうなりましたか?
A. 北条のように攻められた例もあれば、伊達のように遅れて間に合った例もあります。遅れること自体が、そのまま罰になるわけではありませんでした。
まとめ
上洛という言葉は、戦国の百年のあいだに三度意味を変えました。格を認めてもらう行いから、京を押さえる軍事行動へ。そして天下人の前で従うことを示す儀式へ。最後の形が整った時期が、ちょうど『豊臣兄弟!』の描く天正十四年です。そして忘れてはいけないのは、上洛がいつも重い支度を伴ったということです。道の安全、費用、留守の備え、身の安全。大名が上洛をためらったのは臆病だからではなく、この四つが揃わなかったからでした。誰がいつ京へ上ったかという順番は、そのまま各家の足元の事情の順番なのだと思います。
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