丸亀城は、石垣の高さが日本一といわれる城です。ただしこれは一枚の壁が六十メートルあるという意味ではなく、麓から本丸まで四段の石垣を積み重ね、その総高が六十メートル前後になるという意味。下から見上げると、扇の曲線を描いた石の壁が何段も重なって空へ続いていきます。ところがその頂上に建つ天守は、現存する十二の天守のなかでいちばん小さい。日本一の石垣と、日本一小さい天守。この落差こそが丸亀城のいちばんの見どころで、しかもそこには一国一城令で一度この城が消されたという事情が絡んでいます。
- 四段に積み重ねた石垣の総高は六十メートル前後。日本一とされる
- 天守は三層三重。現存十二天守のなかで最も小さい
- 生駒氏が高松城の支城として築き、一国一城令でいったん廃城になった
- 山崎家治が再築し、京極家が六万石で入って明治まで続いた
- 大手一の門・二の門と天守が現存し、いずれも重要文化財
日本一高い石垣とは、どういう意味か

木立の上に小さく天守が顔を出す。手前の緑に隠れているが、この斜面がまるごと四段の石垣で固められている。
丸亀城が建つのは亀山という小さな独立丘で、高さは六十メートルほどしかありません。城としてはむしろ低いほうです。ところがこの丘を、麓から順に三の丸・二の丸・本丸と段を切り、それぞれの段の縁を石垣で立ち上げていったため、結果として石の壁が四重に積み上がることになりました。一段一段は二十メートル前後でも、下から見上げれば石垣がずっと続いて見える。これが「日本一高い石垣」と呼ばれる理由です。写真のように木が茂っていると気づきにくいのですが、この緑の斜面の下は、ほぼ全面が石で覆われています。石垣そのものの美しさで知られる城は多くありますが、量でここまで押してくる城はそう多くありません。同じ四国では今治城が水堀と石垣で平地を固め、丸亀城は丘を石で包んだ。地形に応じて答えの出し方が変わるのがよくわかります。
扇の勾配 ― 下は緩く、上は垂直に
丸亀城の石垣を横から見ると、下のほうは緩やかに傾き、上へ行くほど立ち上がって、最後はほとんど垂直になっています。この曲線を扇の勾配と呼びます。理屈は二つあって、ひとつは強さ。裾を広げれば土圧を受け止めやすく、崩れにくい。もうひとつは登れなさで、途中までは登れても最後の数メートルで手がかりを失い、必ず落ちる。石を積む技術が成熟しないと描けない線で、丸亀城のそれは全国でもとくに美しいとされています。石垣の積み方は時代によって変わっていき、観音寺城のような自然石を重ねただけの古い石垣から、切石を噛み合わせる新しい段階まで幅がありますが、丸亀城の扇の勾配はその到達点にあたります。ちなみに近年、豪雨と台風の影響で城の南西側の石垣が大きく崩れ、時間をかけた積み直しが続いています。石を一つずつ番号をつけて外し、また元の位置へ戻すという気の遠くなる作業で、築いたときの手間がそのまま復旧の手間になっているわけです。
現存十二天守でいちばん小さい天守

木々の上に姿を見せる天守。三層で、二層目の正面には丸みのある破風が付き、白い壁に黒い格子窓が並ぶ。
本丸に建つ天守は、現存する十二の天守のなかで最も小さいものです。城跡に立つ案内板には、江戸時代初期の建築で三層三重の櫓、屋根は入母屋造の本瓦葺、壁は総塗籠、軒は波形で、二層には石落としと腰羽目の板張りが付く、といった内容が記されています。写真を見ると、二層目の正面に丸みを帯びた破風が付き、三層目には小さな窓が並んでいるのがわかります。装飾は控えめで、大きさもささやかですが、逆にいえばこれが江戸時代初期の櫓建築そのままの姿です。国宝の犬山城天守とくらべても、丸亀城の天守は一回り小さい。なぜこんなに小さいのか。答えは城の歴史のほうにあります。

