上杉景勝はなぜ家康より早く秀吉に頭を下げたのか|背中で燃えていた新発田の六年 ─ 妹も母も要らなかった上洛

上杉景勝公の顕彰碑
この記事のポイント
  • 景勝が大坂城で秀吉に会ったのは天正十四年六月。家康より四か月早い上洛でした
  • そもそも景勝が秀吉と結んだのは天正十一年です。家康が頭を下げる三年前から味方でした
  • 理由は背中にありました。新発田重家の乱が六年目に入り、自力では終わらせられなかったのです
  • だから秀吉は景勝に妹も母も出していません。差し出す必要があったのは、困っていない家康のほうでした

徳川家康が大坂城で秀吉に頭を下げたのは天正十四年の十月です。その四か月前、同じ大坂城で秀吉に会っていた大名がいます。上杉景勝です。景勝のほうが早く、しかも秀吉は景勝に妹も母も差し出していません。なぜ同じ「臣従」でこれほど扱いがちがったのか。答えは景勝の背中にありました。越後の北では、六年前から景勝に背いた男が城に籠もり続けていたのです。

天正十四年 ─ 二人はどこがちがったのか上杉景勝徳川家康本国越後一国と北信濃の一部三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国背中の火新発田重家の乱 六年目なし秀吉との間を取り持った者石田三成織田信雄上洛した月天正十四年六月天正十四年十月秀吉が差し出したものなし妹・旭姫と母・大政所上洛して得たもの従四位下・左近衛少将新発田を討つ後ろ盾正三位・権中納言関東と奥両国の惣無事の差配

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家康より四か月早く、景勝は大坂にいた

天正十四年六月、上杉景勝は春日山城を発ち、はじめて大坂へ上りました。直江兼続が従っています。秀吉に謁見し、従四位下・左近衛少将に叙されました。秀吉に従った大名がいつ上洛したかを並べてみると、景勝の早さがよく分かります。

一方の家康が大坂城に入るのは、この四か月後の十月です。しかも家康の場合は、先に妹の旭姫が浜松へ輿入れし、さらに母の大政所まで岡崎へ送られています。景勝にはそのどちらもありません。

扱いが軽かったわけではないと思います。順番が逆なのです。家康は最後まで動かなかったから厚遇され、景勝は早くから動いていたから何も要らなかった。

背中で燃えていたもの ─ 新発田重家の六年

天正九年、越後の北で新発田重家が景勝に背きました。新発田城を本拠に阿賀野川の北を押さえ、新潟の湊まで握ります。もとをたどれば御館の乱の恩賞への不満でした。景勝のために戦った男が、戦が終わったあとの分け前に納得しなかったのです。

景勝は何度も兵を出しましたが、落とせませんでした。新発田の背後には会津の蘆名や出羽の伊達がいて、湊を押さえられているので米も銭も入ります。越後の北半分が、六年にわたって景勝の手から離れていました。

水堀越しに見る新発田城の三階櫓
新発田城。重家が六年籠もった城で、のちに新発田藩の居城となりました(新発田城跡)

しかも越後の火はそれだけではありません。天正十年六月、越中の魚津城が織田の軍に落ちています。景勝はこのとき、西から柴田勝家の軍、北から新発田、南からも織田方に迫られ、春日山城で最期を覚悟したと伝わります。本能寺の報せが届いたのは、その翌日のことでした。

景勝が秀吉と結んだのは、家康より三年早い

危機を脱した景勝が次に向き合ったのは、越中に入ってきた柴田勝家であり、そのあとを継いだ佐々成政でした。ここで景勝と秀吉の利害が一致します。敵が同じだったのです。

天正十一年、景勝は秀吉と誼を通じました。賤ヶ岳で秀吉が勝家と戦っていたころです。そして天正十三年八月、秀吉が越中へ兵を出して佐々成政を降すと、景勝もこれに加わりました。西の脅威は、これで消えます。

つまり天正十四年の上洛は、景勝にとって方針の転換ではありません。三年かけて積み上げてきたものの仕上げでした。家康のほうは逆で、小牧・長久手で秀吉と戦った側です。同じ年に同じ城で頭を下げていても、そこへ至る道はまったく別でした。

