千姫は徳川家康の孫で、2代将軍秀忠と江(浅井三姉妹の三女)の長女です。7歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、19歳のとき大坂城の落城の中から助け出されました。その後、本多忠勝の孫・本多忠刻と再婚して姫路で約10年を過ごし、夫を亡くしたあとは江戸で天樹院として70歳まで生きました。この記事では、落城の夜の脱出から、再婚、晩年までをたどります。
- 千姫は家康の孫、秀忠と江の娘。母の姉が淀殿なので、秀頼とはいとこ同士
- 落城の夜、大野治長の計らいで城を出され、家康・秀忠の陣へ届けられた
- 翌年、本多忠刻と再婚。桑名を経て姫路城で暮らし、一男一女を産んだ
- 夫と息子に先立たれ、江戸で出家して天樹院に。秀頼の娘・天秀尼を生涯支えた
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7歳で秀頼に嫁いだ徳川の姫
千姫は慶長2年(1597)に伏見で生まれました。父は徳川秀忠、母は江です。江の姉は淀殿なので、千姫と秀頼はいとこ同士にあたります。三姉妹のその後は浅井三姉妹のその後で書いています。
秀頼との縁組は、秀吉が生前に決めていたものでした。慶長8年(1603)、千姫は7歳で大坂城に入ります。関ヶ原のあと、徳川と豊臣の間をつなぐ役目を背負った結婚でした。淀殿については茶々(淀殿)の生涯をどうぞ。
落城の夜、どうやって大坂城から逃げたのか
慶長20年(1615)5月7日、大坂夏の陣で豊臣方は敗れ、城に火の手が上がりました。このとき豊臣家の重臣・大野治長は、千姫を城の外へ出します。千姫に付き従った者たちに守られて、千姫は家康と秀忠の陣へ届けられました。治長のねらいは、千姫を通じて秀頼と淀殿の助命を願うことだったと伝わります。
千姫を城から連れ出した人物については、いくつかの話があります。よく知られるのは、津和野の大名・坂崎直盛(出羽守)が燃える城から千姫を救い出したという話です。ただし、顔にやけどを負いながら助け出したといった場面は、後の時代に脚色された部分が大きいとみられます。千姫の願いはかなわず、秀頼と淀殿は翌日に自害しました。この日のことは家康は秀頼と淀殿を助けようとしたのかでくわしく書いています。
坂崎出羽守の事件
翌元和2年(1616)、千姫の再婚が決まると、坂崎直盛が千姫の行列を襲って奪おうとしているといううわさが立ちました。坂崎の屋敷は幕府の軍勢に囲まれ、坂崎は死に、坂崎家は取りつぶされます。坂崎が千姫を奪おうとした理由は、救出の約束を破られたからだとも、千姫の再婚先の世話を任されていたのに話がこじれたからだとも言われ、はっきりしません。
本多忠刻との再婚 ─ 桑名から姫路へ
千姫の再婚相手は、桑名藩主・本多忠政の嫡男、本多忠刻でした。忠刻は徳川四天王の一人、本多忠勝の孫です。母の熊姫は家康の長男・信康の娘なので、忠刻自身も家康のひ孫にあたります。忠勝については夏生大湖が演じる本多忠勝とは、桑名の城については桑名城をどうぞ。

元和2年9月に二人は結婚し、翌元和3年に本多家が姫路に移ると、千姫も姫路城に入りました。千姫には化粧料として10万石が与えられ、西の丸に住んで「播磨姫君」と呼ばれました。西の丸の化粧櫓は、千姫ゆかりの建物として知られています。姫路城のことは姫路城で書いています。
姫路で千姫は、娘の勝姫と息子の幸千代を産みました。大坂での13年あまりとは違う、穏やかな暮らしだったと考えられます。

夫と息子を失い、江戸で天樹院に
しかし幸せは長く続きませんでした。息子の幸千代は3歳で亡くなり、寛永3年(1626)には夫の忠刻が31歳で亡くなります。同じ年には、姑の熊姫と、母の江も世を去りました。
千姫は娘の勝姫を連れて江戸へ戻り、出家して天樹院と名のります。江戸城の近く、竹橋の御殿に住み、将軍になった弟の家光からも大切にされました。家光の子・綱重を育てたことでも知られ、大奥にも影響を持つ立場になります。娘の勝姫は、岡山藩主の池田光政に嫁ぎました。池田家と徳川家のつながりは督姫とはでも書いています。
秀頼の娘・天秀尼を支え続けた
千姫が生涯気にかけたのが、秀頼の娘でした。大坂落城のあと、千姫はこの娘を養女にして助命を願い、娘は鎌倉の東慶寺に入って天秀尼となりました。東慶寺は、夫と別れたい女性が駆け込める「縁切寺」として知られる尼寺です。
天秀尼は東慶寺の住持として寺を守り、千姫は後ろ盾として寺を支えたと伝わります。秀頼との間に子はいませんでしたが、千姫は秀頼の娘の母として、豊臣家の最後の血を見守り続けたのです。秀頼の息子・国松がたどった運命は家康は秀頼と淀殿を助けようとしたのかに書いています。
「吉田御殿」の悪い噂は本当か
千姫には、江戸の吉田御殿で男を引き入れては殺した、という恐ろしい話が伝わります。しかしこれは江戸時代の講談などで作られた話で、史実ではありません。千姫は寛文6年(1666)、70歳で亡くなり、江戸小石川の伝通院に葬られました。曾祖母にあたる家康の母・於大の方(伝通院)が眠る寺です。家康の妻や家族については徳川家康の妻たち一覧もどうぞ。
| 年 | 年齢 | できごと |
|---|---|---|
| 慶長2年(1597) | 1歳 | 伏見で生まれる |
| 慶長8年(1603) | 7歳 | 豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂城に入る |
| 慶長20年(1615) | 19歳 | 大坂落城。城から助け出される |
| 元和2年(1616) | 20歳 | 本多忠刻と再婚。桑名へ |
| 元和3年(1617) | 21歳 | 本多家とともに姫路城へ |
| 寛永3年(1626) | 30歳 | 夫・忠刻が亡くなる。江戸へ戻り天樹院に |
| 寛文6年(1666) | 70歳 | 江戸で亡くなる |
よくある質問
Q. 千姫は家康の何にあたりますか?
A. 孫です。家康の三男で2代将軍となった秀忠と、江の間に生まれた長女です。
Q. 千姫は大坂城からどうやって逃げたのですか?
A. 落城の夜、大野治長の計らいで城の外へ出され、家康と秀忠の陣へ届けられました。坂崎出羽守が救い出したという話は、後世の脚色が大きいとみられます。
Q. 千姫の再婚相手は誰ですか?
A. 本多忠勝の孫で、桑名藩主・本多忠政の嫡男の本多忠刻です。のちに姫路城で暮らしました。
まとめ
千姫は、徳川と豊臣をつなぐために7歳で嫁ぎ、19歳で夫の家が滅びるのを見ました。本多忠刻との再婚で姫路に穏やかな日々を得ましたが、夫と息子に先立たれ、江戸で天樹院として生きます。そして秀頼の娘・天秀尼を最後まで支えました。家康の孫として生まれながら、豊臣家の最期を一番近くで見届けた女性だったといえます。大河ドラマ『豊臣兄弟!』特集では、豊臣家の始まりの物語を追っています。
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参考:『徳川実紀』、姫路市・桑名市・東慶寺の解説、伝通院の寺伝

