大坂城が燃え落ちたとき、家康は本当は秀頼と淀殿の命を救おうとしていた、という話があります。結論からいうと、戦の前には豊臣家を一大名として残す道も示していましたが、落城のときに母子を助けようとしたと言える確かな証拠はありません。秀頼の8歳の息子・国松が捕らえられて斬られ、娘だけが尼になることで助けられた事実を見ると、家康が豊臣の男子の血を残すつもりはなかったと考えるのが自然です。
- 大坂夏の陣の前、家康は国替えか浪人の追放を条件に、豊臣家を大名として残す道を示していた
- 落城の日、千姫が城を出て秀頼母子の助命を願ったが、返事は来ないまま蔵は囲まれ、母子は自害した
- 秀頼の息子・国松(8歳)は捕らえられ、京の六条河原で斬られた
- 娘は千姫の養女となって鎌倉の東慶寺に入り、天秀尼として生きた。男子は斬り、女子は出家させて血筋を絶つという扱いだった
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落城の日、山里曲輪の蔵で何があったのか
慶長20年(元和元年・1615)5月7日、大坂夏の陣の最後の戦いで豊臣方は総崩れになり、大坂城は火に包まれました。秀頼と淀殿は、本丸の北にある山里曲輪の蔵に逃れます。大坂の陣全体の流れは大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説にまとめています。
この夜、大野治長は秀頼の正室・千姫を城の外へ出しました。千姫は家康の孫です。千姫を通じて、秀頼と淀殿の助命を願ったと伝わります。翌5月8日、蔵は井伊直孝らの軍に囲まれました。助命の返事は来ず、鉄砲が撃ちかけられたともいわれます。秀頼と淀殿は蔵の中で自害し、大野治長・毛利勝永らも後を追いました。秀頼は23歳でした。

「家康は助けるつもりだった」という話はどこから来たのか
家康が母子を救おうとしていた、という話にはいくつかの形があります。千姫の願いを聞いた家康は助けてもよいと考えたが、将軍の秀忠が許さなかった、という話。家康は秀忠に判断を任せた、という話。どれも後の時代の記録や軍記物に出てくるもので、当時の確かな記録で家康が助命を命じたと確かめることはできません。
一方で、家康が豊臣家をつぶすことにこだわっていなかったと考えられる材料もあります。冬の陣の和議のあと、家康は豊臣方に、大坂を出て大和か伊勢へ国替えするか、城に集めた浪人を追い出すかを求めました。どちらかを受け入れれば、豊臣家は一大名として残る道があったことになります。豊臣方がこれを拒んだため、夏の陣になりました。淀殿が豊臣家を仕切っていた事情は淀殿はなぜ豊臣家を仕切れたのかで書いています。
8歳の国松は斬られ、娘は尼になって助かった
家康の本心を一番はっきり示しているのは、秀頼の子どもたちの扱いです。秀頼には、側室との間に生まれた男の子の国松と、女の子がいました。
| 年齢 | 落城後 | その後 | |
|---|---|---|---|
| 国松(秀頼の息子) | 8歳 | 伏見に隠れていたところを捕らえられる | 5月23日、京の六条河原で斬られる |
| 娘(のちの天秀尼) | 7歳 | 捕らえられるが、千姫が養女にして助命を願う | 鎌倉の東慶寺に入って尼となり、天秀尼として一生を送る |
男の子は家を継げます。生かしておけば、いつか豊臣家を立て直す旗印になりかねません。女の子は家を継げず、尼になれば子を残すこともありません。男子は斬り、女子は出家させる。豊臣家の血筋を確実に絶つための扱いでした。娘を救ったのは家康ではなく、養母になった千姫の願いだったと伝わります。千姫のその後は千姫はどうやって大坂城から逃げたのかで書いています。
家康は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』をよく読んでいたことで知られます。平清盛が少年の源頼朝を殺さずに伊豆へ流し、その頼朝に平家が滅ぼされた話は、戦国の武将ならだれでも知る教訓でした。豊臣の男子を生かしておけば同じことが起こるかもしれない、という考えが家康にあったとしても不思議ではありません。

筆者の考え ─ 家康は豊臣の血を残すつもりはなかった
筆者は、家康が落城の場で秀頼母子を救おうとしたとは思いません。家康の「野望」がどこから始まっていたのかは「家康の野望」とは何か?と家康の野望とは?いつから天下を狙っていたのかで書いています。
戦の前に国替えを示したのは、豊臣家を大坂城から引き離し、力を奪うためだったと筆者は見ています。大坂を出た豊臣家は、もう天下人の家ではなく、徳川の下の一大名にすぎません。
そして戦になった以上、家康は豊臣の血を残すつもりはなかったはずです。8歳の国松を斬らせた事実が、それをはっきり示しています。秀頼を生かせば、秀吉の子として必ずまた担ぎ出す者が現れる。血を残すことが、のちの徳川にとって一番の脅威になると家康は分かっていたのでしょう。「家康は本当は助けたかった」という話は、孫の千姫の夫を死なせ、幼い子まで斬った厳しさを少しでもやわらげたいという、後の時代の人たちの気持ちから広まった面があると筆者は考えています。
秀頼は生きていた?という伝説
秀頼が死んだ姿をはっきり確かめた者がいなかったこともあり、秀頼は真田信繁(幸村)に守られて薩摩へ逃れた、という伝説が生まれました。鹿児島には秀頼の墓と伝わるものもあります。もちろん確かな話ではありませんが、豊臣家の最期を惜しむ人が多かったことを示しています。信繁については真田幸村(信繁)とは何者かをどうぞ。秀頼の出生をめぐる疑いは秀頼は本当に秀吉の子だったのかで書いています。
よくある質問
Q. 家康は秀頼を助けようとしたのですか?
A. 戦の前には国替えなどを条件に豊臣家を残す道を示していましたが、落城のときに助命を命じたことを示す確かな記録はありません。
Q. 秀頼の子どもはどうなったのですか?
A. 息子の国松は8歳で捕らえられて京の六条河原で斬られ、娘は千姫の養女となって鎌倉の東慶寺に入り、天秀尼となりました。
Q. 秀頼と淀殿はどこで亡くなったのですか?
A. 大坂城の山里曲輪にあった蔵で、慶長20年5月8日に自害したとされます。
まとめ
家康は戦の前、豊臣家を大坂から出せば一大名として残す道を示しました。しかし豊臣方が拒んで戦になると、落城の場で秀頼母子を助けることはなく、8歳の国松まで斬らせました。助かったのは、出家して血を残さない娘だけでした。「家康は本当は救おうとした」という話は美しいものですが、残された事実は、豊臣の血を絶つという家康の冷徹な決断を示しています。大河ドラマ『豊臣兄弟!』特集では、豊臣家が天下を取るまでの物語を追っています。
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参考:『徳川実紀』、『大坂の陣』関係の軍記物、東慶寺の寺伝、各自治体の史跡解説