景勝が先に動いていた ─ 上洛までの順番天正九年新発田重家が越後で挙兵する天正十年六月魚津城が落ち、越後が危うくなる天正十一年景勝が秀吉と誼を通じる天正十三年八月秀吉の越中攻めに景勝が加わる天正十四年五月旭姫が浜松へ輿入れする天正十四年六月景勝が大坂城で秀吉に会う天正十四年十月家康が大坂城で秀吉に会う天正十五年十月新発田重家が滅び、越後が一つになる景勝が秀吉と結んだのは、家康が上洛する三年前でした。

秀吉が景勝に渡したもの

景勝が上洛して得たのは、官位と、もうひとつ大きなものです。新発田を討つことへの後ろ盾でした。天下人の名のもとに背いた者を討つ、という形が立ったのです。

翌天正十五年十月、景勝は新発田城を攻め落とします。六年続いた乱が、上洛の一年後に終わりました。偶然ではないと思います。新発田を支えていた周りの国衆にとって、相手が越後の主から天下人に変わった意味は大きかったはずです。

戦国時代の城攻めの陣のイメージ(イラスト)
城攻めの陣のイメージ(イラスト)。柵と陣幕で囲み、城の力が尽きるのを待つのが当時のやり方でした

秀吉の側から見ても安い買い物でした。景勝には、紙一枚と官位で足りたのです。

なぜ家康にだけ妹と母だったのか

ここが本題です。家康が最後まで上洛しなかった理由はいくつも挙げられますが、景勝と並べると一点に絞れます。家康には、秀吉に頼みたいことが何もなかったのです。

二人を並べて見えること
景勝は、早く従うほど得をした
国の半分が敵の手にあり、西からも攻められていました。中央の後ろ盾は喉から手が出るほど欲しいものです。早く動けば動くほど、新発田を討つ日が近づきました。
家康は、遅らせるほど得をした
五か国は固まっていて、背中に火はありません。待てば待つほど秀吉のほうが条件を上積みしてきます。実際に妹が来て、母まで来ました。
だから扱いの差は、格の差ではない
秀吉は相手の足元を見ていただけです。困っている大名には紙一枚、困っていない大名には身内を出す。差し出したものの大きさは、相手の必死さの裏返しでした。
春日山城の三の丸跡に立つ石柱と本丸への道標
春日山城の三の丸跡。景勝が大坂へ向かったとき、越後の北半分はまだ新発田の手にありました(春日山城跡)

ほかの大名はどう動いたか

同じ物差しを当てると、他の大名の動きも読めてきます。毛利輝元が上洛したのは天正十六年。それ以前から秀吉と結び、四国攻めや九州攻めに兵を出していました。背中に火こそありませんでしたが、九州へ向かうときに秀吉と組む利がはっきりしていたのです。

動かなかったのが北条氏政です。関東はまとまっていて、困り事がありませんでした。家康と同じ立場だったとも言えます。ちがったのは、最後に応じたかどうかだけです。家康は上洛し、北条は上洛しないまま小田原で終わりました。

伊達政宗が秀吉の前に出るのは、小田原の陣中でのことです。こちらも奥羽の争いに勝ち続けていたため、頭を下げる理由が最後まで見つからなかった側でした。

こうして並べると、上洛の早さは忠誠の深さではなく、困り方の強さを表していたことが分かります。上洛した順番は、そのまま各大名の足元の事情の順番でした。

よくある質問

Q. 景勝は家康よりどれくらい早く秀吉に従ったのですか?
A. 上洛で比べれば四か月、秀吉と結んだ時点で比べれば三年ほど早いことになります。

Q. 景勝の上洛に従ったのは誰ですか?
A. 直江兼続です。このとき石田三成と関係を深めたことが、のちの上杉家の動きにつながっていきます。

Q. 新発田重家はなぜ背いたのですか?
A. 御館の乱での働きに対する恩賞が不足だったためと伝わります。乱を勝ち抜いた景勝が、勝ったあとの配分でつまずいた形です。

Q. 景勝はこのあとどうなりましたか?
A. 越後を一つにまとめ、のちに会津百二十万石へ移ります。関ヶ原では西軍に付き、長谷堂で最上・伊達と戦いました。

まとめ

景勝が家康より早く頭を下げたのは、気性の問題でも格の問題でもありません。背中が燃えていたからです。越後の北半分を六年も取り返せずにいた大名にとって、天下人の後ろ盾は実利でした。逆に家康は、待てる立場にいたから待った。秀吉が妹と母を出さざるをえなかったのは、家康が強かったからというより、家康に困り事がなかったからです。この二人を並べると、臣従という言葉のなかに、まったく性質のちがう取引が二つあったことが見えてきます。

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