天守のそばに立つ案内板。「丸亀城天守閣」と題し、三層三重の櫓であること、入母屋造の本瓦葺であることなどが手書きで記されている。
一国一城令で一度消えた城
丸亀城をはじめに築いたのは生駒親正です。秀吉から讃岐を与えられた親正は高松城を本城とし、西讃岐を押さえるための支城としてこの亀山に城を構えました。ところが元和元年の一国一城令で、一国に城は一つと定められます。讃岐の城は高松城と決まった以上、丸亀城は不要になり、廃されました。このときすっかり壊されたのか、樹木で覆って見えないようにしただけなのか、言い伝えには幅があります。その後、生駒家自体が家中の争い(生駒騒動)で讃岐を追われ、讃岐は二つに分けられました。西讃岐五万石に入ったのが山崎家治で、家治は廃城になっていた丸亀城を大がかりに築き直します。いま残る石垣の多くはこの時期のものです。ところが山崎家も三代で絶え、代わって京極高和が六万石で入りました。天守が建てられたのはこの京極時代で、つまり丸亀城の天守は、藩の財政にも幕府への遠慮にも制約された時期に建てられたことになります。堂々たる五重の天守を上げるわけにはいかない。小ささには、そういう事情がありました。京極家は浅井三姉妹の次女・初が嫁いだ京極高次の血筋にあたる家で、以後明治まで丸亀を治めます。同じ京極家は一時期松江城も預かっていました。
石垣を登った男 ― 羽坂重三郎の伝説
天守から見える瀬戸内

天守の軒越しに見下ろした眺め。まっすぐな道が海へ向かって伸び、その先に瀬戸内海と島影が広がる。
天守に上がって窓から外を見ると、写真のような景色が広がります。市街の向こうに海があり、島が浮かび、晴れていれば対岸まで見える。丸亀は金毘羅参りの玄関口として栄えた港町で、城下から金刀比羅宮へ向かう道が海からまっすぐ伸びていました。城の役目は敵を見張ることだけではなく、この港と街道を押さえることでもあったのです。石垣の高さも、天守の位置も、この眺めを確保するためだったと考えると腑に落ちます。四国の城はどれも海との距離が近く、徳島城も大洲城も、水運をどう押さえるかという課題を抱えていました。丸亀城の答えが、この高さです。
訪ね方と見どころ
所在地は香川県丸亀市一番丁。JR丸亀駅から歩いて十分ほどで、日本100名城の七十八番です。順路としては、まず北側の大手から入ります。大手一の門と二の門はどちらも現存する建物で、重要文化財。二の門をくぐって一の門へ抜ける枡形の構えが、そのまま残っています。そこから見返り坂という急な坂を登っていくのですが、この坂がかなりきつい。名前の由来は、あまりの急さに振り返ってしまうからとも言われます。登り切れば三の丸、二の丸、本丸と段が重なり、頂上に天守。天守の入口は驚くほど小さく、かがんで入ることになります。帰りは石垣を下から見上げるために、城の南側や西側へも回ってみてください。扇の勾配は、離れて横から見たときがいちばんよくわかります。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。
- 四国平定・九州平定 ─ 総大将・秀長が輝いた天下統一の総仕上げ
- 長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのか
- 豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか
- 第36回「姫若子と鬼若子」─ 四国攻めはなぜ二か月で終わったのか
- 十河存保とは何者か ─ 阿波と讃岐を失った三好最後の大将
- 湯築城跡(伊予)─ 石垣も天守もない河野氏の城
- 一宮城(阿波)─ 秀長の本隊が取りついた山城
- 勝瑞城跡(阿波)─ 土塁を持たなかった三好氏の館
- 仏殿城跡(川之江城・伊予)─ 四国の十字路
- 白地城跡(阿波)─ 元親が四国経営の根拠地とした城
- 来島城跡(伊予)─ 潮が守った村上水軍の島
丸亀城・場所とアクセス
〒763-0025 香川県丸亀市一番丁
